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第3章 内緒だと美女は言う 1 ヨナとミシュラン

ヨナはここ数日、ずっと文句を言っている。


「もーやだなにこれ。いつまでやんの。自分が陽性だってことくらい、毎日毎日採血されなくたって鏡見ればわかるよ……」


千畝は黙ってうなずいた。赤い首輪は少年の細い首にやけに似合って可愛かったが、それは言わずにおく。


「そろそろ限界……面倒くさいことの代名詞として一週間検診を辞書に載せることを提案する。行けば行ったで、ぶすがぶすぶす俺を刺すしさ……」

千畝がなにも言わずにいると、ヨナはややしてから両手でわっと顔を覆った。


「今のおやじギャグ俺が言ったの? ヤダもう最低、死んじゃいたい」

「ええと……」

ショックを受けているらしい少年に、千畝は言葉を探した。


(疲れているんだよ? ……違うそれじゃ色々肯定したことになっちゃう)


慰めなんかより、もっと、ぱっと気持ちが明るくなるようなことを言ってあげたかった。ぶつぶつ文句こそ言うものの、ヨナはここに来てからずっと言われたとおりに検査をこなしていたし。

そうでなければ、ヨナが元気よく憎まれ口を叩けるような、ものすごく馬鹿なことでもいい。


(ええっと……)


だがいくら探したところで、千畝にはとっさにそんな会話ができるようなスキルはなく、そうこうしているうちにヨナはひとり反省するように大きなため息をついた。


「俺、検査、行ってくる……」

「……い、行ってらっしゃい」


こんな時、カノがいてくれたらいいのにと思った。

カノならきっと、ヨナが一瞬ぽかんとするほど乱暴なことのひとつも言ってくれる。


(本当に、いてくれたらいいのに……)


カノと南雲は、最近ずっと留守をしている。

あの街から帰ると、次の日にはもう別の現場へ飛んで行き、それからずっと帰ってきていないのだ。


いのりが教えてくれたことだが、情報統制が行われているためニュースにはならないが、全国各地で変異体は増えているし、それを保護できる人材の数は少ないしで、カノも南雲も忙しいらしい。ヨナはというと、はじめて会ったいのりに一瞬言葉も出なかったようで、ぽかんと彼女のことを見上げたまま、魂を抜かれたような顔をしていたのがおかしかった。


(カノはどうしてるだろう……ケガとかしてないといいけど)

南雲がついているし、めったなことはないと思うのだが、あまり何日も続けて帰ってこないとやはり心配も募る。

(元気でいるなら……それでいいけど……)


あの後、千畝は家族へ当ててメールを書いた。

メールというか、厳密には手紙だ。千畝が直接家族や友人と連絡を取ることはできないため、自分で書いた文章を事務所のスタッフに手渡すと、スタッフが事務所のパソコンから送ってくれる仕組みだ。

事務所のスタッフは、一応規則だからと内容に目を通してから、問題ないのでこのまま送っておくと言った。


『お母さん、元気にしてますか。お父さんも元気ですか。とりあえずこちらは元気だよ。今は一通り検査が終わってのんびりしているところです。そっちはどうですか──』


書いたのは、そんな当たり障りのない内容だった。

返事はまだ、来ない。


(元気なら……いいんだけど……全然)


◇◇◇


時は数日さかのぼる。

ヨナが研究所へ来た最初の朝のことだ。


「なにあれ……タイヤメーカーのキャラクター?」


検査のため、千畝に連れられて医療棟へと赴き、医療スタッフと対面した少年の第一声はそれだった。


「こ……こらっ」

千畝は止めたが、遅かった。


確かにその女性は思わず凝視してしまうほど太っている。

デブかそうでないかと言われれば、迷うことなく前者の方だ。歩くと肉がゼリーのように揺れたりもする。だとしても。


女の人にそういうこと言っちゃだめ。たとえ本当のことでもだめ。

千畝はたしなめたかったが、まさか本人を前にして言えるはずもなく、できたことといえばせいぜい、少年をにらんで表情で叱るくらいだった。


しかしヨナは千畝のほうなど見てもおらず、目の前の巨体の女性に目が釘付けになっている。


言われた本人はというと、黒ぶち眼鏡を指でちょっと押し上げると、机のペン立てから中太の油性マジックを取り上げ、入館証兼身分証を入れたソフトケースに名前の文字が見えなくなるほどみっしり、『ミシュラン』と書き、それを再び白衣の胸元からぶら下げた。その間、表情は微塵も動かさない。


「与永小太郎くんですね、ミシュランです」


(あわわ……)

千畝は冷や汗が出そうだったが、ヨナはげらげら笑っていた。うける、自分で言っちゃうんだ、マジ面白いねここの人って皆。


自らミシュランを名乗った彼女は、特に怒るでもなく、かといって笑うでもなかった。

気を悪くしてやしないかと千畝は彼女の表情を伺ったが、ぶ厚い眼鏡のレンズは蛍光灯の明かりが反射して感情は読めない。


「これから一週間、私があなたの血液検査とワクチン接種を担当します。もし、そのあとがあれば、そのあとも」


──もし。

彼女はそう言った。


ヨナは聞き流していたようだが、千畝はわずかに引っかかりをもってその言葉を反芻した。──もし、ってなんだろう?


「それから慣例として、これからあなたのことは下の名前で呼ばせてもらいます。……もう聞いているかもしれませんが、フルネームから素性を推測されることを嫌う人もいるので、配慮の一環として、そういうことになってます」

「あのさあ、聞いたけど、それなんだけど」

変異した牙を持っているにしてはきれいな滑舌で、ヨナが言う。


「俺のこと、名字で呼んでくれないかな」

「どうして?」

反論ではなく、ただ尋ねる聞き方でミシュランは言う。


「……きらい、だから」

「そうですか? いい名前だと思いますけれどね。──コタローくん。呼びやすいし」

「ならいーよ」


ミシュランの語尾に重ね気味にヨナは言った。納得して受け入れたのではなく、もうそれ以上その件で話をするのも嫌だから話題ごとぶつ切りにしたというような口調で。

「──どうでも」

小さな声で投げやりにつぶやいたのを、千畝の耳は聞き逃さなかった。


◇◇◇


その後ヨナはというと、退屈な検査を順調にこなし、迷路のような入り組んだ道順もすぐに覚えて、千畝がいなくてもひとりでどこでも行けるようになっていた。


それでも千畝は、午前と午後の二往復、ヨナの検査の行き帰りにつきあう。

それはヨナが検査室では文句ひとつ言わないと聞いたからだった。


──大人しい、というよりは、静か。

ヨナを称してミシュランは言った。


──私の経験では、ああいうのは素直とは言わないんですよね。あれは、言いたいことがあっても溜めこんで言わずにいるだけ。


ミシュランはそう言ったあとにすぐ続けて、「まあいいんですけど」と肩をすくめた。

よくはない……んじゃないかと千畝は思う。

だから毎回一緒に行き帰りしているのだった。

ヨナがぶつぶつ文句を言うのは、自分の前でだけだと知ったからだ。


「もー……ほんと、いいよ? 送り迎えしてくんなくてもさあ」

ヨナは今日もぶっきらぼうに言う。


「俺もう道覚えたもん……それに子供じゃないんだし」

子供扱いはしてないよ、と千畝は隣を歩きながら言う。


「毎日決まった時間にやることがあったほうが、私は楽なタイプなんだ。それに歩くのはいい気分転換にもなるし」

「ふうん……」

「たくさん歩いた方が夜もよく眠れるしね」


じゃあ別にいいけど、とヨナはつぶやく。

そっけないけれど、嫌がっている感じはしなかった。

彼はただ、子供扱いされるのが嫌なだけだ。


──考えてみれば不思議なことだった。

ヨナの気持ちは、千畝は手に取るようにわかる。


(初めてあの公園で会った時から、そうだった)

ヨナが誰も殺していないと、誰に教えられたわけでもないのにはっきりわかった。

悲しみと、一途な思いを抱えていて、誰にも危害を加える気がないことを。


(そして……今も)


ヨナはミシュランの待つ研究室へ淡々と入っていく。

その様子はいたって落ち着いているように見えるが、千畝には、その背中に強い拒絶が浮かんでいるのが見てとれた。

不安、絶望、恐怖、そしてそれを相手に気取らせまいとして堅固な壁を築いているということが。


どうしてヨナのことはこんなにわかるんだろう、と千畝はヨナに続いて研究室に入っていきながら思った。

いのり、ミシュラン、南雲、カノ。その他もろもろの事務スタッフのことを思い浮かべても、なにを考えているのかわからない場面は多々ある。

わかるのは、ヨナだけだ。


(あ、いや……違うか)

 はじめてここへ来た日、一緒にいた親子のうちの子供のほう。

 変異がずいぶん進んでいた、あの子の気持ちもなぜかわかった。


(どうしてなんだろう……)


「あらおはよう、コタローくん。今日も時間ぴったり」

「……どうも」

見ていると、ヨナは下の名前で呼ばれてもひとまず返事を返している。


「昨日の検査結果が出てるから、今日は次の項目からね」

「ん」


ミシュランがヨナに検査概要の記された用紙を手渡して、今日の検査についてひとつひとつ確認しながら同意を取り始めたのを見て、千畝はそっとそこから離れた。

立ち去り際、振り返ってもう一度様子を伺うと、彼は静かにうなずきながらミシュランの話を聞いている。

だがその背中にはやはり、決して相手に自分の内側をのぞかせまいとする拒絶の気配が浮かんでいるのだった。


その背中を見ていると、中学生の頃のことが思いだされた。

理科の喜多嶋先生の言葉をまだ聞いておらず、クラスでの居心地が悪かった頃だ。

誰かと特に仲が悪かったかと聞かれると、そんなことはない。


おそらく傍目には千畝は、「派手ではないけれど、誰とでもよく話す平均的な生徒」と思われていたはずだ。

だがそれは、千畝自身がそう見えるように気をつけて振る舞っていたからだ。

クラスで流行っていたゲームも、足並みそろえる形で参加はしていたものの、本心ではやりたくなかった。


ミシュランといる時のヨナを見ると、その仮面のかぶりかたがかつての自分とそっくりだった。

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