第1章 この人にうっかりときめいた自分を殴りたい 1 再検査
完結済みの作品なので、さくさくとアップしていくつもりです。
きっかけは、四月に行われた身体測定だった。
朝岡千畝が高校三年生の春、進級してすぐ行われた全校一斉身体測定の結果に、赤字で『要再検査』と記されていたのだ。
おや? と、千畝は思った。
日本国内では現在、十八歳未満の男女には新興感染症である皮爪硬化症の検査が毎年義務付けられている。
プライバシーに配慮して、検査結果に直接病名が記されることはない。ただ、要再検査の文字フォントが他の人とは違うとか、用紙のどこかに関係者にだけわかる黄緑色の印があるとか──そんな噂がまことしやかにささやかれるなか、千畝の用紙にはどこをどう見ても、異質なところは見られなかった。
なので、千畝は首をかしげたのだった。
(再検査って、どこがどう?)
まさか自分が、皮爪感染症のキャリアになっていたなんて、その時は夢にも思わなかったので。
『やだあ、再検査』
クラスには千畝のほかにも何名か再検査組がいて、彼女たちは女子高ならではのおおらかさで、自分たちの結果用紙を見せあっている。
『私これ去年もだったのに、血圧低めなの、毎回引っかかるの』
『あれ、朝岡さんも?』
うん実はそう……。と、千畝は視線に気づいてくれた彼女たちの方へ近づいていく。
普段あまり話したことのない子たちではあったが、そこはお互いにもう子供ではないというか、高三らしい大人びかたですんなりと話に混ぜてくれた。
『私、再検査ってはじめてで。こういう時どうしたらいいの?』
『あーそれはねー』
彼女らはなんでも丁寧に教えてくれた。
用紙の裏に病院リストがあるので、そこのどれでも行っていいこと。いきなり行くよりは、事前に電話をかけて、さくらの杜高等学校の身体測定、再検査だと言っておけば、予約を入れてくれることも多いので、無駄に待たなくても済むこと。週末は死ぬほど混むので、学校を休んで平日に行った方が絶対に絶対に楽だということ。
『あれ? でもこれさあ』
一緒になって用紙を見てくれていた女の子のひとりが、要検査項目のどこにもチェックが入っていないことに気がついた。
『これ、なんで再検査なのか書いてない』
そうだよね、と千畝もうなずく。
『ミスプリなんじゃない』
『それにこっちもほら』
と、もうひとりが千畝の用紙を裏返す。
彼女たちのものと見比べてみると、一目瞭然だった。彼女たちのものには、いくつも病院名が記載されているのに、千畝のものにはひとつしか書かれていないのだ。変だね、よくわかんないね、とみんなで首をかしげる。
いつまでも彼女たちの時間をわずらわせているのも申し訳なくて、千畝は、うーん、とりあえず行ってみる。行けばなにかわかるよね、教えてくれてありがとう、またね、と手をふって彼女たちと別れた。
だけどまさかそれっきり、学校に通えなくなるだなんて、思いもしなかった。
◇◇◇
備考欄には、必ず保護者同伴の上で再検査を受けてくださいとある。
翌日指定の大学病院へ行くと、採血を含む簡単な検査をされ、最後に診察室へもう一度呼ばれ、看護師からしっかりとした厚手の封筒を手渡された。
中に入っていたのは、「皮爪硬化症の疑いがある方へ──精密検査の手引き」と印字のある、ライムグリーンのクリアファイル。
(皮爪硬化症……って……ええ?)
疑いがあるってどういうことなんですか。ここで検査したんだからはっきりしたことがわかるんじゃないんですか。再検査ってそういうことでしょう? こっちも一日仕事休んできてるんですよ、それをっ。
母は看護師を問い詰めていたけれど、看護師も奥から出てきた医師も申し訳なさそうな顔をして、そちらに記載の番号へご連絡ください、と繰り返すだけだった。
結局二人はいったん帰宅することにした。時計を見ると、まだ昼にもなっていなかった。
パンフレットに記載の番号に電話してからは、話は驚くぐらいするすると進んでいった。
家のリビングで電話をかける母の隣で、千畝も一緒にいたのだけれど、はじめはピリピリして、行き場のない怒りをぶつけるようだった母の口調がみるみるトーンダウンしていき、『そうですね……』とか、『ええ、はい……』としか言わなくなった。
隣で聞いていた千畝には、電話の向こうでどんな説明がされていたのかわからない。だが、母の様子は、電話を切る頃には、気が抜けるほどあっさりしたものに代わっていた。
『まあ、来いって言うんだから、行くしかないわね』
『行くって……どこに』
『全部説明してくれた。……なんでも、早い方がいいらしいわ。明日、行ってみようか、千畝』
戸惑いながらも、千畝はうなずくしかなかった。
リビングの窓から見える木々の緑色がまだ淡い、四月の半ばのことだった。
◇◇◇
というわけで、千畝は今JRに乗っている。
平日の午後のせいなのか、遠くまで行く路線のせいなのか車両はガラガラで、四人掛けに向かい合わせた座席は空席の方が多いくらいだった。
はじめのうちはちらほら見かけた乗客も、途中の駅でひとりまたひとりと降りて、最後には千畝と母の他には誰もいなくなった。
(どこまで、行くのかな……)
心細さが千畝の胸をかすめる。
昨日母が電話で受けた説明によると、学校でもらった再検査用紙と病院でもらったパンフレットの他には、特に持ってくるものもなく、辺鄙なところにあるので、小旅行のつもりでおいで下さい、帰りは送って差し上げられるので、普段着でいらしてくださいね、とか言われたそうだ。
(検査、を、されるんだよね?)
母に聞いても、ほとんどが生返事で、とにかく行けばなんとかなるって言われたから。専門の研究所だから安心だって。と、それしか言わない。
正面に座った母は、ずっと黙り込んで窓の外を眺めている。
つられて千畝も景色に目をやってみたが、駅を過ぎてだいぶたつ景色は、畑と住宅群と小川と牧草地が交互に現れる程度の変化のなさで、たまに大きな工場らしき建物が遠くに見えるくらいだった。
千畝はまた手の中の携帯に目を落とす。
(皮爪硬化症、だって……)
そう言われても、全然実感がわかない。
昨日あれからスマホで一通り調べてみた。
──皮爪硬化症。
比較的新しい感染症で、発症すると爪組織と皮膚組織が変色して固くなる。筋肉肥大も起こすらしいが、誰かが描いた稚拙なイラストは、なんだか安手の怪物映画みたいで、見る気がしなくて、閉じてしまった。
検索してヒットするのは、なんだか興味本位のような、都市伝説のような、そんなものが多かったが、それらによると、とにかく一番の特徴は、発症すると瞳が白濁するらしい。そして、歯列が歪む。ウイルス感染による筋肥大に、骨組織が耐えられなくなりそうなるのだと、比較的真面目そうなサイトにそう書いてあった。
千畝は自分の手先を見つめる。
特に、変化は見られない。なにも塗っておらず、短く切りそろえたいつもの自分の爪があるだけだ。
スマホの暗い画面に映った顔にも、これといって変化はない。黒目がちの瞳に、小さいのを気にしている鼻があり、肩より少し長いくらいで毛先が自然と内側へ入るようととのえた髪がある。見慣れた自分の顔だ。
(理性がなくなって人を襲う……なんて)
皮爪硬化症の患者は通称『ヒトクイ』と呼ばれているのだと、昨日調べている時に知った。症状が進むと破壊衝動が抑えられなくなり、人を襲って喰うのだと。
とても信じられなかった。
それに、いかにも毒々しいサイトに都市伝説みたいに書かれている話を、すんなり信じる気にもなれなかったし。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
返事はすぐに帰ってきたが、視線は窓の外に向けられたままだ。
あ、だめだ、と千畝は思う。これは、話をしたくない時の感じだ、と。
「ううん、なんでもない」
再検査は覆らないって、本当かな? と本当は聞きたかった。
『再検査は覆らない』──とあるサイトの見出しの言葉が、昨日からずっと頭を離れてくれない。検査をするとは口実で、実は、人里離れた病院で軟禁されるのだと書かれていた。
検査をして陰性だとわかれば即日帰宅できる──母は昨日の電話でそう説明されたらしい──その説明が本当なら、なぜ、実際に検査を受けて帰ってきた人の書きこみが一件もないのだろう?
(お母さん……怖いよ)
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