8-40. 予期せぬ出現
その週の残りは、大学に行ったり、アルバイトをしたりして過ごした。大学と言っても、テストは水曜日までで終わったので、行ったのはテニスサークルだ。由縁もいて、お見舞いに来てくれた時以来だったので身体のことを心配されたが、もう何ともないと伝えておいた。実際、一部の傷は瘡蓋も取れていて、傷痕も目立たなくなっていたので、肌を見せてもあちこち刺されたとは分からなくなってきている。ただ、まだ素肌を他人に見せる気にはなれず、長袖の服を着ている。
時空間の探知の練習は、毎日続けている。一人でも色々試してみて、私の場合は時空活性化と遠隔探知を組合せるのが今のところは一番効率が良いと分かった。でも、時空活性化と近接探知でも、魔獣の気配らしきものが感じられるような気がする。柚葉ちゃんによれば、近接探知は技量が上がれば上がるほど、細かいところまで視えてくるそうなので、近接探知は近接探知で、練習したいところだ。なので、時空活性化と遠隔探知と近接探知の三つを安定して同時に起動できるようになるのを当座の目標としている。この三つなら、傍から見ても何をしているか他人にまったく気取られることがないから、何時でも練習できる。掛ける力を減らす方が技の安定化にも役立つことが分かって来たので、柚葉ちゃんに言われなくても、必要最低限の力の量の見極めはしなければならないことだった。
週末、母が仕事から帰って来た。前の週の金曜日に退院し、その週末は何ともなかったことから、母は月曜日から仕事に戻っていた。大抵は土曜日の朝に帰ってくるのだが、この週末は金曜日の夜に帰って来た。少しでも早く私の様子を確認したかったのだろうか。
母は家に帰って来ると、仕事に出掛けるときに着ていたスーツからカジュアルな普段着に着替えてリビングに入ってきた。その時リビングにいたのは私だけ。私も自室にいたのだが、母の帰宅に気付いたので、いつものように話をしようかとリビングに降りてきていたところだった。それで母がコーヒーを淹れてくれたので、二人で食卓のテーブルに着き、コーヒーを飲みながら話をした。
「そう言えば、前にトモちゃんに時空の狭間のことを話したことがあったわよね」
それまでの話題が途切れたところで、母が話を振って来た。
「うん、私の能力について話してくれた時だったと思う」
「その時、時空の狭間に入れるかについては話したかしら?」
「ううん」
私は首を横に振る。
「お母さんは知っているの?」
「私も又聞きになりますけど」
そう前置きしてから、話を続ける。
「時空の狭間に人や物を入れる方法はあるらしいわ。でも、できる人は限られているらしくて、その方法は明らかにはなっていないのよね。ただ、実験結果は共有されている。それによれば、時空の狭間は距離や時間が曖昧で、でもまったく無いわけではなくて、不安定なところなのですって。この世界の物理法則も適用されないから、この世界の物質を時空の狭間に入れると、一瞬で分解して消滅してしまう。それは巫女であっても同じで、普通の身体のまま時空の狭間に入ったら消滅してしまうのよ」
これまで時空の狭間に入ると言う発想が無かったので試したことがなかったが、母の話を聞いて試そうとしなくて良かったと心から思った。
「それじゃあ、時空の狭間には何も中に入れなくて、外から観察するしかないってこと?でも、はぐれ魔獣は何で大丈夫なの?」
「はぐれ魔獣は、小さな異空間の中にいるから大丈夫って話よ。それから、時空の狭間に何も入れないのかについてだけど、巫女の力で作ったものなら問題ないようよ」
となると、巫女の力で作ったアバターの身体なら時空の狭間に行けるのだろう。まあ、母にアバターのことを尋ねてもと思うので、口にはしないが。今の柚葉ちゃんのチームの中で時空間の認識が出来るのは私だけだ。姫愛さんや陽夏さんも柚葉ちゃんに教えて貰って試したらしいが、時空活性化領域の認識も、時空間の認識もできなかったと聞いている。そうなると、今後、時空の狭間に入る可能性があるのは私だけと言うことになる。巫女として十分な力が出せるようにアバターがあればと考えていたが、そうした理由からも、アバターの身体は持っていた方が良いと言うことか。
「時空の狭間なんて、行けそうな気がしないけどね」
「まあ、それはそうね」
私達はお互いの顔を見て、微笑み合った。
「そう言えば、お母さん、今週、はぐれ魔獣を感知したよ」
私は水曜日に感知したはぐれ魔獣について、母に報告した。
「そう、後でお父さんに話しておきましょう」
それから暫くリビングで母と話をしてから、私は自室に戻ってベッドに入った。母はと言えば、お風呂に入ったようだった。私は、時空の狭間にいるはぐれ魔獣が順調に近付いていることを確認しつつ、家の中での家族の動きを探知しながら、何をしているのかを覗き視ない限りはプライバシーの侵害にならないよね、と自分に言い聞かせているうちに眠りに落ちた。
翌日。
土曜日は用事が無く、午前中は自室でノンビリ過ごした。
午後、母が買い物に行くと言うので、私も一緒に行くことにする。母は土曜日の午前中に仕事から帰ってくることもあり、週末の買い物は土曜日の午後と決まっていた。私も都合が良ければ一緒に付いていく。週末は母が食事を作ってくれるが、平日は母がいないので私が食事作りを担当している。と言いながら、私の方はアルバイトがある日は免除して貰っている。弟の玲次も食事を作れなくはないが、父の帰りが大抵遅いこともあり、私がアルバイトの日は、各人がそれぞれで食事をするのが通例だ。なので、私は母との週末の買い物のときは、自分が家族の食事を作りそうな2~3日分の食材を買うことにしている。まあ、スーパーは駅の近くにもあるので、足りなければ大学の帰りに寄れば良い。
さて、この日は、父も散歩がてら一緒に行くと言い出したので、三人で家を出た。入院のこともあったし、三人で出掛けるのは久し振りだった。父と母は仲良く並んで歩いており、私は二人より先に進んでいた。そんな私に母が声を掛けて来た。
「ねえ、トモちゃん。一人で先に行かない方が良いみたいですよ」
「え?どうして?」
私が立ち止まって、後ろから歩いて来る両親の方を見る。
「何となくだけど、何か起きそうな気がするのよね」
「どうかしたのか?」
父も母の方を見る。
「うーん、何て言えば良いかしら。あ、ほら、そこ」
私が立ち止まっていたので、両親は私のすぐ傍まで来ていた。母の指さす方を見ると、旋風が起きていて、その跡に魔獣が立っていた。
「えっ、魔獣」
魔獣はまだ時空の狭間で、まだあと何日かの位置にいた筈だ。しかし、現に魔獣は目の前にいるし、時空の狭間からは、はぐれ魔獣の反応が無くなっている。
でも、今はその原因を探るより、魔獣をどうにかしないといけない。
私は咄嗟にどう動こうかと考えた。手元に武器は無く、私は力も使わずに素手で魔獣を斃すなんてやったことがない。柚葉ちゃんからは、掌から相手に力を籠めて爆発させる掌底破弾と、光星砲、それに光の刃を教わっているのだが、どれも教わったばかりで上手く使えるとも限らない。それに、巫女であることを両親にバラしてしまうことになる。柚葉ちゃんからは例え家族でも教えないようにと言われていた。かと言って家族を見殺しにできる筈もない。どうするのが良いだろう?
せめて身体強化して殴ろうかと考え、前に出ようとしたが、母に手を掴まれて引き戻された。
「トモちゃんは下がってなさい」
母は有無を言わせない目付きになっていた。それでも、私なら何とか出来るのではと思い、抗弁を試みる。
「でも」
「でもじゃないでしょう?トモちゃんは武器を持っていないのだから、大人しく後ろにいなさい」
「え?」
言われて見れば、母の右手にはナイフが握られていた。そして父の右手にも。どちらも折り畳みナイフのようだ。両親はいつもナイフを携行しているということ?
「悪いけど、これ持ってて貰える?」
母から手提げ袋を押し付けられた。最早抵抗する余地はない。私は大人しく手提げ袋を受け取ると、両親の背後に付いた。両親が危なくなれば、防御障壁を展開するか、光星砲を撃つかと考えていたが、それも次の母の言葉で諦めるしかなくなった。
「トモちゃんは、何もしないでね。そこで良く見ているのよ」
父は私達の前に立って、ナイフを前に出して構えていた。その父の隣に母が並ぶ。相手は、黒いオオカミのような魔獣だ。
「ダークウルフか。中型の中では厄介な方だな」
「お父さん、娘の前だからって、張り切り過ぎて無茶しないでくださいな」
「ああ、分かってる。手早く急所狙いってことで良いか?」
「そうですね。なるべく血を飛ばしたくないですし。それから、服を破らないでくださいよ」
「善処する」
母は、魔獣を斃せるかよりも、家事を増やさないことを気にしている。母の中では魔獣に勝つことは確定事項なのだろう。まあ、確かに自分の経験からも、武器さえあれば中型魔獣一頭は斃せそうに思える。しかし、ナイフだけで上手く行くのだろうか。
両親が少しずつ魔獣に近付いていく。魔獣は動かず、両親の動きを見ていたが、両親が一定の距離まで進んだところで父に向かって駆け出し、後ろ足を強く蹴って飛び上がる。その魔獣の動きを父は良く見ていた。父は、身を躱して魔獣の前足を避けると、姿勢を戻して手にしていたナイフの柄の底を、魔獣の顔の横から力強く叩き付ける。その衝撃で、魔獣の動きは止まり、母の方へと転がった。
魔獣が自分の側へ飛んできたのを見た母は、狙いすましたかのように魔獣の頭の後ろの延髄のところにナイフの刃を突き立てる。それで魔獣は本当に動かなくなった。
リーチの短いナイフだけで、しかも無傷で魔獣を斃してしまったのは鮮やかな手並みとは思うものの、実際やったことは随分と無茶なことのようにも見えた。
「まあ、何とかなりましたね。お父さんの腕が落ちて無くて良かったです」
「いやぁ、少し際どかったよ。運動不足だなぁ。思ったように身体が動かないし、明日、筋肉痛になりそうだ」
「だったら、家に帰った後でマッサージしてあげます。今は討伐隊を呼んでくださいな」
「ああ、連絡する」
父はスマホを取り出して電話をした。連絡を受けてやってきた地域の討伐隊に斃した魔獣を引き渡すと、両親は何事も無かったかのようにスーパーへと向かって歩き始める。
私の出番はまったく無かった。武器を持っていない時点で戦力外通告を受けてしまった。私も折り畳みナイフを買おうか。いや、確か護身用に持ち歩くとなると資格が必要だった筈。
「ねえ、お父さん達はダンジョン探索ライセンスのB級を持っているってこと?」
「ああ、そうだ。二人とも持っている。その気があるなら灯里も取れば良い」
「うん」
巫女になれば、いつでも魔獣討伐で活躍できるとの考えが甘かったことに気付かされ、少し落ち込んでいた私は、父の言葉を素直に受け取った。どうすればB級ライセンスを手早く取れるのか、柚葉ちゃんに相談してみようと思いながら、両親の背中を追ってスーパーに向かって歩いていったのだった。




