第2章 謎解きなんかじゃない 6 クッキー、食べる?
「お前はどういうことだと思う?」
ど素人の自分が発言するなどおこがましいような気がしたが、カノは返事を待っているようだったので、思い切って千畝は言った。
「この公園には、変異体が二人、いると思います」
「あー確かに二体いますねえ」
いつの間に戻ってきたのか、横から南雲がひょいと覗き込んで言う。
彼はモニターを一瞥して、あっという間に状況を把握したようだった。
「どうします。応援頼みますか?」
「まさか。頼めるようなのもいないし、いても到着に何時間かかるって話だよ」
「ですか」
「いいよ、二体くらい……いつも通りやろうぜ」
「どっちが、どっちを?」
「あたし動いてるほう先に行く。南雲は仕留めなくていい、あたしが行くまで逃がさないようにしといてくれれば」
「わかりました」
(し……仕留める?)
交わされる会話の物騒さに千畝は目を白黒させたが、カノは深い屈伸を幾度か繰り返すと、再び鮮やかな跳躍で公園の闇に消えていった。
「じゃ、僕たちも行きましょうか」
南雲が腰に銃にしか見えないものを装填したので、千畝は思わず声をかける。
「あの……南雲さん」
「はい?」
「殺す……わけでは、ないですよね?」
ああこれね、と南雲は腰のホルダーを手の平でぽんぽんとさわってから言う。
「まさか。いきなりそんなことしません。これはね、麻酔銃」
(そうだよね……よかった)
ほっとして千畝は南雲の後について、夜の公園に足を踏み入れた。
「麻酔銃じゃないのも、ありますけどね」
「えっ?」
なんでもないですよ、と南雲は人を魅了するような甘い微笑みを浮かべた。
奥へ進むほどに街の匂いは薄れていき、しっとりとうるんだような初夏の草木の匂いが濃くなってくる。どこか遠くで救急車のサイレンが鳴る中、南雲は続けた。
「実弾の使用許可はありますし、射撃訓練も定期的に受けていますが、もちろん簡単に発砲できるわけではないですので、今この中に入っているのは強い睡眠薬です」
「睡眠薬……」
「ええ。副作用がきついために商品化はされていませんけどね。よく効きます」
「副作用ですか」
「やたらと夢を見るんですよね。薬が効いてる間中。些細なことに思えますけど、これ結構きついんですよ。寝てる間中気が休まらなくて」
その言い方だと、自分でも眠れぬ夜に試してみたことあるように聞こえる、と千畝は思ったが言わなかった。
変異体のいる大岩が見えてきたからだった。
四ツ岩公園の名前の由来にもなった、まるで地中から生えているようにも見える岩が月に照らされていた。
南雲はその岩のやや手前で足を止める。
「僕はもう慣れていますが、あなたは怖い思いをするかもしれないので、僕から離れないでくださいね」
「はい……」
はい、とは言ったものの、千畝は生返事だった。
大岩のてっぺんに腰掛けている小さなシルエットから、目が離せなかったのだった。
(あれが変異体)
見るのが初めてなわけではなかった。
はじめて研究所に来た時同席した子がそうだったし、カノの顔だってそうだし、基礎レクチャーの時にも動画や画像をたくさん見た。だから物珍しいわけではなかったはずなのに、千畝はなぜだか目が釘付けになっていたのだった。
小さな影は微動だにせず、岩の上で膝を抱えているように見える。
距離があるし暗いので、表情まではわからない。
(──!!)
その影が、一瞬ちらりと千畝たちの方を見た。
目が合った──かどうかもわからないのに、心臓がどきりと跳ねて、千畝は斜めに背負ったワンショルダーのボディバッグの肩ひもをぎゅっと握る。
影は一瞥したのみで、すぐに興味を失ったように顔を戻した。
(あの子……悲しそう)
なんの根拠もなかった。突然浮かんできたのだった。
(ううん……諦めてる……?)
そうも思った。
頭の中で整理して胸に落とし込むよりも、足が動く方が早かった。
「あ、ちょっとカノが合流するまで待った方がいいですね。けっこう変異が進んでいるので……理性があるかどうかも定かじゃないので」
「そうですか?」
そうとだけ言って、千畝は制止しようとする南雲の手をそっと押しのけ、前に進む。
基礎レクチャーの時に言われたことを忘れたわけではなかった。変異体と遭遇したらむやみに近づかず、刺激を与えることも避けましょう。大人しく見えても、わずかなきっかけで豹変し、突然喰う気で向かってくることもあります。
(でもあの子、そんなことしない)
妙な確信だけがあった。
あとから考えてもよくわからない。本職の人の言うことに逆らって反対の行動をするなど、普段の千畝ではまずしないことでもあった。
ただ、これが正解で、夜が終われば朝が来るのと同じように確かなことだと、そう思える。──あの子は、人を襲う獣なんかじゃない。
「南雲さん。ちょっと私、あの子とお話してきます」
「あっこら、千畝さん!」
南雲にはじめて叱られたけれど、気にもならなかった。
ゆっくり、ゆっくり千畝は進む。
自分を怖がってほしくなかった。
できる限りひらけた芝生の斜面を選んで進んだのも、それが理由だった。自分の姿を先に月あかりに晒すことで、敵意がないのだとわかってほしい。
大岩の真下まで近づいて、千畝はボディバッグを前に回すと中からセロファン包みを取り出した。影は一瞬身じろぎしたものの、逃げる気配はない。
「あの、これ」
個包装になっている包みの口をひとつあけて、千畝が差し出したのは丸型のアイシングクッキーだ。
それは千畝が今日カノたちに同行することを知ったいのりが手渡してくれたものだった。
──いい? これはね、千畝ちゃんにあげるの。
その場でラッピングしてくれながら、いのりはくどいほど念を押した。たまたま三枚あるけど、別にあいつらの分ってわけじゃないから、と。
──特にカノは、とっさの行動がつきあい長い私でも予測できない時あるから、変なことしないように、千畝ちゃんがよく見張ってること。それで、あの二人が、セクハラもパワハラもその他デリカシーないことも一切しなかった場合のみ、ご褒美としてわけてあげてもいい。無理だと思うけど。
いのりのクッキーは、アイシングクッキーによくあるようなレース模様なんかではなくて、いくつかの繊細な色が複雑に絡み合う水彩画みたいだった。食べるのがもったいなくて、そのままいつまでも持っていたくなるような。
そのアイシングの表面が月あかりにきらきら光るのを、千畝はそっと差し出す。
「お腹……すいてない?」
返事はない。
岩は成人男性が両手を高く伸ばしたほどの高さで、千畝では手を伸ばしてもてっぺんにさわれそうにない。だが近くで見上げると、そこに座っている変異体は、まだ幼い少年のようだった。おそらくは小学校高学年くらいか。
千畝は背伸びしてクッキーを差し出しながら言う。
「あなたは誰も傷つけてないし、これからも誰も傷つける気はないでしょ。……でも、人を襲ってないなら、いったい、なにを食べてたの?」
少年が驚いたように千畝を見下ろす。白濁した瞳だった。
見れば見るほど千畝の確信は深まっていく。この子じゃない。絶対に違う。もし私が間違っていたら、この場で切り裂かれて死んだっていい。
「これ、お菓子だけど……でも結構大きいから。よかったらどうぞ……」
ずっと背伸びして手を伸ばしているせいで、手にも足にも震えが来ている。それを見て、少年はため息をついた。
なにやってんだよ、しょうがないな。そんな感じで。
それからゆっくり爪先が伸びてくる。
黒く光る刃物みたいに鋭い爪でクッキーの端を注意深くつまむと、手は引っ込んでいった。千畝の指先には、かすらせもしなかった。