8-32. お見舞い
暇だ。ひたすら暇だ。
手足が動かせなくて、やれることが無い。いや、アームに固定された小型のテレビが備えられているので、母に頼めばテレビを観ることはできた。しかし、テレビを観たい気分ではない。
午前中は検査の時以外は、母と話をして過ごした。
お昼には普通の食事が出て来た。ナイフで刺されたのは手足だけだったが、出血が多かったので念のためにと内臓の検査も受けていた。その検査で異常無しと認定され、晴れて先生から食事の許可が下りた。
手足を動かすと痛いものの、ベッドの電動リクライニング機能で上半身を起こすことには耐えられたので、その状態で母に食べさせて貰う。
そして、昼食後、母には一旦家に帰って貰った。一日中傍に付いていてくれるのは嬉しいが、怪我をしている以外は元気だったし、申し訳ない気がしたのだ。何かあれば、手元に置いて貰ったナースコールの釦を押せば、看護師さんが来てくれる。ベッドのリクライニングの制御器も手の横にある。暇であることを除けば、困りそうなことは無かった。夕食には介助が必要なので、母は夕方にはまた来てくれることになっている。
取り敢えず、お昼ご飯を食べ、お腹が満たされてまったりした気分になったので、ベッドを平らにして昼寝の体勢になる。
相変わらず、胸の辺りに暖かいモノを感じる。目を閉じて、ソレに集中してみる。すると、ソレの中に動きが見えた。ソレはただ一箇所で固まっているのではなくて、グルグルと渦を巻いている。また、ソレの周りに障壁のようなものを感じる。障壁があるから、身体中に拡がっていないのだ。だが、この障壁、どうも脆そうな気がする。一瞬、障壁を壊せるかを試してみようかという想いがちらついたが、取り返しの付かないことになりそうな予感がしたので止めておく。
他に何か試せそうなことは無いか、頭を捻ってみるが何も思いつかない。暫く昼寝でもしていよう。
「灯里ちゃん、寝てるみたいだけどぉ」
声がした。
「起きるまで、少し待とうか」
別の声だ。二人とも、声だけで誰なのか分かる。
私は目を開け、声のした方に視線を向けた。
「雪希ちゃんに珠恵ちゃん、来てくれたんだね」
「あ、灯里ちゃん、起こしちゃったぁ?」
「大丈夫だよ。少しうたた寝してただけだから」
申し訳なさそうな顔をしている雪希ちゃんに笑顔を向ける。すると、雪希ちゃんも安心したように微笑んだ。
二人はベッド脇に並んで座り、そして珠恵ちゃんは私の手を握って来た。
「灯里ちゃん、ゴメンね。私が一緒に行けなかったばかりに、こんなことになってしまって」
「ううん、珠恵ちゃんが謝るような話じゃないよ」
確かに珠恵ちゃんが同行していれば、違うことになったのかも知れないが、何と言っても悪いのは犯人だ。珠恵ちゃんではない。
握られた手から、珠恵ちゃんの温もりが感じられる。
「灯里ちゃんが無事で本当に良かった」
その口調から、心底安堵した珠恵ちゃんの気持ちが伝わって来た。
「珠恵ちゃんには心配掛けちゃったね」
私を一人で犯人の元へ行かせたことを後悔しているのだろうか。珠恵ちゃんの目を見ると、心なしか潤んでいように見えた。
「大切な友達だから」
「うん」
私達は微笑み合う。
なんにせよ、私は無事だ。
「私だって、話を聞いた時には吃驚したし、心配したんだからねぇ」
「うんうん、雪希ちゃんもありがとう」
雪希ちゃんも仲間はずれじゃないから。その想いも込めて雪希ちゃんを見詰めると、雪希ちゃんの顔が赤くなった。
「それで、灯里ちゃんはいつ頃退院できそうなのぉ?」
「先生には来週末くらいって言われてる」
「そうかぁ。来週テストの講義があるよねぇ?」
雪希ちゃんの言う通りだ。事件のことがあって、すっかり忘れていた。だからと言って、退院を早めることもできない。
「うーん、どうしようかな」
「学科の事務室に相談してみたら?」
「あー、そだね」
ここは珠恵ちゃんの提案に乗ってみよう。駄目なら駄目で、その時に考えれば良い。
それから、私は二人に今日の講義のことなど大学であったことを教えて貰った。
「珠恵ちゃん達には悪いけど、来週もレポートの課題が出たら教えてね」
「勿論、そうする」
「私達にお任せぇ」
二人にお願いしておけば、レポートの方は問題ない。
つい一日前は命の危険にさらされていながら、今は学科の単位を気にしているなんて、呑気と思われるかも知れないが、昨日のことがあまりに非日常的な体験で、これだけ怪我をしながら実感に乏しいのも事実。そう言えば、死にそうになった時のことは珠恵ちゃんには話して意見を聞きたいところだが、雪希ちゃんがいるからなぁ。また今度にしておこうか。
それからも私は二人と雑談をして過ごした。そのお喋りの最中、病室の扉が開いたと思うと、母が入ってきた。
「あら、珠恵ちゃん、お見舞いに来てくれたのね。もう一人の子は、初めてかしら」
「あ、はい、灯里ちゃんとは仲良くさせて貰ってますぅ。同じ学科の白里雪希です」
先に珠恵ちゃんが立ち上がってお辞儀をしていたが、雪希ちゃんも慌てて椅子から立ち、母に向けて名乗った。
「白里さんね。いつも灯里がお世話になっています。それで、珠恵ちゃん」
母が目線を珠恵ちゃんに向ける。
「今回は本当にすみません、私のせいで」
珠恵ちゃんが緊張している。そこまで責任を感じていたとは考えていなかった。
「お母さん、珠恵ちゃんが悪いんじゃないから」
母に珠恵ちゃんを責めて欲しくなくて、私は横から口を挟んでしまった。そんな私に、母は微笑みを見せた。
「トモちゃん、良いのよ。珠恵ちゃんも私も分かっているから。まあ、トモちゃんが軽く怪我した程度だったから、私も穏便に済ませているのよ」
「ありがとうございます」
珠恵ちゃんは、深々と頭を下げた。
「はい、じゃあ、この話はここまでで。そうそう、二人は桃は食べる?丁度、甲府の義姉が桃を送ってくれたの。一緒にどう?」
私が自分の怪我は決して軽いものでは無いと抗議する暇もなく、母はどんどん話を進め、桃の皮を剥き始めた。母が手に持っていた果物ナイフは、私が犯人に刺されたものに良く似ていた。しかし、そのナイフを見ても、特に恐怖を感じることは無い。一歩間違えれば、トラウマものだったろうが、そうはならずに済んで幸いだった。
母は、剥き終えた桃を切り分けて皿に盛り付け、フォークを添える。
「どうぞ、珠恵ちゃん達食べて。灯里も食べるわよね?頭の方を持ち上げるわよ」
「うん、お願い」
ベッドのリクライニングのリモコンを操作して貰って、食べやすい角度になった。母は桃の欠片をさらに切り分け、一口大にしてからフォークに刺して食べさせてくれる。瑞々しい甘さが口の中一杯に広がる。とても美味しい。
その後も、母は自分でも桃を口に頬張りつつ、私にも何度も食べさせてくれた。珠恵ちゃん達も美味しいと口々に言いながら食べていた。そして、全部食べ終えると、母はナイフとフォークを皿の上に纏めて乗せ、洗うために病室から持って出て行った。
それから少しして病室の扉がノックされる。母が戻って来たのかと思ったが、母ならノックはしない筈だ。返事をして入室を促すと、若い女性の看護師さんが入ってきた。泉居さんだ。
「向陽さん、検温の時間でーす。よろしいですかー」
「はい、お願いします」
私が了承すると、泉居さんがベッドの横に入って来る。珠恵ちゃん達は、一旦椅子から立って、泉居さんが入って来られるように場所を空けてくれていたが、その間、珠恵ちゃんが泉居さんをガン見していた。何か気になることがあったのだろうか。
泉居さんは花井さんの後輩で、看護師の資格は取ってはいるが、今はまだ花井さんの助手として勉強しているのだそうだ。もっとも、今回の検温もだが、一人で来ることの方が多い。
「えーと、36度5分。平熱ですねー。何か気になることはありますか?」
「いえ、ありません」
「それじゃあ、何かやって欲しいことはありますか?飲み物とかはどうですか?何か買って来ましょうか?」
「いえ、大丈――」
「いーずーいーさーんー」
私の答えを遮ったのは、病室の入口に立っていた母の声だった。母は何が気に障るのか不明だが、泉居さんに厳しい。
「あら、向陽さんのお母さん、こんにちはー」
しかし、泉居さんは母を恐れることなく、笑顔を返す。
「貴女、何をしに来たのかしら?」
「検温ですよ」
「だったら、さっさと熱を測りなさい」
「もう、測りましたー」
「測り終えたのなら、仕事に戻りなさい。まだやることがあるのでしょう?」
母は泉居さんを扉まで引っ張って病室から出してしまった。泉居さんも母に抵抗しないので、悪いと思っている部分があるのかも知れない。
一部始終を黙って見ていた珠恵ちゃんは、私の横にやって来た。
「もしかして、いつもこんな感じなの?」
「うん、まあ。いつもと言うか、今日会ったばかりなんだけどね」
そう、何故か、泉居さんと母は相性が悪いらしい。
それは最初に会った時からそうだった。




