10-46. 旅立ち
「これに乗るんですか?」
私達は大きなタライのようなものを目の前にしていた。木製の直径3メートルくらいの丸い床の中央に肘掛け付きの椅子が固定されており、後は丸い床の縁に沿って高さ1メートル弱の木の壁が設置されているのみ。壁の一部が内側に開いて出入りできるようになっているだけまだマシだろうか。床下に太い木材が組んであって頑丈そうではあれど、急ごしらえの感は否めず、ニスの臭いもまだ残っている。
異世界への出発の日、私達は大崎の蒔瀬研究所に集合した。そこで出迎えくれた篠さんの誘導に従って地下の駐車場へ行き、マイクロバスに乗った。バスは篠さんの運転で走り出し、数分走ると東京湾沿いの倉庫街へと入っていき、並んでいる一つの倉庫の前で止まった。そして、中に入ったら広い空間の真ん中に、このタライのようなものだけがポツンと鎮座していたのだ。
「普通、転移する時には何も使わないですよね。時空転移も同じです。ですが今回は人数が多いので、皆さんが纏めて乗れるものを用意しました」
「だとすると、これは魔道具ではないんですね」
「ええ、違います。動力も何も付いていないただのタライ舟のようなものです」
篠さんまでタライと言った。そうだよね。そうとしか見えないもの。
「柚姉、本当にこれで異世界に行けるの?」
まあ、これだけを見れば、恭也が不安になるのも分からないでもない。
「行けるよ。これは馬に引かせる馬車みたいなもので、兎に角、私達全員が乗れる物なら何でも良かったんだよ。多分、真ん中に馬代わりの人が座るんだと思う。丸いのは結界を意識してのことじゃないかな」
「柚葉さん、その通りです。良く分かりましたね」
篠さんが褒めてくれたけど、それ程のことでもないような。
「形から大体想像できますから。それで、『馬』は誰なんです?」
時空転移ができる人は少ないから何となく想像できるけど、今ここにはいない。
「私達がここに来たのは視ているでしょうから、すぐに来ると思います」
篠さんの言葉通り、それから直ぐ、この倉庫の外から私達のいる中へと入って来る通路の途中に誰かが転移して来た。通路の扉が開いて、やって来た人の姿が見える。
白いブラウスの上に黒のケープを羽織り、黒のミニスカートの下は柄入りのストッキングに編み上げブーツ。
「おおっ、闇モードの珠恵ちゃんだ」
「灯里ちゃん、闇モードとか言わないでくれる?恥ずかしいから」
言っている傍から顔を赤くしている珠恵さん。可愛い。でも、あれ?
「異世界には時空転移で行くんじゃないんですか?その姿ってことは、闇の力を使うんですよね」
実際のところは紅の御柱の力だけど、珠恵さんは闇の力だと言い張るので合わせておく。
「時空転移で行っても良いんだけど、一瞬で着いちゃうから味気ないでしょう?折角の異世界への旅だし、少しは旅行気分を味わえるように時空の狭間を通っていくのよ」
「一瞬で着いちゃうからって、それだけの理由で珠恵さんが闇の力が使えることを旅のメンバーに教えちゃうんですか?」
そう尋ねたのは、珠恵さんが闇の力を使えるのは、結構秘密なのではと考えたからなのだけど。
「時空転移ができることだって同じくらい秘密だから、大差ないって。そもそも異世界に行くには他の方法もあるんだけど、今の状況とか色々考え合わせて時空の狭間経由が一番良いってことになったんだよ。それに旅のメンバーは人には言えない秘密を他にも知ることになるだろうし、それが一つくらい増えてもってこと」
「はあ、そうですか」
どうやら事前に検討されていたらしいので、私は気にしないでおこう。
「ねえ、珠恵ちゃん。時空の狭間に入っても大丈夫なの?普通の物質は消滅しちゃうから絶対に入らないようにって言われてるんだけど」
「勿論、生身のまま入っちゃ駄目だよ。でも、巫女の力の結界でも闇の結界でもどちらでも良いから結界で囲っておけば、そこは元いた世界から派生した異空間の扱いになるから問題ないんだよ。で、ただ単に時空の狭間の中を移動するだけならそれで十分なんだけど、その状態だと時空の狭間には干渉できないから、時空の狭間にいる敵を攻撃するとなると、ひと工夫必要な訳」
「どんな工夫?」
灯里さんが首を傾げる。
「話としては単純だって。結界の中で時空活性化を起こして、その窓越しに攻撃する。前に篠郷でやったでしょう?あれと同じことだよ」
「ふーむ、なるほど。でも、今の私にはできないね。時空の狭間で敵に遭遇することってあるかな?」
「ないんじゃない?ただでさえ、あそこは距離の概念が曖昧だし、誰にも近付きたくないと考えていれば、誰にも会わないよ」
同じ大学の同期同士、会話が弾んでいるのは良いのだけど、灯里さんが巫女だと言わんばかりの内容に戸惑いを覚えるのだった。
「ダユちゃん、どうしたのです?浮かない顔をしているのです」
ワリサちゃんが心配そうに私の顔を見る。
「灯里さん達の会話が少し際どくて」
「ああ、そんなことだったのですか。私達はオリエンテーションの時に約束したのです。旅の中で知ったことは、他の人には、特に異世界に行ったことの無い人には絶対に話さないって。私もですけど、他の皆も話したりしないのです。それに黎明殿の巫女かどうかは、向こうの世界に行ったら直ぐに分かってしまうのです」
「え?そうなの?どうして?」
ワリサちゃんは私の知らない情報を持っているのだろうか。
「話があったのをダユちゃんは忘れてしまったのです?普通の人は魔法との相性があって中級以上の魔法は一つか良いところ二つの属性までしか使えないけど、黎明殿の巫女は全属性扱えると」
「だから、一つか二つの属性魔法しか使わないようにって注意されたんだけど。私もそのつもりだったし」
「それでピンチに陥ったらどうするのです?二つの属性が封じられてしまった時、秘密を守るのを優先して第三の属性魔法を使わずにいるのです?そもそも、危険な異世界の旅の仲間に隠し事をするのです?信頼関係を損ねたら、旅どころじゃなくなるのです。だから私は最初から教えておいて欲しいと思うのです」
ワリサちゃんは、意志の籠った目で私を見ていた。うん、そうだ、ワリサちゃんの言う通りだ。
「確かにそうだね。隠し事は無しにしないといけないね」
「分かって貰えて嬉しいのです。そう言うことで、清華様が眠ったままになった理由もキチンと教えて欲しいのです」
「え?ああ、そう来るかぁ」
清華のことも、旅の発端ではあるし話さない訳にはいかないとは思う。だけど、幻獣召喚や神の資格のことをすべては話せないし、悩ましい。
「向こうに行って蘭さんとも合流したら皆に話そうとは思うけど、全部は無理だよ」
心の中で思ったことを素直に告白する。
「どうしてもなのです?」
「うん、どうしても」
「分かったのです。そこまでは無理強いしないのです。でもきっと私達はダユちゃん達巫女に護って貰わないと生き残れない時があると思うのです。その時は、全力で護ってくれると約束して欲しいのです」
「それは絶対に。約束する」
黎明殿の巫女の本分は護ること。そこに躊躇いはない。
「そろそろ出発でもよろしいでしょうか」
篠さんが呼び掛けて来た。
いつまでもここで話をしていても始まらない。私達は話を切り上げて、順番にタライ舟に乗り込んでいく。
珠恵さんが中央の椅子に座り、その前に清華を寝かせる。私は珠恵さんの正面の壁沿い。珠恵さんの右側の壁沿いには灯里さん、左側は将士さんが座り、後ろの左右が恭也とワリサちゃん。全員、舟に備え付けのベルトと締めて体を固定する。それまで背中に背負っていたリュックは、胸の方に移動して抱きかかえる。
「準備は良さそうですね」
珠恵さんが私達を見回して、正しくベルトを着用していることを確認した。
「では、行きます。灯里ちゃん、時空の狭間に入る感覚を捉えられるように精神を集中させてね」
「え?うん、やってみる」
珠恵さんが何故灯里さんにだけ声を掛けたのか分からなかったけれど、私も負けじと探知を全開にし、精神を集中させて周囲の様子の変化を逃すまいと構える。
目の前では珠恵さんの周囲に紅いオーラが発生し、そのオーラの強まりと共に珠恵さんの髪と目も赤みを帯びた光を放ち始めていた。
そしてタライ舟が浮き上がり、それを丸ごと囲むように赤い結界が現れる。
次の瞬間、周囲の色が消えた。探知ではタライ舟の中は視えるけれど、結界の外は何も視えなくなった。真っ暗な中で薄く光っているのはタライ舟を囲んでいる結界と紅いオーラを発している珠恵さんだけだ。
「へー、これが時空の狭間の中なんだ。あちこちにある小さい点は、全部異世界ってこと?私達の世界も点になっているけど、良く見ると幾つかの点が集まってるね。周辺異空間も見えているってことだよね?」
「そうだよ。中心となっている世界は少し大きいのが分かる?」
「うん、分かる。でも、私達が向かっている世界がどれかは分からないな。ん?見覚えがあるような気がする点が二つある」
灯里さんと珠恵さんとの間で交わされている会話からすると、二人共時空の狭間の中が視えているらしい。
「前に行ったことのある世界は、そういう風に見えるんだよ。二つの内、一つがダンジョン世界、もう一つが今向かっている世界だよ。ダンジョン世界は崩壊し掛けているからどっちがどっちか分かるんじゃない?」
「あー、細かい点がやたらと沢山ある方がダンジョン世界だね。それで、到着まで後どれくらい掛かるの?」
「もう直ぐだよ。私達の世界は季さんが結界を張っているから普通に行こうとすると一週間掛かるけど、こっちの世界にはそれが無いからね。私が気を向ければ直ぐに中に入れるよ。じゃあ、灯里ちゃん、世界に入る時の感じに気を付けて」
「おうっ」
灯里さんが気合を入れた直後、周囲に風景が現れた。真下は草原だ。遠くに山や森が見えている。
「凄い、異世界に来たのです。太陽が二つ見えるのです」
ワリサちゃんが燥いでいる。
「喜ぶのは良いけど、これから結界を外すよ。結界を外すと、こっちの世界の影響を受けるから注意してね」
「注意って何をなのです?」
ワリサちゃんはキョトンとしていた。
珠恵さんはその質問に答えるように、微笑みながら結界を外した。すると、草原を流れる風が頬に当たり、緑の匂いに包まれる。
「あ、い、痛いのです」
ワリサちゃんが急に苦しみ出した。と、ワリサちゃんの体が金色の光に包まれていく。
「痛い、痛い」
ワリサちゃんは床の上に寝転がって悶えている。
暫くすると痛みが止まったようで、手を突いて起き上がった。
同時に金色の光が消えていって、ワリサちゃんの姿が見えるようになったのだけど。え?
「理沙ちゃんが猫耳になってる」
灯里さんの驚いた声が響く。
「尻尾も生えているのです」
猫耳に猫の尻尾。ワリサちゃんが猫人族になっていた。これじゃあワリサちゃんじゃなくて、ニャリサちゃんだよ。あー、でも、ワリサちゃんのワがワンちゃんのワであるとは言ってないからなぁ。猫人族でもワリサちゃんと呼ぶしかないか。
しかし、猫人族のワリサちゃんはとても可愛い。首輪を着けてペットにしたいくらいだけど、そんなことをしようとしたら怒られるだろうからグッと我慢だ。
「あれは馬車じゃないか?」
私達の騒ぎを他所に、ベルトを外して立ち上がっていた将士さんが遠くを見ている。
そちらの方に意識を向けると、将士さんが言う通り、一頭立ての馬車がこちらに向かっているのが見えた。御者台には女性が座っている。僅かにだけど、巫女の力を発散している。案内役の蘭さんに違いない。
「蘭さんが来たね」
珠恵さんの言葉が、私の推測を裏付けてくれた。
「おーい」
いち早くタライ舟から草原に降り立った恭也が、馬車に向けて手を振りながら駆けていく。
「恭也、この辺りに何がいるか分からないんだから、勝手に飛び出さないで」
弟の面倒を見るのは姉の役目。仕方なく私も草原に降りて、恭也の後を追い掛けていく。
自然の匂いが溢れていて空気が美味しい。
この旅で目指すのは、古の精霊の森の奥にあると伝えられている精霊の泉。その泉に浸かれば、痛んだ魂も治るのだとか。私達の目的は清華をその泉に連れていき、泉の力で魂の形を元に戻して目覚めさせることだ。
一日でも早く清華をそこへ連れていって、眠りから覚めた清華と話をしたい。だから浮かれている場合では無いと頭の中では分かっているものの、この見知らぬ世界で私達を待っている冒険の旅にどうしてもワクワクせずにはいられなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
創られし巫女の本編はこれで終わりです。
異世界へと旅立った柚葉たちのその後は、いずれ書きたいのですが、その前に書いてしまいたいお話がありまして、すみません、長い目で見守っていただけますと幸いです。
なお、この後金曜日におまけ投稿を予定しています。




