8-39. 時空認識
水曜日の午後、前期最後の試験が終わった後、私は柚葉ちゃんの部屋へと向かった。珠恵ちゃんが私達のプライベート異空間を用意してくれることなど、電話やチャットで伝えるより、直接話したかったからだ。
柚葉ちゃんが住んでいるのは東護院系列の不動産会社が管理する学生マンションだ。高校から南南東の方角、歩いて五分くらいだろうか。だから、私の通っている大学からも近い。理学部棟を出た私は、学生マンションまで歩いて行ったのだが十分も掛からなかった。
セキュリティゲートを通して貰い、部屋の扉の前まで行ったら、私がインターホンを鳴らす前に鍵を開ける音がして、扉が開いた。
「灯里さん、こんにちは」
「柚葉ちゃん、こんにちは。お邪魔するね」
「はい、どうぞ中へ」
部屋の中へ上げて貰い、リビングに入る。そこはとてもサッパリとした空間だった。カウンターキッチンが付いたその部屋にあるのは、ローテーブルとローソファ、後は棚が一つとテレビ台とその上のテレビのみ。明るいピンクのカーテンがあるが、それだけで、装飾品らしきものが何も無い。棚に置いてあるのも生活に必要そうなものだけだ。いや、一つだけ置物がある。
「どうかしました?」
私がその置物に見入っていると、柚葉ちゃんが声を掛けて来た。
「いや、この置物が気になって」
私は目の前にある置物を指差した。艶のある漆塗りのような黒い、脚の付いた置物。上面は平らだが、中央に透明な石が嵌っている。
「それ、魔道具ですよ。何の魔道具か分かりませんけど。高校の先生が骨董品店で手に入れたそうで、貸して貰ったんです」
「ふーん、そうなんだ」
魔道具か。大学の鴻神研究室にも魔道具は置いてあるが、それらとは違うもののように見える。だが、何だろう、妙に気になった。
「うーん、何処かで見たような気がする」
一所懸命に記憶を掘り返すが、思い出せない。しかし、とても既視感を覚える。前に見た時は、上に何かが乗っていたような。
「気になるなら、持って行きます?」
柚葉ちゃんに勧められるが、そうしたいとは思っていなかったので、慌てて手を振り、同時に首も横に振った。
「いやいや、良いよ。もう頭に入っているし、きっと、見ていなくても思い出す時には思い出せると思う。それに、これ、借りものなんでしょう?」
「まあ、そうですけど、先生もこれが何か分かれば喜ぶと思うので」
「確かにね。でも、今は良いや。借りたいと思った時には言うから」
「分かりました」
私達は棚から離れてローソファに座る。柚葉ちゃんはウーロン茶を出してくれた。
そして、ウーロン茶を飲みながら、私は珠恵ちゃんと話したことを、柚葉ちゃんに一通り伝えた。私が珠恵ちゃんに教えて貰ったことについて、柚葉ちゃんは知らなかったようで、驚きの表情で聞いていた。
「プライベート異空間を用意してくれたら、柚葉ちゃん達を紹介するって勝手に決めちゃったけど、良かったかな?」
「そんなこと全然問題ない、と言うか今すぐ珠恵さんと会って話をしたい気分です」
柚葉ちゃんが燃えている。
「でも、慌てるのは止めましょう。珠恵さんは一週間でプライベート異空間を用意できると言っていたのですよね?それなら、その時まで待ちます」
冷静な物言いだが、その瞳はとても輝いていた。楽しみにしているようだ。
「それはそれとして、時空認識を試したいです」
珠恵ちゃんから貰った紙に焼き付けられていた時空活性化の作動陣を、柚葉ちゃんが起動させる。私には何も感じられない。
「柚葉ちゃんは何か感じた?」
「いえ、何も。灯里さんはどうです?」
柚葉ちゃんが私を見たので、首を横に振って答えた。
「私も何も感じないよ」
「そうですか」
柚葉ちゃんの表情に落胆の色が見える。
「探知もやってみた?」
「はい。でも、何もいないかも知れませんし、時空間を認識できているのか分からないです」
「そうだね」
柚葉ちゃんが作動陣を起動している時に、私も探知してみようとしたが、探知に引っ掛かるものは何も無かった」
「うーん、駄目なのかな」
私はローチェアの背もたれに背中を付けて天井を見上げる。見えるのは天井だけ。探知をすれば、この周囲に人が大勢いるのは分かる。でも、それは、この世界の中が探知できると言うことであって、時空間の狭間が視えているのではない。
その時、頭の中で警告が鳴った。
「あ」
いつものように、到達予測地点が見える。代々木に原宿、そして信濃町だ。
「どうしました?」
「はぐれ魔獣が来た。柚葉ちゃん、時空活性化は?」
「今はやってないですけど。やってみます?」
「うん、お願い」
柚葉ちゃんが、先程と同じように紙に焼き付けられた作動陣を起動する。私はそこに窓があると考えて、探知しようとしてみる。
すると、頭の中にいつもとは異なる空間地図が出て来て、魔獣の位置が示された。
「柚葉ちゃん、視えた。視えたよ」
私は興奮した。だが、柚葉ちゃんの表情には陰りが見えた。
「私には視えないみたいです」
「え?あ、ごめん。一人で浮かれちゃって」
「いえ、灯里さんが出来ると分かっただけでも収穫ですから」
柚葉ちゃんは薄っすらと微笑んだ。私が出来ることを柚葉ちゃんには出来ないという事実に向き合おうとしているのだろう。姫愛さんから聞く柚葉ちゃんは、何でも出来て、誰よりも強く、頭の回転も速い子だったから、どんなことでも他人より優れているという自負があったのかも知れない。だけど、それだったら柚葉ちゃんだけ居れば良いことになってしまう。たった一つでも柚葉ちゃんより出来ることがあれば、私も巫女になった意味があるというものだ。それくらいのことを受け入れられる度量が無いと、チームのリーダーとしては失格になってしまうよ、と心の中で語り掛ける。
「灯里さん」
「何?柚葉ちゃん」
「まだ、時空の狭間にいる魔獣が視えているんですよね?」
「視えてるよ」
「少し試したいんですけど、付き合って貰えます?」
柚葉ちゃんは、私を真っ直ぐ見ている。どうやらショックから立ち直ったようだ。割りと早い。結構しっかりしている子だなと感心する。
「良いよ。何を試す?」
「一度、時空活性化を止めます」
「うん」
私が頷くと、柚葉ちゃんが紙の上の作動陣に力を注ぐのを止める。すると、頭の中に視えていた時空の狭間の空間地図が消えた。
「視えなくなった」
「はい。では、今度はこれで」
柚葉ちゃんは、右手を宙にかざすと、掌の前に時空活性化の作動陣を描いた。
「視えた」
「では、これは?」
柚葉ちゃんの右手の掌の前から作動陣消えた。作動陣は消えたが、活性化領域は残っているのだろうか。疑問に思った瞬間に空間地図が消えた。
「視えなくなっちゃった」
「今度は動かしてみます。灯里さんは頭を動かさないでください」
柚葉ちゃんは立ち上がると、再び掌の前に作動陣を描き、そして歩き始めた。作動陣が見えている間は空間地図が現れていたが、柚葉ちゃんが私の横から後ろに回り込んで作動陣が見えなくなったところで、空間地図は消えた。
「どうです?」
「作動陣が見えていれば良いけど、見えなくなると駄目」
「活性化領域の場所が分かっていないといけないんですね」
「そうみたいだね」
柚葉ちゃんは立ったまま、顎に右手を当てて考えている。
「灯里さん、自分で時空活性化の作動陣を起動してみて貰えます?」
「探知と同時にってこと?」
「慣れれば問題ない筈です」
柚葉ちゃんからすればそうかも知れないが、私は複数の技を起動するのは初めてなのだ。でも、これが出来れば一人で時空間認識できることにもなるのだ、頑張るしかない。
私は探知を働かせたまま、右手を紙の上に乗せ、描かれている作動陣に力を籠めて起動してみる。すると、柚葉ちゃんにやって貰っていたときと同じように時空の狭間の空間地図が現れた。
「できた」
「そしたら、今度は空中に作動陣を描いてみてください」
柚葉ちゃんに言われるがまま、右手を持ち上げ、人差し指の先に作動陣を描いてみた。そのまま、右手を動かしてみる。今度は、右手を背中の方に回しても、空間地図は消えない。
「作動陣が見えなくても大丈夫だね」
「多分ですけど、自分で何処に活性化領域があるのか分かっていれば良いんだと思います。作動陣を描かなくても視えません?」
探知と時空活性化を同時に動かす感覚に慣れて来たので、言われた通り時空活性化の作動陣を描かないでやってみる。それでもきちんと空間地図は視えた。
「うん、大丈夫だね。柚葉ちゃんの言う通り、自分でやっていて、何処で起動しているのかが分かっているからだと思う」
「それじゃあ、後は練習あるのみですね。これから起きている間はずっと時空間の認識を続けてください」
「ずっと?」
「はい。灯里さん、上達したいですよね?」
「はいっ」
ううっ、抗えない。目がマジだ。柚葉ちゃんがすっかり立ち直っているのは良いのだが、この迫力は何だろう。
「あ、そうだ。力が漏れないように、掛ける力は最小限にするように工夫してください」
柚葉ちゃんがニッコリと微笑む。普通に見れば可愛い女子高生なのだが、心の眼で見ると鬼に見える。
姫愛さんが柚葉ちゃんのことをお師匠様と崇めている理由が少し分かった気がした。




