第2章 謎解きなんかじゃない 4 そうです姉弟です
小さな声で千畝が応じたその時、南雲が外向き用の愛想を顔に貼りつけたまま戻ってきた。
「いやいやお待たせしました」
カノはそれを聞くなり、着ていたフード付きのロングコートを脱いだ。
浅黒い長い手足があらわになる。
動きやすさを重視するため、カノは足にぴったりしたショートパンツを身につけている。底のしっかりした黒革のブーツを履いているのも前に見た時と一緒だった。
指なしのグローブをはめて、そのグローブを手首のところでキュッと音がするほど絞ってから、千畝、さっきの取って、と言う。バッグを千畝が渡してやると、カノはそれをひょいと肩にひっかけた。
「んじゃ行ってくるかな」
どこへ? と思っている千畝の表情を読み取って、南雲が補足説明してくれる。
「さっき千畝さんがお手伝いしてくれた、熱感知センサーを仕掛けるんですよ。広い公園で、やみくもに追いかけまわしても効率が悪いですからね」
なるほど、と千畝はうなずく。
「あ、でも野鳥とか、猫とかは……」
「鳥類の体温はおよそ四十度で、犬猫は三十九度程度です。そして発症者の体温は三十九度前後」
あたしの体にさわってみなーとカノが言うので、手の平をあててみると、熱でもあるみたいに熱かった。
「ほんとだ……」
千畝は腑に落ちる思いだった。五月とはいえ夜はまだ冷えるのに、カノはそんな薄着で寒くないのかと思っていたのだった。
「一般的に鳥類は夜間活動しませんし、都会には大型の野良犬もいない。野良猫とは大きさで区別できます」
「これなー、つけたのを回収するのが面倒くさいんだけどな」
カノがビニールテーブをくるくると爪先で回しながら言う。
「催涙ガスぶち込んだら早いのに。どうせ公園今封鎖中だろう?」
「言ってることがテロリストですよあなたは」
南雲がにっこりと否定する。
「周辺住民から苦情が出るような真似はやめてくださいね?」
ちぇー、と肩をすくめると、カノは次の瞬間、大きな軌跡を描いて公園の奥の暗がりへと姿を消した。
それはほんの一瞬の出来事で、あっ、と思ったらもう見えなくなっていた。
(カノって……きれい)
目視できたのはごくわずかな部分だったが、それでも、のびやかな体がふっと宙に浮いたまま、野生動物みたいに両足を折りたたんだのが目に焼き付いいる。
見ているものを安心させる、まるで毎夜の演目をこなす雑技かサーカスの団員みたいだった。
(カノって……不思議)
もう気配すら負えなくなっているのに、いまだにカノが去った方向から目が離せない。
はじめて会った時もそうだった。なんてきれいなんだろう、という気持ちで、おそれや悲しみが塗りつぶされていった。カノから目が離せなくなって、ずっと見ていたくなってしまって。
(なんで、きれいだって思うんだろう……)
いのりにときめくのは、まあ、わかるのだ。
もともとファンだし、憧れの人だし、きれいだし。
だけどカノは、物言いは大雑把だし、ふざけたことばかり言うし、無茶振りするし、優美とか憧れとかからは全然遠いところにいる。
視線を感じて千畝が振り向くと、南雲がじっと千畝のことを見つめていた。
「あの、カノのことですけど」
「はい?」
「ひとりで行かせて、いいんですか」
ええ、と南雲はあっさり言う。
「あの人に勝てる生き物ってそうそういないですから」
いえそうじゃなくて、と千畝は言った。
「感染者及び発症者の外出は、逃亡を防ぐため、有資格者の付き添いが必須だって……」
今日の昼間、南雲に外出の打診をされてから、ここに入る時に貰ったパンフレットを改めて読み直していたのだった。ごく小さな字で、確かにそう書いてあった。
だとするなら、カノをあのまま行かせたのは規約違反ということになる。だが南雲は柔らかく笑ってから、
「よく覚えましたね。でも大丈夫です」
と言った。そして続けようとした。
「あの人に逃亡の心配はいらないので。そもそも姉は」
「姉っ?」
南雲は自分が失言したことに気づいてはっと口をつぐんだが、もう千畝はその言葉を拾ってしまっていた。
「南雲さんとカノって、きょうだいなんですかっ」
彼の態度は明らかに、そんなことを言うつもりはなかった、うっかりした、というものだった。
もし普段の千畝だったら、そんな相手の心情を汲んでそのまま流していただろう。だけどこの時は、気遣いよりも驚きの方が勝ってしまって、南雲に一歩踏み出して思いきり問いただしてしまった。
「あー……」
南雲は露骨に、しまった、と言う顔で視線をそらしている。
だが、ここはごまかしても無意味だと切り替えたようで、視線が千畝に戻された時にはもう、いつもの穏やかな微笑を貼りつけていた。
「そうです、姉弟です」
言う声も穏やかだ。
だが千畝は見つけてしまった。男にしては色白な彼の目元が、羞恥のためか動揺のためか、うっすら赤く染まっているのを。
「……あ、別に隠しているわけではないですよ。普段はそう呼んでないだけで」
千畝がじっと自分の顔を見つめているのを、南雲は違うふうに解釈したらしい。さらに付け加える。
「施設内でも、知ってる人は知ってますからね。それに、カノのことは昔からカノと呼んでいたし……ええ、今更お姉ちゃんでもないですし」
「そうなんですね、道理で……」
道理で似てます、と言おうとして千畝はふと思い至った。
カノの顔は変異しているものしか見たことがないので、似てるかどうかは実際にはわからないのだった。
だがカノは目鼻立ちそのものは整っているし、顔の輪郭もなめらかなことが変異した状態でも十分にわかる。
変異前のカノと南雲が並んだところを千畝は想像した。さぞかし美人姉弟だろう。
「他に、なにか聞きたいことあります?」
あ、いえと千畝はは首を横に振った。
驚きがひと段落すれば、別に二人が血縁者であってもなにも問題はないのだった。南雲の立場上、公平を期すために家族であることを伏せていても不自然ではない。
(それに、今の南雲さんの反応は、明らかに本気で狼狽していたし……)
目の下の赤らみはすでに失せている。だが、彼が狼狽したということは、やはり、隠してはいないけれどわざわざ話したいようなことでもなかったからなんだろう──そう思ったから。
だが彼はいつもよりいくぶん早口になって、
「あ、でもこういうのもみんな、いのりさんがいずれはあなたにお話するのかな。あの人はあなたを気に入ってるし。じゃ今言っても一緒ですかね」
そうひとり決めして話し出した。
口には出さなかったが、千畝は興味深く彼の様子を観察する。
(──南雲さんって、面白い)
照れると、表面上は落ち着いたように見えても余韻が長く残るのだ。
動揺すると早口になるのだ。そして、
(私のことは、千畝さん。いのりさんのことは、いのりさん)
南雲が呼び捨てにするのは、カノだけだ。
(そうか……)
気がついてみれば、簡単なことだった。
これほどわかりやすい印もないくらいだ。
(そして多分、カノのことで失言したから、こんなに動揺してるのでは……なんてね)
そんな千畝の思考は、しかし、南雲が言った言葉で一気にかき消される。
「詳しくはいろいろあって省きますが、カノは感染者ではないと思っていてくれれば」
えっ? と千畝は数回聞き返した。
「感染者じゃないって……」
なにを言っているのかとっさに理解できない。
「だって、顔が……」
「ええ」
「それに、爪も」
「ええ。それでも、違うんです」
(あっ……)
わずかに力を込めたその言い方で、わかってしまった。
(南雲さんは、やっぱり、カノのことが好きなんだ……)
それは家族として以上に。
強い恋愛感情は、ぴったりと隠しているのが垣間見えたその瞬間に信憑性を増す。
わかってしまった、とまず千畝は思い、次いで、わかってしまったことを南雲が気づいてこれ以上気まずい思いをしなくて済むよう、あえて神妙な顔を作った。
「そうだったんですか……」
「先ほどの千畝さんの疑問ですが、大前提として、感染者でないカノにはスタッフ同行の規約は当てはまりません。とはいえ、部外者にはその事実を証明しづらいため、外勤の際には僕が同行していますが」
まずこれがひとつ、と南雲は言う。
「それから、カノには逃亡する理由がないんです」
(理由がない、って……)
それは特例扱いの根拠としては薄い気がしたし、千畝はもっとそこを尋ねてみたかった。
だがなぜだろう、ここから先は聞かないほうがいいような気がして、どうしても聞けない。そんな千畝に、南雲はくすっと笑みをこぼした。
「どうしてって、聞かないんですか? さっきみたいに僕に詰め寄って」
「……っ聞かないです」
「聞けばいいのに。遠慮しちゃって」
いつものやさしい言い方ではなく、どこかからかう口調でそう言われて、千畝は余計に言葉に詰まった。
(いじわるだ……)
「あの研究所はね、カノが敬愛していた人が大きくしたものだからです。そしてその人がいない今、カノの望みは自分が人並みの暮らしをすることではなくて、その人が残したあの施設を守り、次の世代に手渡すことだからですよ」
(敬愛する人……)
弟である南雲がいるから、南雲のことが大切だから、なのかと思っていた千畝は虚を突かれた思いだった。
「だから誰かが見張っていなくても、カノは逃亡しない。──これもまた、外部の人間には証明しにくいことですけどね」




