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第2章 謎解きなんかじゃない 7 赤い首輪

受け取るには受け取ったものの、少年はそれをつまんだまま口に運ぼうとはしない。

なにか考えているような沈黙に、千畝は付け加えた。


「別に変なもの入ってないよ。なんなら一緒に食べようか? ……どこか割って渡してくれたら私それ食べるし……」


返事はやはりない。

少し待ったが、千畝はどうしても確かめたい気持ちがせりあがってくるのを我慢できず、聞いてしまった。


「三人殺したの、君じゃないよね?」


えっ、というように少年の眉がひそめられる。

変異体の表情は読みにくいだなんて、誰が言ったんだろう。


「この公園にもうひとりいるほうの変異体が、ずっと襲ってたんじゃないの? ……それで」


この先は本当に想像でしかない。


車の中で見た事前資料と、このあたりの街並み、それと今目の前にいる少年の様子から導き出したただの想像だ。この距離まで近づくと、少年のシャツがあちこち破れているのや、そこから血が滲んでいるのが見てとれる。

千畝は迷ったが、思い切って言うことにした。


「もうひとりが人を襲うのを……あなたが、止めてたの?」

「なんで……」

千畝に聞かせるためではなく、思わず口をついて出た、というようなかすかな声だった。

(やっぱり、そうなんだ)


はじめは、どうしてそんなふうに思うのかわからなかった。

だがこうして近づいて、話しかけてみるとよくわかる。


南雲が言うように理性をなくしているのなら、千畝が近づいた時、逃げるか襲うかしたはずだ。だがこの少年は、おそらく自分も不安だったろう気持ちを押し殺して、千畝が近づくのを許してくれた。それにクッキーを受け取る時のあの気遣い。あれらは理性が強く保たれていることの証明ではないのか。


ひとつわかると、ここへ来るまでは単なる点だった疑問が頭の中で見る見るうちに明らかになり、そしてつながり、ひとつの図形を形作る。それが間違っていないことを証明したくて、千畝は続けた。


「ここからそう離れてない場所にも、大きな自然公園があったよね。身をひそめるならそっちの方がいいでしょ」


これも基礎レクチャーで習ったことだ。変異体は群れないし、つるまない。縄張りは広い。

人としての意識を失えば失うほどそうなのだそうだ。


変異体が二体いるとわかった時、千畝の中でまず沸いた疑問はそれだった。

──この公園は、変異体が二体身をひそめるには、狭すぎるのではないか?

なぜ、こんなところに二体も?


「それなのにここにいるのは……なにか、ここにいる必要があったからでしょう。それは、もう一人が人間を襲うのを止めるため?」

返事はない。


「でもそうだとすると、ひとつわからないことがあるの。私はそれをあなたに教えてほしくて……」

そこまで言った時。


少年のお腹が、ぐう、と音を立てた。それはもう聞き間違えようもなく。

少年はさっと胃のあたりを片手で押さえてそっぽを向く。


「あっごめんね、一方的にずっとしゃべってて。……どうぞ、食べて?」

少年が気まずそうにしているので、千畝は続ける。


「それ手作りなんだ。美味しいよ。──多分」

食べていないからわからないが、いのりが下手なものを作るとも思えない。

すると、少年が口をひらいた。


「餌付けかよ」

それは見た目の獣っぽさとは裏腹に、澄んで、耳に心地よい声だった。


千畝は慌てて手と首を一緒に振る。

「いや、そういうつもりでは……」

「お前が作ったの?」

滑舌も確かで、言葉は聞き取りやすかった。


「いや、それも違くって……」

「ふうん」


ざくっ、と咀嚼する音を頭の上で聞きながら、千畝は他の二枚も差し出した。変異した爪ではリボンをほどきにくかろうと、包装もはがしてから手渡す。


がっついた様子は見せないものの、それでもやはり相当空腹だったのだろう。少年はあっという間に三枚全部食べ終わると、ごちそうさま、というように両手の平をそっと合わせた。


「あの……」

「俺さあ」

千畝が言おうとしたのと少年の声がかぶる。


「俺、体弱いのがずっとコンプレックスだった。なのにこんな体になったら、夜じゅう外にいても風邪ひとつひかないし発作だって一度も出ない。それどころか筋力も脚力もケタ違い。……皮肉だよね」

千畝は言葉を探したが、結局なにも言えなかった。すると少年はころりと話題を変える。


「お前、料理とかできる?」

「いや、えっと……あんまり自信ない、かな」

千畝は視線をそらし気味にして答える。


自信ないどころか、ほとんどできない、が正解だった。千畝の料理スキルはせいぜいが学校の調理実習で得たものですべてだったし、千畝の母は料理上手だったので手伝う機会もなかったし。


「いい年して料理ができない女は女じゃない」

「ぐっ……」


憎まれ口をきかれて千畝は返す言葉に詰まった。

確かにその通りなのだが、初対面の相手に言われるにしてはあんまりな言われようじゃないだろうかと千畝がひそかにしょんぼりした時。


ギャーッと鋭い悲鳴が聞こえて、千畝ははっとして声のした方を見る。

カノの声ではない。一般人の声でもない。

それはもっと、人とはかけ離れた生き物の声だった。


カノだ、と千畝は思う。カノが、もう一人を捕獲したのだと。

公園の静寂を切り裂いて、悲鳴は何度も繰り返される。争っているような、必死で抵抗しているような。


「──捕まえたの?」

「そうですよ」


少年の問いに、いつの間にか千畝の近くまで来ていた南雲が答えた。

南雲はいつでも発砲できるよう、麻酔弾入りの銃を油断なく構えている。


「ふうん」

銃など目に入ってもいないように、少年は手についたクッキーの粉を払うと、これうまかったよとつぶやいてひょいと大岩から飛び降りた。


「……それじゃ、行くか」

すぐ横に並んだ少年の身長は、千畝の二の腕あたりまでしかない。


「えっ……どこに」

思わず聞き返した千畝に、少年は、はぁ? とでも言いたげな呆れた表情を見せる。

「あんたバカなの? いったいなにしにここ来たの?」

「なにしに、って」

「俺を捕まえるんでしょ。違うの」

違わない。違わないのだが──。


少年はずかずか南雲に使づくと、片手を突きだした。

「首輪つけるんだろ、捕まえる時は。持ち歩いてるんだろどうせ。……貸せよ!」


南雲は銃を構えたまま目をぱちぱちさせ、そうですけどなんでそれ知ってるんですかねえ、とつぶやいた。今まで以上にネットの情報管理を徹底させないとダメみたいですね、とも。

それでも赤い首輪をポケットから出して手渡す。

「はい、どうぞ」


少年がばちんと音をさせて首輪をつけたのを見届けて、ようやく南雲は銃を下ろした。思わずと言ったように声に出す。

「自分でつけた人ってはじめてですよ」

そんな南雲を少年はじろっと見上げた。


「いいだろ別に。……どこでも行ってやるからさっさと連れて行けよ」


「そう簡単に終われると思うなよ?」

ガサガサと音をさせて、大岩の背後の草むらからカノが現れた。


──右手には、暴れる変異体を一体引きずって。

「きゃっ」

千畝は思わず声をあげてあとじさってしまった。


怖い。──そう思ったのだった。

その個体はひどく興奮して、暴れていて……隙あらばカノを攻撃しようとして歯をむきだしたり鋭い呼気を吐いたりしている。

その白濁した目をひとめ見て、千畝は自分の考えが正しかったことを再確認した。


この変異体と、この少年とは、まるで違う。

だってこの個体の目を見てもなにも伝わってこないし、そもそもまともに目が合わない。


「だぁもう、懲りねえなあ、あたしには勝てないの、お前の方が弱いの。まだわかんないの?」

カノは暴れる個体を片手と片足でその都度器用にねじ伏せながら、少年の前に仁王立ちになった。


「話せ」

暴れる変異体を踏みつけて、どこかの国の殺戮の女神みたいな恰好でカノは続けた。


「まだなにも判明してねぇのに、てめえの都合で勝手に終わった気になってんじゃねえぞ、ガキ。まずは名前からだ。なぜ学校で検診を受けない? 親は知ってるのか? 家出中に発症して帰れなくなったのか、それとも引きこもりか、どっちだ?」


一切なにも聞こえていません、というように少年がつんとして答えないのを見て、カノは声に甘い殺気を漂わせた。

「おやおや、お返事はなしですかあ」


「──えらそうなんだよ」

少年はカノのことを一瞬だけ見て、またぷいと横を向く。

「自分こそ獣ババアのくせに、なにを上からな」

「ほほう」

猛獣の本領発揮といった感じで、カノは白い牙をむき出しにして笑った。


「いーい度胸だ。泣いたり笑ったりできなくしてやる」

長さも厚さもある爪を見せびらかすようにして言うカノと少年の間に、千畝は割り込んだ。

「なに邪魔してんだよう」


「するに決まってますよ。カノったら、こんな小さな子の憎まれ口をまともに受け取らないで。あと南雲さんも止めてください!」

肩越しに南雲を振り向いてそう言ったら、南雲は手元の端末になにやらせわしなく打ち込みながら、あっさりカノの味方をした。


「言葉が通じないほど症状が進んでしまっているのでしたら、捨て置けませんし。残念ですけど、楽にしてあげてくださいね、カノ」

「おうまかせろ。恨んでいいぞ」

「言葉が通じないとしても、暴力は通じるでしょうしねえ」


「ちょっ、ちょっと、待って下さい!」

単なる脅しに過ぎないと頭ではわかっていたけれど、それでもカノの口調はやけに真に迫っていて、千畝は割って入らずにはいられなかった。


大体カノの脅し文句ときたら悪役そのものだし、脅して話させるというやり方にも、千畝は賛成できないし、そもそもそういう台詞を言う時、どうしてあなたは嬉しそうなんですか、とも思うし。

「あの、私が話してみてもいいですか」


ええーかったるいよ、クソ小生意気なガキには序列ってもんを教え込むのが一番、とかなんとか言っているカノを無視して、千畝は少年と向かい合う。


「これから私が考えたことを話すね。もし違ったら、違うと言って」

彼はそっぽを向いたままだったが、その頭が小さく上下したのを千畝は確認する。


「実際に人を殺したのはあっちの個体だけど、この辺で何度か目撃されてたのは……全部きみの方なんじゃない? そして、それは、わざとしてたんだよね?」

「なっ……」


「『ヒトクイ』が出るって噂を流して、この公園に人を近づけたくなかったんじゃないの? ──おそらくそれは、特定の誰かを」

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