9-36. 見送りと出迎えと
正午過ぎ、崎森荘で早めのお昼を食べた私達は、港に向かうために宿を出て車に乗り込みました。冴佳さん達は花蓮さんの家の車、珠恵さん達は私も一緒に紅葉さんの車です。
「私に話って何ですか?」
助手席に乗り込んだ珠恵さんが、運転席の紅葉さんに話し掛けました。その様子を、私は論子さん千景さんに挟まれた後部座席の真ん中から眺めていました。
宿を出て車に乗ろうとした時、私はいつものように助手席に入ろうと考えていました。でも、紅葉さんが珠恵さんに話があるからと、私には後部座席に入るようにお願いされたのです。お蔭で論子さんの隣に座れたのですけど、前の二人の会話が気になって口を開かずにいました。
「珠恵さんに最後に聞いておきたいことがあるのよ」
「はい」
その時、前に停まっていた花蓮さんの家の車が動き出しました。それを追い掛けるように、紅葉さんも車を出しました。
「珠恵さん、貴女にお師匠様がいるって聞いたのだけど」
前を向いたまま、紅葉さんが話し始めました。
「ええ、いますよ」
どうやら紅葉さんが珠恵さんと話したかったのは、季さんのことのようです。
「その方のお名前は時と言うのではなくて?」
「はい、その通りです」
「その時さんのお母様がデリアさん」
え?季さんのお母さんは理亜さんだと珠恵さんが言っていたような。
「あー、それは、季さんの結婚前の話ですね。季さんが名前の漢字に時間の『時』を使っていた時の」
「ええ、そう。今は違うの?」
「はい。今は季節の『季』ですね。プライベートと分けたかったとか」
「そうなのね。それで結婚されて、今は大学生の娘さんまでいらっしゃる」
話をするために紅葉さんの方を向いていた珠恵さんの顔がこわばりました。でも、紅葉さんは運転のために前を見ているので、珠恵さんの表情の変化には気付いていないようです。
「い、いやぁ、祈利ちゃんはまだ高校生だったようなー」
「何を言っているのですか?私は大学生の娘さんが祈利さんだとは言いませんでしたよ」
「あ」
どうやら、珠恵さんは自分が墓穴を掘ったことに気が付いたようです。
「それに、祈利さんが自分で言っていましたから。貴女と同じ大学なのでしょう?」
「あの子、そこまで言っていたんですか」
珠恵さんは肩を落として溜息を吐きました。
「まあ、本人もうっかりしていたみたいですけどね」
紅葉さんは、うふふと微笑んでいます。
「はあ、そうですか」
気のない相槌を打つ珠恵さん。そして少しの間の沈黙のあと、声のトーンを変えた紅葉さんの言葉が聞こえて来ました。
「そう言えば、冴佳さんも貴女と同じ大学なのですってね」
「はい。大学でも会ったことがあります」
「それって、共通のお友達がいるからでしょう?あの明るく元気な子、えーと、向陽さんでしたっけ?貴女と同じ学科なのでしょう?」
「ええ、そうです」
私にはどうして今この話題を紅葉さんが持ち出したのか分かっていませんでした。でも、珠恵さんは心なしか追い詰められた表情をしています。
「あの子、私の知っている人に良く似ているのよね。お昼の時に聞いたけれど、お母様と良く似ているのですって?姉妹に間違われることが多くてその度にお母様が喜んでいるとのことでしたけど。貴女はあの子のお母様に会ったことはあるの?」
「ありますよ。確かに二人は姉妹みたいに良く似ています」
その話は、ここで聞くまでもないものだと思えました。お昼を食べていた時に、冴佳さんや五条さんも同じことを言っていましたから。
「それは、私の思っている通りだと捉えて良いのね」
「その訊き方は反則ですよ」
珠恵さんの口が尖っていますけど、紅葉さんは気にせず微笑んでいます。
気が付くと車は港の入り口まで来ていました。紅葉さんは駐車スペースへと車を移動させていきます。
「バレてるな、これ」
私の横で、論子さんが小声で呟いたのが聞こえました。
「何がです?」
前の座席での会話に付いていけなかった私は、小声で論子さんに問い掛けます。
「んー」
論子さんは口を噤んで小さく唸り声を上げ、勿体ぶったように私をチラ見しました。そんな論子さんに私が答えを促そうとしたところで、車がバックして停まりました。
「着きましたよ。荷物を下ろしますからね」
そう言い置いて、紅葉さんは外に出ていきました。珠恵さんも千景さんも同じように車から降りて行きます。
論子さんもドアに手を掛けて前屈みになると、一瞬私の方に振り返りました。
「瑞希ちゃん、紅葉さんの横に付いていると良いよ。きっと面白いことがあるから」
微笑みを向けながらそう言い残すと、車のドアを開けて出ていきました。最後に私も論子さんに続いて車から出ます。
外は太陽が照っていて暑い中、港特有の海の匂いがしています。
紅葉さんは車の後ろに立ち、トランクから順番にキャリーバッグを下ろしていました。珠恵さん達はそれぞれのバッグを受け取ると、車から少し離れた位置で紅葉さんの方を向いて横に並んでいます。
「お見送りありがとうございます」
中央に立っていた千景さんが代表して挨拶すると、両脇の二人もお辞儀をしました。
「いえ、こちらこそ、今回は来ていただいて本当に助かりました。今度は何も無い時に遊びに来てください」
紅葉さんがそう応じてお辞儀をすると、三人はそれに応じてから桟橋の方へと向きを変えて歩き始めました。
そこに紅葉さんが声を掛けます。
「そうそう論子さん」
「はい?」
呼び止められた論子さんだけが足を止めて振替しました。
「貴女、今度来るときは自分で鳥の軟骨を持って来てくれると嬉しいのだけど」
「え、ええ」
紅葉さんのにこやかなお願いに、論子さんは引きつった笑顔で応じていました。
なるほど、確かに面白いです。
私が紅葉さんの隣でニコニコ顔でいると、それに気付いた論子さんがむすっとした表情でツカツカと私の横まで歩いて来て、ひっそりと耳打ちしました。
「さっき言ったことは私のことじゃないから」
そうだろうと言うことは私も分かっていましたのでウンウンと頷くと、論子さんは満足そうな表情になり、千景さん達を追い掛けていきました。
「まったく、あの子ってば」
仕方がないわね、とも、私が気付かないとでも思ったのかしら、とも取れるような呟きが隣から聞こえて来ました。見ると、紅葉さんは優しい目で論子さんの動きを追い掛けています。
やっぱりお母さんなのですねと感心して眺めていると、紅葉さんが私の視線に気付いて取り繕うような仕草をしました。
「さて、もう一人、話をしたい人がいるのよね」
別に私のことなんて気にしなくても良いのですけど。ともあれ、紅葉さんの向かう方向へ一緒に歩いていきます。
「あの、向陽さん、少し良いかしら?」
「あ、はい」
紅葉さんが呼び止めたのは、向陽さんでした。声を掛けられて立ち止まった向陽さんは、私達の方に向き直りました。
「この島はどうでした?」
「凄く素敵です。島が丸ごと封印の地なんて他にはありませんし、海は綺麗だし、景色も良いし、いつまでもいたかったです」
「そう?それなら、また来てくださいな。いつでも歓迎しますよ。今度はお母様も一緒にいらしたら?」
「母ですか?」
向陽さんは、キョトンとした表情になりました。
「ええ、お母様。実は私、貴女のお母様とお会いしたことがあるの。貴方が生まれる前、まだあの人が独身だった頃に。本当、今の貴女にそっくりだったわ。もっともあの人は無口でしたけど」
「え?無口の母をご存じでいらっしゃる」
向陽さんは顔に動揺が現れていて、言葉が変です。
「そうよ。無口でしたけれど、貫禄がありましたね。流石は最強の名を――」
「分かりました。分かりましたから、そこで止めてください」
紅葉さんの言葉を向陽さんが慌てて遮りました。
「もしかして、私のことも?」
上目遣いにこちらを見る向陽さんに、紅葉さんは笑顔で答えました。
「大丈夫ですよ。誰にも言いません」
告げられた言葉に、安心した表情を見せた向陽さん。
「お願いします」
下げた頭を再び上げた時には、気持ちを切り替えたのか、吹っ切れたのか、元の明るい笑顔に戻っていました。
「それじゃあ、今度は母を誘って来ます」
「ええ、是非」
互いに微笑み合うと、向陽さんはくるりと体の向きを変えて歩き出しました。紅葉さんは、嬉しそうに笑みを浮かべています。でも、実は私は何が起きていたのか分かっていませんでした。向陽さんのお母さんを紅葉さんが知っていることで、何故あんなに向陽さんが動揺したのか。紅葉さんが向陽さんの何を知っているのか。
モヤモヤした気持ちを抱えながらも、桟橋に向かって行く皆を見送ります。
そんな時、向陽さんがこちらを振り向きました。そして、ピースマークを作った右手を額に当て、そこから右手を斜め上に伸ばしながら「じゃねー」と別れの挨拶を飛ばしてきて。
「え?あっ、あ――」
天野さんと言いそうになったのを慌てて我慢しました。横を見ると、紅葉さんが私を見て笑っています。悔しいですけど、漸く私は向陽さんが天野さんであり、向陽さんのお母さんが珠恵さんの師匠の季さんなのだと気付きました。それに車の中での会話も、珠恵さんにそのことを確認するためのものだったのだと。
天野さんは柚葉さんのチームの一員との話でしたから、論子さんも勿論知っていたと言うことですか。
でも、思い返すと、私が天野さんと会っていたとき、向陽さんの身体の反応は宿にありました。ですから私は二人が別人だと思い込んでいたのですけど、見事に騙されていたのですね。勉強になりました。
私が紅葉さんと桟橋の入口まで辿り着いた時、島を出る皆はタラップのところまで進んでいて、順番に船に乗り込もうとしていました。
冴佳さんが、五条さんが、次々とこちらに手を振りながらタラップを渡り、船の中へと入って行きます。最後は千景さんでした。
乗客がすべて乗り込み終えると、タラップが外され、もやい綱が解かれて、船が桟橋から離れ始めました。
花蓮ちゃんも、花蓮ちゃんのお父さんも、紅葉さんも私も、手を振って見送ります。私達は船が方向を変えて港から出て行って見えなくなるまで手を振り続けました。
そして時間が経って、夕方。
この時期なのでまだ十分明るいですけど、夕方。
私は再び港に来ていました。
その日最後の船が到着し、乗客が下りてきます。
その内の一人が、私に気付いて手を振ってきました。
「瑞希、ただいま。迎えに来てくれたんだ」
「おかえりなさい、恭也くん。紅葉さんが帰りの船に乗ったことを教えてくれましたので。講習はどうでしたか?」
「少しは身に付いたかな。瑞希は講習会行かないのか?」
「そうですね、今度行ってみましょうか。でも、目指すのは石垣島の高校のつもりです」
「そうか」
「はい」
東京に行けば、柚葉さんがいますし、珠恵さんや他の人達にも会えるでしょう。でも、皆がいるところに私が行っても、私に出来ることは少なそうに思えます。私はここで私にしかできないことをやった方が良いのではないかと考えるようになっていました。




