お爺ちゃんがやって来た
姉貴から、お爺ちゃんの噂は聞いていた。
寄り道したのは、一人で会いたくなかったから。
だから、不思議なお婆さんに出会ったわけだけど…。
お爺ちゃんって、どんな人だろう?
なぎさが学校から帰ると、玄関に大きな黒い革靴があった。
それに、男物の整髪料のイヤな匂いがプーンとしている。
「今日、とうとうお爺ちゃんが来たんだ」
母さんもいた。
今日は休みを貰えたので、母さんが夕食を並べたのだ。
大きなパーティー寿司に、刺身、お惣菜コーナーのサラダ、キャベツの千切りのてんこ盛り、鳥の唐あげ、プロセスチーズ、お爺ちゃんの好きな缶ビールがでんと並べてあった。
お爺ちゃんは笑わない。口がへの字だ。
空気が何か、固っ苦しい。
しかめっ面をして、プカリプカリタバコを吸っている。
思いっきり臭い。
たとえて言うと、『お花畑に踏み込んだ軍隊』だ。
お爺ちゃんはタバコを消すと、買って並べただけの料理にやっと気づいた。
そう、うちは母さんが働いている。
専業主婦のようには行かない。
居候なんだから…文句の言える立場ではない。
それにしてもなぜここへ?
「何、ボヤッとしてるのなぎさ、お爺ちゃんにお酒でもつぎなさい」
母さんが突然言った。
そんな時、いつもなぎさに突っ込みを入れる。
お酒? ビールしか見当たらない。
つぐってどうやって?
「まあどうぞ、どうぞ」
すっと手が伸びて、姉貴が缶ビールをプシュと開けて、グラスについだ。
泡がいっぱいに盛り上がった。
なんだ、お酒ってビールじゃん。
姉貴はニコニコしている。
こんな時、姉貴は世渡りがうまいと思う。
「いやありがとう、自分でつぐよ、美里ちゃん。世話になるねえ、なぎさちゃんに正美、どうか…よろしくお願いします」
お爺ちゃんは、突然崩れて頭を深々とさげた。
「まぁ、お父さん…」
母さんは目を見張った。
お爺ちゃんは昔と、すいぶん変わってしまったらしい。
その夜のことだった。
ウガガガァ~
ウゴゴゴゥ~
ウガガガァ~
「うわぁ、な、何あれ!」姉貴ががばっと飛び起きた。
「イビキでしょ、お爺ちゃんの」
母さんは知っていた。
「う…そ…」
その夜はもう大変だった。
立て付けの悪いふすまを閉めても聞こえて来る。
あんな、往復大イビキの人間がこの世の中にいるなんて信じられない。おかげでみんな、一晩中眠れない。
「女ばかりの家にお爺ちゃんが来るなんて、とんだ不協和音だわ、まったく。受験に響かなきゃいいけど…」
姉貴は歌うように言う。
これは内心怒っている証拠だ。
「お爺ちゃんが来たら、朝一に図書館へ行って、そこで一日中いる!」
と息巻いてた姉貴は、イビキのせいで、案の定いつものように寝坊だった。
「あれ!お爺ちゃんは?」
姉貴は部屋の空気でいないとわかるのだ。
「散歩だって、夕方帰るそうよ!」
母さんも、寝坊だ。
バタバタ朝ごはんを飲み込んで、出かけていった。
遅れをとった姉貴は迷ったあげくに、「やっぱ、図書館に行く」と言って、出かけた。
さて一人、なぎさはぽつねんと残されて、コーヒー牛乳を、レンジで暖めた。
「クロワッサンに、カフェ・オレだい」
テレビを消して、FMラジオをつけると、バッハの『トッカーターとフーガ』が流れた。
「♪チャララ~鼻から牛乳」
クロワッサンをパクつきながら歌った。
「♪一人っきりの部屋で~、こんな素敵な時間はな~い あぁぁぁん」
曲も作っちゃう。
本当にこれは、嵐の前の静けさだった。
◇◇
例年より二週間も早い桜の花が、満開の季節になっても、お爺ちゃんの散歩はずっと続いた。
パソコン教室へ通っているらしい。
ウガガガァ~
ウゴゴゴゥ~
ウガガガァ~
相変わらずの大イビキも、整髪料の匂いも、みんな少しは、慣れてきた。
「聞いた話だけど、慣れてくるとあの音が、なくては、眠れないって言う人もいるんだって…」と母さん。
「きゃ~!慣れたくない慣れたくない」
姉貴と母さんは友だちみたいに笑い合う。
「信じられな~い。じゃあ、行って来る」
姉貴も相変わらず、図書館へ通っていた。
そして、なんか変な空気も相変わらずだった。
男性が一人いるだけで、着替える時が意外と大変だった。
お爺ちゃんが来てから、缶ビールのゴミがどんどんたまる。
それまでは、缶のゴミはツナ缶ぐらいしかなかった。
それから、お爺ちゃんが『大』をした後のトイレは強烈で、とても入れたもんじゃない。
「肥溜めの匂いってこんななの?」
姉貴は、母さんに聞く。
「不ウンだと思ってあきらめて…」
と母さんがトイレ用の消臭スプレーを買って来た。
母さんは、なぎさをこっそり呼んで手に千円札をにぎらせた。
「もう、中学だしね、お爺ちゃんの分も晩ご飯作るの頼むわね。今月からお小遣い千円アップの四千円。お爺ちゃんを大事にしてあげてね、お願いね」
これは買収だ。
母さんのそういうところは、わからない。
本当は、お爺ちゃんに対して、恨みがあったんじゃないのと思う。
人間だもの。でも許すなんて、すごい!
それに母さんは、お爺ちゃんが来てから、どういうわけかピリピリしなくなった。
家にもう一人いるのって、全然違うんだって。母さんが言う。
なぎさは、最近ハンバーグに凝っていた。
テレビ番組でやっていた通りにやると、これがなかなかいける。
干シイタケを刻んでいれるのだ。
波多野家では、狂牛病問題が発生してからミンチは豚肉だけになった。
「とうとう、ウチの食卓からは、牛肉は消えたわね~」
姉貴が芝居口調で、しんみりと言った。
「四足は食うなって言うでしょ、昔の人は。本当は食べなくてもいいのよ」
「何それ、よつあし?」
「あっ、何となくわかった、牛や、豚…」
なぎさは本好きであるから、料理の本もつい読み込んでしまう。
自然と、姉貴より雑学になる。
空想してぼ~として、内向的だ。
その点、姉貴はなぎさと違って根っから外交的で、美人だった。
勝気な性格は母親似だ。
夢は「女子アナ!」というぐらいだから、狭き門だ。
今の受験モードが一年近く続くのは誰だって苦痛だ。
『ダメだったら、コメディアン』
と最近、弱音を吐いている。
『ウチは貧乏だから』が口癖の母さんは、ムダなお金は使わない。
何か困った時のために取っておく。
なぎさもしっかり、染みついていた。
新しい本は、勇気を出して本屋の立ち読み、小使いでは本は買わない。
本棚もない。ありきたりの本は図書館に行く。
読む本がなくなるとなぎさは落ち着かない。
「姉貴、もうガマンできない、図書館に明日いっていい?『他人のフリ』をするからさ」
「そうね、『あんたは本が無くては生きていけない人』
だからジャマしないならいいよ」
そこまで、聞くと母さんは、気になる。
「なんで、他人のフリなわけ? 美里」
「だってさ~こちら様はね、シ~ンとしている図書館で、歩きながらプウプウプウオナラするんですのョ。それも毎回!恥ずかしくって、なぎさは、お爺ちゃん似だよね」
母さんは、少し笑った。
お爺ちゃんは歩きながらオナラをする。
でも、あの匂いと一緒にして欲しくない。
そこへ、ウワサのお爺ちゃんが帰ってきた。
「お帰ぇんなさ~い」とみんなが揃って言った。
さっきまでの賑やかさは、消えてシィーンとなってしまう。
「ただいま」
お爺ちゃんは、なんだか元気がなさそうだった。
テーブルの上のハンバーグを見た。
「今日は何だか、食欲がわかないから、よしとくよ…」
せっかくの自信作も食べずに、四畳半の部屋に入った。
「ハンバーグってやっぱり、お年よりの口に合わないのかしらね」
母さんは、ぽつんとつぶやいた。
何だ、そうなのか。
明日、図書館で『老人食』か何か探そう、なぎさはそう思った。
女性ばかりの生活にお爺ちゃんがやって来ると、
やっぱり生活しづらい。
一人の人間って、色んな影響を及ぼすのだと知る。