10-34. 中央御殿へ
土間に腹ばいになった私は、体操着に着替えておいて良かったとつくづく思った。
が、来ると思っていた缶詰の衝撃がいつまで経っても来ない。探知でよくよく確認すると、私の横に珠恵さんが立っていて、その手で缶詰を握っていた。
「ほーう、お前さん、その技が使えるのか」
「季さんの弟子ですから」
「ふむ、なるほどな。時には巫女の娘だけでなく、弟子もおるのか。まあ良い、それを儂に貰えるか?」
月夜さんは珠恵さんの前に進んで右手を差し出した。
「これ、本当に危険ですよ」
「案ずるな。儂とて弁えておるわ。崇高なる御殿の空間でこれを開けたりはせんよ。儂にも個人的な異空間はあるからの、そこで一人楽しむのだ」
「分かりましたけど、それをやるのも私達を中央御殿に入れさせてくれてからにして下さいね。後、これ、食べるまでは冷たくしておいた方が良いですよ。常温だと発酵が進んで全部融けちゃうらしいですから」
「お前さんも心配性だのう。だが、委細承知した。では氷室にでも入れておこうかの」
月夜さんは珠恵さんから缶詰を受け取ると、そのまま何処かへと転送した。珠恵さんの忠告を素直に聞きいれてくれたようだ。
一時はどうなることかと肝を冷やしたけど、何とか危機は回避できた。
「さて、それでだが、ここが現代の家の中なのか?少々暗いと思うのだが」
「ここは、お店の裏の倉庫みたいなところですから。住んでいるのは二階です。あと、そこの戸口から外に出られますけど、まずは着替えたいので二階に行って良いですか?」
私は体操着のまま外に出たくはなかったし、しかも土間で腹這いになったので汚れてしまっている。月夜さんを案内がてら、服を替えてしまいたい。
二階に上がると月夜さんには目新しい物ばかりで驚いていた。月夜さんが色々尋ねるのに灯里さんと珠恵さんとで対応してくれていた。
その間に静華と私は普段着になる。静華は長袖で膝下丈のワンピース、私は半袖Tシャツに短パン。
私達が着替え終わって月夜さん達と合流した時、月夜さんは台所にあるものを確認していた。
「ふーむ、これだけのものが何処の家にもあるのか。便利になったものだな。これらは異空間に持ち込むこともできるのか?儂も使ってみたいのだが」
「ガスは知りませんけど、電気は私達の異空間でも使えてますから問題ないですよ。もっとも、どうやって電気を使えるようにしてるか私達は知らないので、そこは理亜さんとの相談になるのかな?」
自信なさげに灯里さんが珠恵さんを伺うと、珠恵さんは頷いた。
「そうだね。この手のことは三ノ里に相談するのが一番だよ。月夜さんなら、理亜さん以外にも知り合いもいるだろうし」
けれど、月夜さんは首を傾げていた。
「そうなのか?母様以外に分かるものがいるとは思えんが、あ、いや、篠がいたな。篠はいつも母様を手伝っておったから当てにできるだろう。後は、孤高の天文学者に、眠り姫に、薬草博士だったか。いずれも門外漢な気がしないでもないが」
「まあ、それから四百年も経ってるので、変わってますよ。それに三ノ里の皆さんは、今の科学技術も学んでますし、新しい人も増えてますから」
そう珠恵さんはフォローしつつ、どことなく自信なさげだ。月夜さんの話を聞く限り、それぞれ好き勝手に自分の興味ある領域を極めている人達なのだろう。でも、眠り姫って何を極めようとしてた人なんだ?それに四百年間寝続けた月夜さんこそ、眠り姫に思えるのだけど。
兎も角も、家の中の見学はそこで打ち切りとして、お店の裏側から外に出て街中に赴いた。
そこで月夜さんは目に入って来たものすべて、即ちアスファルトで綺麗に固められた道にも、通りを走る車やバイクや自転車にも、高架を走る電車にも、コンクリート造りの建物にも、街を彩る街灯や電光掲示板にも、一つ一つに驚いては目を見張っていた。
「母様から儂が生まれる前の一千年間の変化について聞かせて貰ったことがあったが、この四百年での変わりようはそれより遥かに凄まじいな。何と言う繁栄ぶりだ。しかし、これだけ人だらけでは、確かに巫女としては生き難そうな時代だな」
「ですから、月夜さんも人前で力を使わないようにくれぐれも気を付けてくださいね。表の巫女ですら、見せる力は本当に限定してるんですから」
珠恵さんが念を押すと、月夜さんは同情するような目になった。
「ああ、承知したよ。それにしてもお前さん達は世の中に合わせるために苦労しているのだな。儂は御殿に籠っていた方が余程性に合っていると思い知ったぞ」
「この世の中も、そこまで捨てたものでもないですけどね」
珠恵さんの言葉に、灯里さんも頷く。
「そうですよ。良いところも沢山あるんです。美味しい食べ物があって、娯楽もあって、何処にだって行けて、遠くの人とでも何時でも話ができて。昔だったらできなくて、今ならできることだって一杯ありますよ。ねえ、今度母と三人で遊びに行きましょうよ。私達が案内しますから、ね」
キラキラとした瞳で見詰める灯里さんに、月夜さんは静かな笑みを見せた。
「そうだな。こうして会えたのも何かの縁だ。それを無かったことにするのは儂とて寂しいことよ。されば、偶にはお前さん達と交わるのも良かろう」
月夜さんが目線を向けると、灯里さんは笑顔で喜びを表していた。
「さて、と。そうとなれば新しい時代の物見はこの程度で十分だな。次は儂が約束を果たすとしよう。中央御殿に向かうぞ」
言うが早く、月夜さんは踵を返すと元来た道を歩き始める。
私としても待ってましたの状況ではあるものの、その前にやるべきことがある。店の建物に戻ると、月夜さんを伴って店内へと向かった。月夜さんを琴音さんに引き合わせたかったのだ。琴音さんのお店を通り道として使っておいて、何も報告しないのは失礼だからね。
月夜さんを誘い出すのに時間が掛かったお蔭で、お店の閉店時間は過ぎてお客様はいなくなっていた。お店の後片付けをしていた琴音さんに月夜さんを紹介すると、琴音さんは月夜さんへの挨拶と共に「良かったわね」と祝いの言葉をくれたので、「ありがとうございます」と会釈した。
共用異空間の入口を使わせてくれている上に、泊まらせても貰うし、琴音さんにはもっとお礼を言いたいところだけど、目的地である中央御殿に行くことが優先だ。その気になっている月夜さんの気が変わらないとも限らない。なので、琴音さんとの挨拶は早々に切り上げさせて貰い、再び共同異空間へと入る。
「いよいよ中央御殿に行けるんだね。どんなだかワクワクしちゃう」
異空間に入って直ぐ、灯里さんの姿からアバターの身体に切り替えた祈利さんが嬉しそうな声を上げる。
私も神槍が目的とは言え、話にしか聞いたことの無い中央御殿、しかも月にあると言うそれの様子は興味を惹かれるものがあった。だから会話はそこそこに、扉の向こう側について想像を巡らしながら月夜さんと並んで歩いていこうとしていた。しかし、夢想しようとする私の集中を妨げるものがある。
「何か音がするが」
月夜さんの視線は前を向いたままなので、私に問い掛けているのか分からない。
「しますね」
通話の向こうの方から音が流れてきている。人数少ないこの異空間内で私達以外の音源は一箇所しかない。
「これからもっと五月蠅くなると思いますけど、我慢してください」
中央の広場まで進むと、音がよく聞こえるようになり、もう何をやっているのかは明白だった。
「何だこの調べは?」
「ロゼマリの歌ですね。愛花さんと摩莉さんが歌っているんです」
「唄?随分と賑やかな唄だな」
「月夜さんからすればそうかも知れません」
音源をどうやって用意したのかは分からないけど、二人の声に合わせて伴奏が鳴り響いている。このような演奏は四百年前には無かったに違いない。
中央から伸びているそれぞれの通路は直線ではないので、通路の入口からは奥が見えない。だから、黄色の通路に入って暫くの間も音だけが聞こえていた。
そうして通路を進んで最初に目に入ったのは、椅子に座り手拍子をしている有麗さんの後ろ姿だった。それから扉の手前で歌いながら踊っている愛花さんと摩莉さん。花楓さんは通路の端で立見していた。この様子だと、ロゼマリ大好きな有麗さんが愛花さん達に頼んで歌って貰っているのだろう。
「何故二人だけが歌っておるのだ?」
私は答えに詰まった。
歌われているのはロゼマリのオリジナル曲だし、ロゼマリは二人ユニットで愛花さん達がロゼマリの物真似が得意だから言えれば簡単なのだけど、ロゼマリはと問われるとバーチャルアイドルの話に飛び火して、バーチャルアイドルとは何か、そもそもアイドルが何でバーチャルって、と話がどんどん広がっていき、どれだけ説明すれば月夜さんに理解して貰えるだろうかと考えると気が遠くなる。
「愛花さんと摩莉さんは歌が上手くて、その二人の歌を有麗さんが大好きだからです」
結局、私は大幅に説明を端折った。ロゼマリのことは、今度ゆっくり話すことにしよう。
「確かに達者な歌声だ。有麗が好きになるのも分かる気がするな」
感心したような声を上げた月夜さんは、その場に立ち止まって愛花さん達の歌う姿を見詰めている。そんな月夜さんの様子に気を良くしたのか、或いは観客が増えて嬉しくなったのか、愛花さん達は曲が終わってもそこで止めずにそのまま次の曲へと入って行った。
私だってロゼマリの歌は好きだ。生歌なんて滅多に聞けるものでも無いし止めるのは惜しい。でも、何故今なのだろう。その扉の向こうには中央御殿が待っていると言うのに。いや、中央御殿は逃げないのだから、ここはじっと待とう。
そうした決意も、二人が二曲目を歌い上げた後にMCに入ったところで挫け掛けた。
「イエーイ、皆盛り上がっているー?ロゼマリだよーっ」
「ちょっとロゼ、貴女が二人分紹介しちゃったら私の話すところがなくなっちゃうじゃない」
「え?あ、マリ、ごめん。いや、何か調子が良くってさぁ。今日のお客様はノリが良いから」
「それは分からないでもないんだけど。と言うことで私がマリだよー」
「私がロゼでーす」
二人のトークが繰り広げられているのを見た月夜さんさんが私に声を掛けてきた。
「何故あの二人は話を始めたのだ?」
それは、二人がロゼマリのライブを再現しているからなんだけど、ロゼマリやライブを知らない月夜さんにそれを説明するのは、以下同文。
「今は歌の間に小話を入れるのが流行りなんです」
「ふむ、そう言うものか」
取り敢えず月夜さんが納得してくれたので良しとしておく。
そこから先、雑念で二人の歌が楽しめないのは損だと腹を括り、私も二人のライブにのめり込むことにした。




