第2章 謎解きなんかじゃない 8 守りたかった人
車の中で読んだ目撃情報は、この公園まわりに限られていた。それはもうくっきりと、線でなぞったみたいに。
どうしてだろうと思っていたのだった。意思をもって出没しているとしか思えない。
「このあたりは、駅への近道ってわけでもないし、飲食店街もないからもともと人通りは住民以外多くないはず。──ということは、あなたが守りたかったのは、この辺に住んでる人なんじゃないかなって」
「うるさい!」
早口で、かぶせ気味に言った声が本気だった。
「うるさいだあ?」
カノが眉をぴくりとさせる。
「お前に口答えする権利なんざねーんだよ。つべこべ言うな、さっさと話せ」
カノはじたばたするもう一体の変異体を足で押さえつけて腕組みする。組んだ腕の隙間から、黒光りする爪が脅すように揺れている。
「さっさと話さないとー、このあたりのマンションに片っ端から押しかけてーの、お前の写真も持ってーの」
「やめろ!」
ああ、そんなつもりじゃないのにと千畝は思った。
意図せずして、刑事ドラマの、怖い刑事とやさしい刑事の役割分担みたいになってしまっている。
「俺が話せばいいんだろ……」
悔しそうに顔を歪めて、少年はぽつぽつと話し始めた。
自分の姿が目撃されて『ヒトクイ』が出ると噂になれば、近づく人が減ると思ったこと。子供の頃からかかりつけだった女医さんのマンションがすぐそばで、心配だったこと。自分で退治しようと思ったが、力の差があって無理だったこと。
「やっぱり、その傷……そうだったんだね」
「前に聞いたことあったから。先生、クリニックと同じマンションに自宅もあるって。……この辺は安くておいしい店がないから、いつも自炊してるって。診療時間終わってからだと遅いけど、公園を突っ切ったところに二十四時間営業のスーパーがあるから助かってるって」
なるほど、と千畝は思った。
「その人を……守ろうとしてたんだね」
「本人に直接言ってあげたらいい話では?」
心底解せないという顔で南雲が言うのを、少年はきっとにらんだ。
「仕事は医者でも女の人だろ! 俺こんな見た目だし、怖がらせたら可哀想だろ!」
仮にも医療従事者、そこまでか弱くないと思うんですけどね……女性だからか弱いとも限らないし、と南雲はぶつぶつつぶやいた。
「もう俺は先生に会えないけど……でも、お世話になったから。俺がなにかできることって、そのくらいだから……」
少年の一途で切ない気持ちが伝わってきて、千畝は胸がきゅっと締め付けられる思いだった。それなのにカノは、
「開業医つったら三十代前半から四十代ってとこだよな。うっわ、お前それ何歳差? 守備範囲広いにもほどがなくないか? 熟女趣味にしても、ものには限度っつうのがあってだなー」
そんなデリカシーのないことを言うものだから、「カノっ」と、千畝は尖った声でたしなめた。
「殺してやりたい、その下世話な生き物」
少年はうなるような低い声で言う。伸びた犬歯が下の歯に触れてカチカチと音を立てる。
「けど、そのクソ下品な挑発にのって俺が飛びかかったら、その後ろの人に速攻撃たれんでしょ。わかってるよ」
「おおー」
カノがぱちぱちと手を叩く。爪のせいでぱちぱちと音はならず、まるでカニがはさみを振り上げているようなガシャガシャという音だったけれど。
「状況判断は適切にできています。怒りを抑えることもできてますね。うん良いです……変異は進んでいるようですが、トータルで見て、フェーズ2ないし3ってとこですか。……非常に良い。保護対象です」
南雲は手放しで褒めながら手元の端末を操作する。端末が小さく音を立てるのと同時に、少年の首輪が呼応するように小さく点滅してから、軽い音を立ててロックされた。
端末画面から目を離さないまま南雲は言う。
「社内規定に則って、同意を得させてもらいますね。──略式として、口頭で。はいか、いいえで答えてください。あなたは研究所で発病を抑えるワクチン投与を受けるつもりがありますか?」
「って言うか、それよりほかに行くとこないんでしょ。形式の会話する意味なくない」
「はいか、いいえで」
「はーいはい」
「今後は当施設で生活し、定期的な治療を受けるつもりがありますか?」
「はいはい」
「結構です。我々は責任をもってあなたを保護します」
「保護っていうかさ、捕獲と監禁だよね、これ。こんなのつけられてる時点でさ」
少年は赤い首輪と皮膚の隙間に爪を差し込んで言う。
「その、規則だから……ごめんね」
慰めたつもりの千畝のことを、少年はじろりとにらんだ。
「俺あんたみたいなひとだいきらい」
「きら……」
多少の憎まれ口では動じていないつもりだったが、大嫌いと正面切って言われるのはさすがに堪えた。今は誰かに当たらずにはいられないのだと、頭ではわかっていても胸のあたりがひやっとする。
「真面目でさ、いい子でさ、虐めなんてしたこともされたこともないかわり、どうしても譲れないくらい誰かに執着したこともないだろ。あーあ、健全!」
「うっ……」
けんっぜん、と発音してぷいと横を向いた少年に、千畝はなにも言い返せない。
ものすごく痛いところを突かれたような気もするし、なにか反論したいような気もする。
黙っている千畝に南雲は言った。
「健全なの、僕はいいと思いますよ」
「南雲さん……」
「というかそんなの、褒め言葉以外になにがあります? 僕は好きですよ、健全さも、真面目さも、頑張り屋なところも」
正面から褒められて、千畝は少し赤くなる。
「あの、私……真面目なところも頑張ってるところも、見せた覚えないと思います……けど」
「そんなの。一緒にいればわかりますよ、自然と」
ね、と眼鏡の奥で涼しげな瞳が笑っている。
なにを調子のいいこと言ってんだよお、とそこに少年が割って入った。
「好きなのは、その方が自分の都合よく扱えるからに決まってるだろ。真面目で、健全で、頑張ってるやつの方がさあ!」
「うーんそうきますかー」
南雲は困ったように笑っている。
千畝がなんと返したらいいかわからないでいると、少年はぐっと踏み込んで近づいてきて、ほとんど真下から千畝のことを見上げた。
「あんた俺より年上でしょ。お姉さんのくせに、こんな腹黒そうな奴の言うなりになってたらだめじゃない?」
「言うなり……」
「まさか、顔に騙されてんの? だとしたらちょっとチョロすぎない?」
(なんか……さっきから私、あんまりな言われようだ……)
千畝は内心落ち込んだが、南雲はというとそんな様子は少しも見せずに二人を公園の横に停めたワゴン車へと誘導する。
「じゃ、とりあえず目立たないようにこっちへ……って、あれ? カノはどこへ消えたんでしょう。さっきまでそこにいましたよね?」
「あの女なら、あんたが機械いじってる間にもう一匹連れて消えた」
「ええっ、いつの間に……ってうわあ、カノにワゴン車乗っていかれた……」
停めておいたはずの車が消えているのを見て、南雲がげんなりとうなだれた。ひひひ、バーカ、と少年が笑う。
人目を避けて公園の敷地にいた千畝は、ふと、ひとりの女性がこちらをしきりと覗き込んでいるのを見つけた。
身長はさほど高くない。千畝の母親と同じ年頃の大人の女性だったが、小さな頭部と清潔感のあるショートカットが、その人を少女めいて見せている。
もちろん彼女は規制を守って黄色いテープの向こう側にいるのだが、その様子がいかにも心細そうで、もの問いたげに見えたので千畝は少し迷ってから歩道を越えて女性の方へと渡っていった。ちょうど警察もそばにいない。
「ええと……」
本当はあまり南雲から離れてはいけないとわかってはいたけれど、あまりにも、その人がひとりぽつんと不安そうな顔をしていたので、放っておけなかったのだった。
「あのう……どうされましたか」
声をかけて近づいた拍子に、その人から、わずかに消毒薬の匂いがした。
あっ、と千畝が思った時。
その女性が、見た目の少女っぽさとは裏腹な、落ち着いた知性を感じさせる声で言った。
「この辺、なにかあったんですか」
「規制線が張られているからですか?」
「それもありますけど」
化粧っ気のない、形のよい耳を出したショートヘアが似合うその女性は、今日の夕方からこの公園が立ち入り禁止になっていたこと、ニュースを見てもなんの情報も得られなかったこと、警察に尋ねたが素っ気なく追い返されてしまったことなどを順序良く告げた。
「さっきは悲鳴みたいなものも聞こえたし……この辺は、私のクリニックに通う患者さんが使う道でもあるので、気になって」
この人だ、と千畝は思った。
買い物帰りらしく、野菜や魚のパックが入った袋をぶら下げているこの人が、あの少年が守りたかった人なのだ。
「大丈夫です」
ワクチンを打っていてよかった、と思いながら千畝は言った。
私の目が白濁していなくてよかった、あの子があんなに懸命に守ろうとした人を、私が怖がらせなくてよかった。
「詳しくは申し上げられないんですが、もう危険なことはないですし、公園の立ち入り禁止も明日の朝には解除されていると思います」
その人はまだなにか聞きたそうだったけれど、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「もうなにも起こらないと思います」
千畝は重ねて言ってから一度深いお辞儀をすると、もときた道路を渡って南雲たちのいるところへ戻る。
少年は自転車止めの柵に足を伸ばしてもたれており、南雲はというとせわしなく誰かと電話していた。ええ、ですからもう一台。至急、車をこっちに回してもらえますか……そうそう、カノが。片手で変異体を押さえつけて片手で運転を。信じられませんよあの車マニュアル車なのに。
少年の背中は丸まっている。
疲れているだけにも、落ち込んでいるようにも見える背中だった。うつむいているせいで表情は見えない。
「君は、すごいね」
あの人を守ろうとして行動したんだと思ったら、口にせずにはいられなかった。
(この子は勇気を出したんだ。自分以外の誰かのために。こんな……小さな体で)
背中にそっと手を置いて千畝は続ける。
「年下だけど、私は君を尊敬するよ。自分にも大変なことが起こってるのに、他の誰かのために行動するなんて、なかなかできることじゃないもの」
お母さんに、メールを出してみようかな、と思った。
通信可能な電子機器は所持できない決まりになっているけれど、事務所を通してなら家族や友人にも連絡することができる。向こうからメールを送ってもらうことも可能だと、入所の際に説明されたのだ。
今までは、母から連絡がないことを悲しく思っていたけれど、メールは自分から出したっていい。
この少年を見ていたら、そう思えてきたのだった。
(そうだ、勇気はどっちが先に出したっていい……)
「私も、君みたいに考えてみるよ」
少年は答えない。身じろぎすらしない。だが、長めの前髪で隠れたあたりから、透明なしずくがポタリと落ちたのを千畝は見てしまった。
「……こっち、見んな」
「うん」
南雲は誰かと電話しながら少しずつ場所を移動している。その背中を見ながら千畝は少年の真横に立った。少し考えてから、自分から手をつなぐ。
「行こう」
「行こうって……」
涙声なんかではなかった。むしろぶっきらぼうなくらいだった。
「車、足りないんじゃなかったの。さっきそんなこと言ってたけど」
「うん、でも南雲さんがすぐ研究所と連絡とってたし……今、大通りの方に向かってるってことは、そのすぐそばを走ってる車を捕まえられそうだってことだと思うんだよね。……あ、ほら、誘導してる」
ケケケ。涙の気配を払うように少年は笑った。
「あいつ、頭良さげにしてるくせして、抜けてんの」
「うーん、カノの行動を予測するのは難しいって、出掛けにいのりさんも言ってたからなあ……」
「誰、それ」
あの女の友達? と尋ねられて、うんそう、と千畝はうなずいた。
「ふぅん……」
「きれいな人だよ。さっきのクッキーもその人が作ったの」
あとで紹介するねと千畝が言うと、少年はまたしても、ふうん、と言った。
あの獣女の友達なんだとしたら期待しないでおこう、と思っているのが丸わかりの、気のないふうんだった。
手をつなぐと、変異の進んだ少年の手は少し硬くてかさついている。
千畝はそれをぎゅっと握りしめた。私があなたを怖がってないことが、どうか、伝わりますように。
「──痛いよ」
「あ、ごめん」
「逃げたりしないって」
「そういうことじゃないけど……あそうだ、名前、なんて呼べばいいの?」
「──ヨナって」
「よな?」
名字かしら名前かしらと千畝が考えていると、その気持ちを読み取ったように少年は説明した。
「それ名字。与那国島の『与』に永久の『永』で、与永。仲いい奴はみんな略してヨナって呼ぶから……」
なるほど、と千畝はうなずいた。
「じゃ、行こうか、ヨナ」
千畝が歩きだすと、少年は素直についてきた。
「食事はものすごくおいしいから期待してていいよ。中は広くて、迷路みたいでね……山を突き抜けた渡り廊下があるの」
気がつくと、入所時にいのりが言ってくれたことを今度は自分が言っていた。
「プールがあってね、夏は自由にそこで泳いでいいんだって。よかったら一緒に泳ごうか。あと……花火もしよう」
返事はなかったが、手を振り払われもしなかった。
だから千畝はずっと話し続けた。
静かに泣いている少年の顔は見ないで、前だけ見て。
今の彼に自分がしてあげられることは、それくらいしか思いつかなかったから。
だからずっと話し続けた。
濃いスモークを張った車がもう一台到着して、三人でそれに乗りこみ、その街を離れてしまうまで、ずっと。