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銀の魔法の杖  作者: はるのいづみ
8/24

お隣さん

何かが変わり始めていた。

怖いような、嬉しいような。

今まで経験したことのない心の中をおそるおそる開示する

新しい世界へ。

澤井君は、すぐやって来たけど、初めは、緊張していて口も聞けなかった。やっと、乾いた小さな声で…

「前からファンだった…」

澤井君が言った時は、汗びっしょりかいていた。


なぎさも真っ赤になるし、心臓はドキドキして汗は出るし…困った。


「あ・の・ね~、なぎさの、たまに教室や、廊下に張り出される絵と作文の切なさに、なぎさってどんな世界感を持っているのだろうと、あこがれていたと。図書室でいつもたくさんの本を借りてて、いつか、読んだ好きな本のことで話ができたらいいなあとお隣さんは思っていたんだって」と、杏珠が話してくれた。


「知らなかった」

二人は、真っ赤になりながらも、幸せな気分に浸っていた。

「さて、お隣さんはなんて名前か覚えている?」

杏珠が笑った。


「ふ、澤井光治さん」

心臓が、ドキドキの頂点に達していた。どうしよう。

「あ」

なぎさが一言発した。


とそこへ、パパさんが書斎からドカドカ音を立てて降りてきた。なぎさの心電図は少なからず乱れただろう。パパさんは興奮した面持ちを押さえ気味に、ゆっくりとした口調で言った。


「すごいよ、本になるよ、この、何ていうか、実は、私は学術物の編集をやっているんだけど、児童書も、興味があってね」

パパさんは大真面目に名刺を渡しました。

「はい」

名刺にはこう書いてありました。


―――――――――――――――――――――

角野出版社

編集長 北原 たつみ


―――――――――――――――――――――



「なぎささん、これもしかしたら、本になるかもしれない。まあ、会議やって、決まればの話だけど…ほぼ決まりだろう」


「パパ、なぎさって絵もステキなのよ」

杏珠も興奮して叫んだ。


「この物語のイメージを絵に描けるかい?」

「イラストをですか?」

「じゃあ試しに、十二点ほど、色んな場面で描いといてもらおうか?」

「十二点!」

「大きいのカラーで一点と、とりあえずモノクロで、白黒という意味だけど、描きにくかったら、カラーでもいい。自由なイメージで描いてみてくれ」

「はあ、でもできるかな…」

「気楽な気持ちでやってみないか、現に、小学生が絵本描いて売れている例もあるんだ。『天才えりちゃん金魚を食べた』って知ってる?」

なぎさは、首を振った。


「子供の絵って素晴らしいんだ。構図は大胆だし、今の子は色彩感覚がいい。

それが…大人になると、妙に理屈ぽくなって、つまらなくなる」

話が、だんだん大きくなって、でもなぎさに、不安が重っ苦しくのしかかる。文はなんとかやれた、でも絵となると…あの家じゃぁ、できない。姉貴は受験だし、人に見られながらはやりたくない。からかわれたり、桃代さんにだって気を使わせてしまうし…。

そんな、なぎさの大きな悩みも、何もわからずにいた、光治君がたった一言、いいことを言ってくれた。


「うちに、くれば? 父さん画家だよ」


「そりゃそうだ」

杏珠のパパさんが、ピシャッと自分のおでこを叩いた。


みんなが賛成してくれました。みんな興奮気味に、お隣の澤井さんちに、ドヤドヤと押しかけた。

「絵本とか描いている、『入江まもる』ペンネームだけどね。そうだ、なぎささんも何か『ペンネーム』考えた方がいいね。まだ子供だからね。パパさんは日を改めて、母さんの方にも挨拶に伺うと言った。


お隣さんの家は、こげ茶色の柱と梁に、しっくいの白い壁がおしゃれなアトリエ風の家だった。

いろんなブリキのオブジェ、アフリカやアメリカインディアンの色鮮やかなみやげ物とかが置いてあったり、小さな額に、絵が品良く飾ってあった。アトリエには、ひと段落してコーヒーを飲んで、煙草を吸っている平和そうな絵描きさんがいた。


なぎさを杏珠のパパさんが紹介すると、光治君のパパが、今、描いている作品の解説とか、紙とか、絵の具、筆の説明をして、「試してごらん」と、プロの使っている道具を試させてくれた。

そうして、三十六色の水彩絵の具の真新しい箱と、筆を五本、梅皿という陶器のパレット、布張りのしっかりした、大きめのスケッチブックを、紙袋に入れると


「これ、あげるよ。使いなさい」

と事もなげに、なぎさにくれたのだった。


「え、そんな、母がびっくりして返しなさいっていうに決まっている。もらうわけにはいけません!」

杏珠のパパさんは笑っていった。


「どっちが、子供なんだか…なぎささん欲しいでしょ。本心は?」

「はい、欲しいです。でも…描く所がないんです!私の部屋がないんです!私の宝物をしまっておく場所もないんです。一人っきりになって、落ち着けて、絵なんか、描けないんです。自分の部屋が欲しいです!」


 人前で泣くのがはずかしいなぎさでしたが、みんなの暖かい優しさでとろけるように、あふれた涙が後から後から出て来るのです。


「母さん、病気で入院してるんだ」

光治君がつぶやいた。


そういえば何か、火の消えたような寂しさがこの家に漂っていた。

杏珠の家とまた違う。

家って一軒一軒、こんなに違うものだったのだ。


「なら、この家に遊びに来て、描けば?」

なぎさは、びっくりして光治君の顔を見つめた。


「絵の道具も、そのまんま、置いとけるよ」

「いいの?」

「うん」

男の子って、こんなにも優しかったなんて…初めてなぎさは、知ったのだった。



残念なことに、涙はもう出てこず、恥ずかしくて顔もあげられない程だったけど、思い切ってあげてみた。ここは、安全そんな気がした。



「じゃあ今度お礼に、カレーライス作ってあげるよ。

料理、得意なんだよ、これでも」

勇気を出して言った。なぎさのほほ笑みは、みんなの顔に伝染した。


「この家も少しは、賑やかになるぞ」

光治君のパパも満面の笑みを浮かべ大歓迎の表情をした。面長の顔に細い鼻、どこかキリストを思わせる口髭があった。


冬の真っ只中、毎週出かけて行くようになったなぎさを、家族は不思議がったけど、

「杏珠んち」

と言っただけだった。

なぎさには、ボーイフレンドができたとか、絵描きさんの家で、自分の本のイラストを描いているなんてどうしても、打ち明けられなかった。


あの天井の高いアトリエ風の空間だと、光治君や光治君のパパがいたとしても、しゃべりながらでも、楽しくはかどるのが不思議だった。

もし、家になぎさの部屋があったとしても描けなかったかも知れない。


「雰囲気で描けるのかなぁ」とつぶやいた。

すっと、イラストを描ける状態に入って行けるのだ。


光治君のパパがやり方のヒントをくれた。

『サムネイル』といって小さなスケッチをして構図を決めるのだ。

色は透明水彩、カラーインク、パステル、プロが使っている画材を自由に使え、教えてもらった。


なぜか、団地とぜんぜん違う方角の商店街で、いっぱしの主婦みの買い物をして行く、なぎさたちを見かけたとか、学校でも一年生がボーイフレンドの家に行ってごはんを作っているという、噂が広まった。

先生や、上級生からにらまれたり、「ちょっと、行き過ぎではないかな」と意見する人もいた。


「でも、光治君のお母さん、病院で長いこと入院してるの」

と悲しそうに訴えたりして、杏珠たちがかばってくれた。独身の先生だと万理たちが加勢した。


「先生、ひがんでいるんですか?」

と口を揃えて言ってくれたり、そうすると文句が言えなくなるのだ。

イラストも完成に近づくと、なぎさの口から内緒なんだけどと、前置きしてから、みんなに話した。


「本になるって、すごいね。なぎさ」

「いつから、文章を書くのがうまかったの?」

興味しんしんで聞いて来た。

「小学一年の時にね」

「小一?はや~い」

「参観日に、先生がわたしの作文を読みあげてくれてね」


「お母さんに褒めてくれたんだ」


「ううん、全然。『クラスで一番ぼ~っとしてる子が作文書かせてみたら一番うまかったりしてね』と先生が言ったって、母さんから恥かいたって文句言われた」


「ひど~い」


「先生も、親もよくないよ、それ」

みんなの一致した意見だ。


「それって言葉による虐待じゃねぇ?」


お爺ちゃんが来る前、なぎさは姉貴と母さんに口でやられてた。

何も言い返せなかった。

今なら、それが何だったのかがわかった。

なぎさは、母さんのサンドバックだった。

でも、優しい桃代さんがいるし、今はそんなことはない。

母さんは二人の子育てで、必至で頑張っていたんだ。

だから、ちょっとぐらいのストレス解消で、子供に八つ当たりすることもあるかもしれない。なぎさは、子供ながらにその事が、母を慰めているかもしれないと思っていた。

母さんは強かった。

貧乏はこんなにも人を荒んだ心にするし、強くもする。


「大人になったらどんな仕事したい?」


「わたしは、漫画家」

と、可奈。

「わたしは、小さな劇団の役者がいいな」

と、万理。

「あら~万理、けっこう目立ちたいんだ」


「でも、売れなかったら親の花屋をやってると思うよ」

「バレエ、四才の時からだもんね」


「それにいても、なぎさ、もう自分の夢を叶えてるんだから…すごいね」

万里が感心したようにいう。


「うん、ホント」


「私は、編集長かな?なぎさの原稿をまだかまだかって急かしたりして」

杏珠が笑った。


「うん、もう離れられないね」


「運命かな?」


なぎさの才能を引き出したのは杏珠だ。


「私たちって、おとなしいグループだよね?」

思わずみんなで確認しあった。



『あの家の庭先で』野原みむ 著が、いよいよ出版されることになって、本の形になった時、第一号を持って、光治君のお母さんが入院している病院に、なぎさもお見舞いに行った。


チューリップの花束を抱えた光治君。

「この子がなぎさちゃんで、光治の未来のお嫁さんだよ、料理もとてもうまいんだ」

パパが、そうなぎさを紹介した。


「まだ、中学生なのにもう?」

お母さんは、弱々しく微笑んだ。


まだ、小さい子を残してこの世を去らなければならない、母親に、絵描きの夫が安心させるための方便だった。


光治君のお母さんは毎日なぎさの本を眺めていたと聞いた。

それから、すぐの二月のある日、安心したように天に召された。


なぎさも、いっぱい泣いた。


いつも、家で一緒に暮らせなかった。でも生きてるって事で大切な心の支えだった。

光治君のお母さん。


なぎさの父さんはどうだろう、どこかで元気に生きている。

ちがう家庭を持っているかも知れない。

そうでないかも知れない。

でも、ずっと会えないし、語ることも、はばかられるなら、死んだも同然の父さん。


やっぱりどこかで、生きている方がいい。

生きている限り、人間はいつか生き方を変えられるかも知れない。


なぎさが、文を書いたり、絵を描いたりする、原因を作った人。

なぎさの遺伝子の中に、父さんの要素が組み込まれている。


考えて考え抜いてこう結論づけた。

なぎさが、この世に生まれるためにとっても重要な人。

それで悲しかったり、淋しかったり、うんと悩んだから。それに反面教師。

父さんのようには絶対ならない。


杏珠のパパさんだって澤井くんのパパだって、なぎさのお父さんのように眺めればいい。


あれから、少し間をおいて、なぎさは光治君の家に遊びに行った。

水仙の花が庭で揺れていた。


光治君はとても喜んでくれて秘密を見せてくれた。


「ちょっと、見てごらん?」

水そうの中で、魚らしきおもちゃが進んでいます。


「太陽電池で動く魚なんだ。一応ロボット」

「いま、不規則な動きのする魚型のICのついた、ロボット発明されているでしょ」

なぎさは、全然知らなかった。


「それと、ある物を見分けるセンサーをつけると、何ができると思う?」


「…さあ?」

見当もつかなかった。


「プラスチックのごみを見つけて採る、自動制御の魚型ロボット」

「すごい!」

野生の動物がえさと間違えて飲み込んだり、網がからまって身動きが取れなくなって死んでいく事故がとても多い。


「でも、もう誰かがきっと取り掛かってるよ、最先端の科学を合体すればもうできちゃうもんな」

光治君は少し悔しそうに言った。


「僕は、工業専門高校に進んで、大人になったらエンジニアになって何か役に立つものを発明するよ。きっと」


なんて、澄んだ心を持っている人なんだろうとなぎさは思った。

光治君の夢が叶うといいな。

なぎさなんかより、光治君こそ、魔法の杖を持つにふさわしい人だと確信した。

光治君なら、秘密を打ち明ける気になった。


次の金曜日、学校から帰ると、桃代さんは習慣で買い物に出かけた。

コンピューターを使い出してから、気を利かせてくれているのだ。


姉貴は最近ファーストフードの店で、最後の追い込みだ。

ねばって勉強をしている。

なぎさは大急ぎで押し入れの荷物を引っ張り出した。

三つ願いを叶えたら、消えて無くなってるかも知れないと思いながら…願い事はいくつ頼んだかわからない。


押入れダンスの裏っ側にあの包みがペシャンコにつぶれて挟まっていた。


「よく、家の人に見つからなかったよ~」

できるだけ細心の注意をはらって、押入れの荷物を元のように押し込んだ。


プレゼントのホコリをはらって、学校に持って行くいつものバックに入れた。

ちょっと箱がはみ出したので、なぎさの上着をかけてごまかした。


土曜日朝早く、ソワソワするのをできるだけ押さえてバレないように、出かけた。


「杏珠んちへ、行ってくる~」


「いってらしゃい、セーラームーン」

姉貴が笑いながら言った。


聞き捨てならない言葉!姉貴は勝手になぎさのカバンを開けて箱の中身をのぞいた!

瞬間に、怒りが込み上げてきて振り向きざま言った。


「勝手に人の荷物を開けたの? 悪・趣味ね~」


なぎさも自分の声に、びっくりした。

低くて太い、意地悪な、押し殺したような声だった。

姉貴は一瞬たじろいたが、何も言えなかった。


重い鉄の扉を開けると、光のシャワーを浴びて、外の世界が広がった。

外は自由だ。


◇◇


なぎさは、光治君の家で、得意の大判のハンバーグを焼いて、ワカメスープとボールにいっぱいポテトサラダを作った。


光治君とランチをいただきながら、小学生最後の授業の日に、家と反対の公園で変わったお婆さんにあったこと。

ものすごく年を取ってて顔はシワシワ、腰は九十度曲がっていて怖かった事。

そのお婆さんから不思議な物をもらったことを説明した。


「それが、これなの」

リボンをはずし、包みを開けると驚いた。


「わっ、真っ黒になってる!」

あの時はきれいな銀色をしていたのに…不気味なほど真っ黒に汚れていた。


「…」


姉貴のいたずらだろうか? 

それとも変な願いごとしてなぎさの心が濁ったから?


「どうしたの?黙りこくって」


でも、光治君も『魔法の杖』を見るなり黙ってしまった。

手に取ってじっくりと観察している。



包みのまま、光治君にあげなくてよかった。

失礼に当たるところだ。

なぎさはどこまで、光治君にしゃべろうか迷った。


「そのね、お婆さんが言うには、いざという時、勇気を出すこと。

誰かのために生きること。正義のために使うこと…」


なぎさは魔法の杖でこんなに幸運を手に入れたのではないかと思っていた。

でも、まだ言わない方がいいかも知れないと思って黙っていた。


「魔法の杖のおかげで、童話が書けたのかな? 」

光治君の目が釘付け状態になった。


「そんなことないよ」

これは光治君の勘だ。


「だって、その前から文が書けてたじゃない。それは、なぎさの実力、才能だと思うよ」

なぎさは、ホッとした。


「それってトールキンの指輪物語みたいだね」

それは、イギリスの古典、ファンタジーの長編で全七巻もある重厚な文学作品だった。


「読んだの?」

「うん」


「わたし、ダメだった、途中でリタイヤした」


「映画の指輪物語、見に行った?」


「ううん」


なぎさはいつも、ビデオになるまで待っている。

しかも、一週間レンタルになるまで。

その時パパが、ココアを入れて入って来てくれた。


「なぎさちゃん、いらっしゃい」


「おじゃましてます。いただきます」


マグカップを受け取って、温かいココアを口に含んだ。


「あれ、魔法の杖?どうしたの?」

思わずココアを、吹き出しそうになった。


「知っているんですかァ、じゃあ、本当に魔法の杖って言うんだ」


「うん」

パパはこともなげに言う。


「ニューヨークの、宝石店で見かけたことがある、カナダ人かどっかの彫金作家が作ったもので、日本で見たのは初めてだけど…」


光治君のパパが手にとって回してみると、紫水晶の付け根を、指差した。

「ほら、作家のサインが彫ってある。

でも、英語でもないなぁ、読めないなぁ」


なぎさも、覗き込んだ。なるほど、何か文字のつづりのようなものが彫ってあった。


「チョッと、待っててね」


アトリエからパパは、小さな箱と、手袋を持ってきた。


「これは、銀製品を磨く液体で、これは青粉。

無ければ歯磨き粉と歯ブラシでも代用できる」


筆でひとなで塗って、ボロ布で磨くと、あの時のきれいな銀色の輝きがよみがえった。


仕上げに緑色の粉をつけてきゅっきゅっと磨いた。

もらった時よりももっと輝いていた。


「青粉。これは、毒だから気をつけてね」

さりげなく、きれいに磨いて、去っていった。


大人って、子供の知恵の及ばぬところで、助けてくれる。

そういうものだったんだ~。


なぎさは、世間一般の父親の役割をはじめて知った。


「光治君! 大人ってあんなに大きいんだ」

となぎさが感心して言った。


「何がさ? たまたま知ってたんだよ~」


「光治君、これこの家に、置かせてもらてていい?」


「うん、だけど、いいの?」

光治君は、飾り棚に飾った。


こうすれば、密かに光治君にあげたことになる。

お母さんを亡くした、悲しみから早く立ち直ってくれたら…そんな願いの魔法をかけられたらいいな、自分の欲でないから。

そしたらきっと効くだろう。



光治君のところには、絵の具のセット、書きかけの詩のノート、なぎさの印鑑。

色々…大事なものは、置かせてもらった。

一人っ子にはわからないだろうなと思った。

自分のモノを安心して置ける家って…。


母さんと三人の時は、無意識になぎさが、二人のサンドバック(ボクシングの練習の時に使う砂の詰まった袋)だったのだが、おじいちゃんが、やって来てなぎさをかわいがってくれたり、桃代さんとも、うんと話が合い、母さんも優しくなった。

なぎさも、自分に自信が少しできた。

揺らがない自分だ。


桃代さんが姉貴に学業のお守りを買ってきたり、雑用はいいつけなかったり、みんなも姉貴に気を使った。

ところが腫れ物にさわるような扱いを入試が終わると、とたんに元に戻す。それに、母さんになぎさの本が出版されることを知らされ、家族全員腰を抜かした。

姉貴にとっては、面白くなかったのかも知れない。


ある日のことだった。なぎさが出かける時に、姉貴が言った。

「今日、桃代さん用事だって、晩ご飯、なぎさが作ってよ」


そのいい方にはストレス解消のためにうんとトゲが込められていた。

だから、長い間言えなかったことを、なぎさはさりげなく言おうとした。

でもきっぱりと言った。


「杏珠んち」


振り向きざま、なぎさは姉貴を無表情に眺めた。


「今日、私は大事な詰めなの。姉貴こそもう受験終わったんだから、いいでしょ?」


姉貴は、その激しさにたじろいて小さな声でつぶやいた。


「ごめん」


今日は、本当に杏珠の家で、最後の最後の打ち合わせたった。

姉貴…私はね、母さんに、そのままじゃ愛されなかったの! 何かすごい事しないと認めてもらえなかったの!わかる? だから、完成させるために行くワケって叫びたかった。だから心の中で、何度も何度も繰り返し言った。心の中が曇って行く。


初めて、姉貴に向かって言い放った。

今までため込んでいた

小さな怒りの積み重ね、

それはなぎさが自分を大切にしてもいいんだと思い始めたからだ。


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