9-33. 山の北側
「これが安全装置になっていて、三角の印が一致するようにツマミを回しておくと、安全装置が外れて使えるようになっている状態ね」
私達は南御殿の母屋の裏手に来ています。ここは位置的に外から覗き込まれ難いので、実験的なことをやるには好都合なのです。勿論、紅葉さんにお断りは入れてあります。そのついでに紅葉さんも誘ってみたのですけど、興味をひかれない様子で珠恵さんと二人で実験するようにとのことでした。
そのことを珠恵さんに伝えたら、珠恵さんも先程母屋に行って紅葉さんと話した時に同じ反応をされたと言われました。その返事を聞いて、珠恵さんが私の家に来る前に母屋に寄っていたことを思い出しました。確かに私に伝えるより、紅葉さんに伝えるのを優先すべき話でした。
そして今、珠恵さんは印籠の蓋を開けて中を見せてくれています。印籠の下半分は容器のようですけど、中は空洞では無くて少し奥の方で上げ底のように蓋がされていて、その蓋の中央にツマミが一つ付いています。ツマミは半回転するようになっていて、左に回すとツマミに付いている三角の印と、封に付いている三角の印が向き合います。そうすると安全装置が外れている状態になると言うことですね。
「これで蓋をしておいて、蓋を強く押すと起動するんだけど、その前に空いた手を繋いで貰える?」
「はい」
珠恵さんはこの印籠が何かを知っているのですから、言う通りに手を繋いでおかないと不味いことになるのでしょう。なので、言われた通りに左手で珠恵さんの右手を握ります。
「よし、それではやってみよう。瑞希ちゃん、強く押してみて」
「やります」
印籠は私が片手で握るには少し大きく、力を入れ難かったのですけど、それでも頑張って蓋を押し込みます。すると、手の中から力の波動が感じられました。そして、次の瞬間、私達の周囲の光景がガラッと変化しました。
「ここは?」
咄嗟には分からなかったものの、時間を掛けて周囲を見渡すと、そこが見覚えのある場所であることに思い至りました。
「被害者を発見したところですね」
問い掛けるような口調としたものの、それが正解であることは、珠恵さんが頷くまでもなく探知で周囲の地形を確認することで分かります。
「そう。つまり、その印籠は転移の魔道具だったってこと」
「でも、黎明殿の魔道具がどうして?」
印籠を持っていたのは、敵とも言うべき翠の魔法使いでした。あんな好戦的な人達に、黎明殿の誰かが渡すとは思えません。
「この前、この世界の別の場所にも向こうの世界からの無人機による襲撃があったんだよ。その無人機の出発地点が分かったから二ノ里の人が偵察に行ったんだけど、見付かってしまったらしいんだよね。そこで印籠を落として、拾った敵の魔法使いが印籠を起動したところに、二ノ里の人が魔法使いを後ろから攻撃したけど、印籠は止まらなかったから魔法使いは怪我をしたままこちらに転送されてしまったと、そう言うことみたい。実際のところは良く分かってないんだけど」
「分からないのですか?どうしてです?」
珠恵さんは俯き加減に私を見ました。
「偵察に行った人が音信不通のままだからだよ。今、向こうの世界では二ノ里の人達が救出作戦を進めているって聞いてる」
「それは大変なことですね」
そんな話を聞いてしまうと、誰一人欠けることなく完了した昨日の作戦は、ずっと楽なもののだったような気がしてしまいます。
「きっと大丈夫だよ。黎明殿の巫女はそう簡単にはやられないから」
気を落とした私を見て、珠恵さんが慰めの言葉を掛けてくれました。でも、珠恵さんの言う通りかもと思えます。昨日の作戦の時も巫女の力を使わないようにと言われていたので、同じように二ノ里の人達も巫女の力は使わないようにしているのではないでしょうか。だから手古摺っているだけで、その気になれば簡単に解決する話なのかも知れません。
そう考えたからと言って気掛かりなことが無くなるものでもありませんけど、ともかく、気持ちを切り替えることにします。
「それで、珠恵さん。印籠が転移の魔道具で、起動すると常にここに来るのだとすると、ここに何か仕掛けがあると言うことですよね?」
「そうだね。多分、対になる魔道具が埋めてあるんじゃないかな?」
「設置型の転移陣ではなくてですか?」
私は封印の間へ行くための転移陣を思い出しながら尋ねました。しかし、珠恵さんは首を横に振っています。
「惜しいけど、少し違うんだよね。でも、転移陣を使うところはその通り。瑞希ちゃん、前に母屋で話をしたときに異世界からこっちの世界に来る方法について話したのを覚えてる?」
突然、前のことを持ち出されて慌てましたけど、頑張って記憶を掘り起こします。
「はい、えーと、異世界からこちらの世界にくる方法は三つあるって話ですよね?」
「そうそう、その話。三つの内、一つ目は、時空の狭間を通って来る、二つ目は、異世界をこの世界に繋げて、その繋ぎ目を通って来る、で、この前はそこまでしか話せなかったけど、
三つ目が瑞希ちゃんが考えた通り、転移陣を使って来る、と言うことね」
「はい」
ここまでは復習です。
「それで転移陣、正確には時空転移陣だけど、ただ単に設置しちゃうとセキュリティ上の問題が発生するのは、分かる?」
「その転移陣を知っていれば、誰でも転移に使えてしまうってことですか?」
前に柚葉さんがそんなことを言っていたような気がします。
「そうそう。瑞希ちゃん、良く分かってる。それで相手が巫女なら、登録式の力の石を使えば良いんだけど、汎用魔道具だと石に登録できないんだよね」
登録式の力の石と言うのは、予め登録した人の力だけに反応する力の石のことでしょう。確かに巫女の力は一人一人個性がありますから、区別は可能です。でも、魔道具に籠めた力がどれくらい元の巫女の個性を再現しているのかは分かりませんし、魔道具に力を籠める巫女が決まっている訳でもないでしょうから、登録が難しいだろうことは想像に難くありません。
「それで、どうしたのですか?」
そう尋ねると、珠恵さんはしかめっ面になりました。
「瑞希ちゃん、ここから先は私も理解が追い付いていないところがあるから、訊かれても答えられないかも知れない」
「え?あ、はい」
どうやら難しい話のようです。
「それじゃあ、説明を始めるけど、瑞希ちゃんは、共鳴マーカーのことは知ってる?」
「はい」
マーカーは、巫女の力で作った印の総称ですけど、そのうち、転移陣を簡素化した形のマーカーは、二つ同じ形を作ると互いに共鳴し合う性質があるのです。それをマーカーの共鳴現象と呼んでいて、その共鳴現象が起きるマーカーのことを共鳴マーカーと言うのです。
「共鳴マーカーの中には、異世界間でも共鳴するものがあって、それは時空共鳴マーカーって呼ばれているの。その時空共鳴マーカーを使って異世界間で通信する技術を開発して、その通信路上で公開鍵暗号を使った暗号通信をする技術も開発して、さらにその暗号通信で取り決めた情報を使って毎回違う転移陣を展開する技術も開発することで安全に異世界転移をできるようにしたんだって」
珠恵さんが一気に説明をしてくれましたけど、知らない言葉が多くてその内容が頭に入ってきません。
「あの、通信するところまでは何となく分かるのですけど、その後の暗号通信のことが良く分かりませんでした」
「うん、そうだよね。私も概要しか分かっていないよ」
珠恵さんがウンウンと実感を込めて頷いています。
「もうさぁ、研究所の人達ってそう言うことを考えるのが好きらしくて、色々教えてくれたんだけど、難しすぎちゃって。公開鍵暗号だって、最初は大きな素数の掛け算を使っていたけど、楕円曲線を使ってより効率良く暗号強度を高められるようになったとか、さらにその理論について嬉々として説明してくれたよ。でも、私には理解できなかった。いや、研究所の人達って凄いって思った」
「はい、珠恵さんから聞いただけでも凄そうに感じました」
私の感想を聞いた珠恵さんの顔が綻びました。
「ありがとう、瑞希ちゃん。でも、瑞希ちゃんは賢そうだから、将来、研究所に入ることもあるかもね」
「え?私も研究所に入れるのですか?」
「それなりに勉強して色んなことを理解できるようになって、研究をしたいって思うようになれば入れるよ」
私はそういう意味で尋ねたのではないのですけど、珠恵さんはそのことには触れませんでした。わざとでしょうか。ナンバー持ちではない封印の地の巫女が、黎明殿の研究所に入れるのかどうか、重ねて尋ねる気にはなりませんでした。




