8-3. 家で感じる孤独
「ただいま」
リビングの扉を開け、声を掛ける。台所に母が立っていた。
「お帰り、トモちゃん。夕飯は食べて来たんでしょう?」
母に声を掛けられる。母には小さいころからトモちゃんと呼ばれていて、未だにそれが続いている。それがために、弟の玲次も私のことをトモちゃんと呼ぶ。一度「姉さんって呼んでくれないの?」と聞いたことがあるのだが、「え?トモちゃんはトモちゃんだから」と意味不明な返事を貰い、それからも呼び方が変わることは無かった。父にも以前はトモちゃんと呼ばれていたものの、いつからか灯里と呼んでくれるようになった。玲次も父のように呼び方を変えてくれれば良いのにと思ったのは一度ではない。
おっと、母の質問に答えねば。
「空港で食べて来たよ。由縁や冴佳と一緒に」
私は荷物を脇に置いて、リビングのソファに座り込んだ。北海道旅行は楽しかったが、毎日歩き回っていたので流石に疲れた。
「ふぅ」
ソファの上でリラックスすると、私は大きく息を吐いた。それを、丁度リビングの側にやってきた母に見られてしまう。
「あらあら、トモちゃん、お疲れみたいじゃないの。お茶でも淹れようかと思ったけど、お風呂に入った方が良いんじゃない?お風呂、もう沸いているわよ。無理して起きていても、気が付いたらソファで寝てしまうかも知れないから。貴女、前にご飯を食べている最中に寝ちゃったこともあるのよ」
「それって何時の話?」
「そうねぇ、貴女が幼稚園の時だったかしら。子供用の椅子に座ってたと思うから」
そんな十年前の話を持ち出されても困るのだが。
「お母さん。流石にいまは大丈夫だよ。だけど、コーヒーを淹れて貰えると嬉しいかも」
「はいはい、分かりました。コーヒーね。でも、こんな時間にコーヒー飲んだら、寝られなくなるかも知れませんよ」
私の返事を待たずに、母はさっさとキッチンに行ってしまった。何だかんだ言っても、コーヒーは淹れて貰えそうだ。
暫くすると、コーヒーカップを載せたお盆を持って、母が戻って来た。
お盆をテーブルの上に置いた母は、私の向かい側のソファに座り、コーヒーカップを私の前に置いてくれた。
「トモちゃんは、これを入れるのよね」
母は、お盆の上に置いてある、クリーミングパウダーのスティックを指し示す。
「そうそう、ありがとう」
私はスティックを取り上げると封を切り、コーヒーの中にパウダーを流し込む。そして、お盆の上に一緒に添えてあったスプーンで、コーヒーをかき混ぜた。それからカップを持ち、コーヒーを口に入れてホッとする。
前を見ると、母もコーヒーを飲んでいた。母はブラックで飲んでいるようだ。
「お母さんこそ、コーヒー飲んだら、眠れなくなっちゃうんじゃないの?」
「私は何を飲んでも眠れなくなるなんてことは無いから、大丈夫なのよ」
さっき私に言っておきながら、自分は大丈夫とか矛盾しているんだけど、まあ、良いか。
言葉にはしないが、少しジト目で母を見詰める。
「それで、北海道では何処に行って来たの?話して聞かせてよ」
私達の行程は四泊五日。初日は札幌への移動、翌日に富良野のバスツアー、三日目は旭川の動物園に行き、四日目は小樽に行って、最後の日、つまり今日、札幌市内を歩いてから飛行機に乗って帰って来た。その間に見たもの、食べたものなど、スマホで撮影した写真なども見せながら説明する。母は話し好きで、自分でも良く喋るが、私の話も良く聞いてくれる。
旅行中に由縁がどんなものを買いたがったのか、冴佳が何を食べたがったのかも、逐一聞いて貰った。
「トモちゃん、貴女、高校に入って、本当に良い友達に巡り合えたわね」
私の旅の話を聞いた母は、締め括りの感想として、感慨深げにそう口にした。
「うん、私もそう思う」
出会いは偶然だけど、ここで得た繋がりは、いつまでも途切れさせたくない。そう思うと、心の中が暖かくなった気がした。
「それじゃあ、それは良かったとして」
ん?母の声色が少し下がった。
「貴女の目的は、果たせたの?探し物は見つかった?」
母は結構鋭い。小さい頃に見た気がするあの光景のことは、前から何度も話したことがある。オーストラリアに行った時も、それを探した話はしたし、北海道でも同じだと考えたのだろう。
しかし、私は首を横に振った。
「全然駄目。見つからなかったよ。何かが違うんだよね。建物の雰囲気もだけど、もっと何か違うところがあった気がする。でも、分からない。思い出せない」
頭を抱える私の耳に、訝しげな母の声が聞こえてくる。
「変よね。貴女が小さい頃に、そんなところに行ったこと無いのに。もしかしたら、前世の記憶だったりして」
私は母が好きだ。長時間話していても楽しくて苦にならない。でも、この話題だけは続けたくなかった。
「うん、そうだね」
私は適当に相槌を打ちながら、別の話題が無いかと思考を巡らせる。そうだ、まだ話していないことがあった。
「お母さん、あのさ、そう言えば、私、会ったんだ。北海道で叶和さんに」
「叶和さん?ああ、北海道担当の本部の巫女の」
流石はお母さん、名前だけで誰のことか分かってくれた。
「そうそう、その叶和さん。丁度はぐれ魔獣が出てきて、それを斃してくれたんだ。聞いたら、一週間前に魔獣出現の連絡があったって」
「それ、本当は秘密なんじゃないの?」
母が不安そうな顔で私を見る。
「そうらしいけど、東護院の関係者だって言ったら教えてくれたよ。だから、由縁達には話してないんだ」
「そう、そこは気を付けてくれて偉いわね」
「だけどさ、一週間前って私と同じだよね。偶然なのかなぁ?」
私には巫女の力は無いものの、たまにはぐれ魔獣が現れるのが分かるときがある。その分かるタイミングが、魔獣の現れる一週間前だった。それは、私が小さい頃からのことで、母には話していたし、父も知っている。その魔獣の出現予測を報告すると、母から凄い凄いと誉められたので、毎度母に報告するのが習慣になっていた。どうも、母から父に話が伝わり、それとはなく出現が予測された地域の警備を強化しているらしい。そのお陰で、今まで私が出現予測をして、被害が出たことはない。
私が出現を予測できるのは、自分の周囲だけで、北海道のことなんて分からない。だから、旅行で遭遇した魔獣の出現は予測できていなかったし、私以外の誰かが予測したのだ。
「叶和さんの情報からすれば、誰か他にも貴女と同じことができる人が黎明殿の中に居るとしか思えないわね。でも、それを調べるのは駄目よ」
母の目が心持ち恐くなる。黎明殿の秘密に踏み込むのは危険だと言いたいのだ。同じことは前から散々言われていたので、口にされなくても分かる。
「お母さん、分かっているから。言われなくても、調べようとしたりしないよ」
「そう、信じているわ。でも、良い?トモちゃんが危険な目に逢って欲しくないから、言っているのだからね」
「うん、大丈夫」
それで漸く安心したのか、母の笑顔が戻ってきた。
「それにしても、叶和さんに会えたなんて運が良かったわね。彼女は滅多に姿を見せないみたいだから」
「それは本当にラッキーだったかな?随分無口みたいだったけど」
叶和さんとのやり取りを思い返しても、そうとしか言いようがないなぁ。
「トモちゃん、本部の巫女に会ったのは初めてじゃなかった?サインとか貰わなかったの?」
「あー、いや、そこまでミーハーでもないから」
頭の隅では、確かにサイン貰ってもとも思っていたが、あの状況でサインもないよな、と自分の冷静な部分が呟いていた。
「まあ、サインが欲しいだけなら、有麗さんに貰えば良いしね」
「そうそう」
有麗さんとは、関東担当の本部の巫女で、黎明殿の広報の一環としてアイドル活動もしている人のことだ。公式のファンクラブもあって、それに加入すれば、サイン会にも参加できるらしい。
なので、本部の巫女に会いたければ、有麗さんのファンクラブに入れば良いだけなのだが、いやそれは違うだろうと、私は入っていなかった。
「それじゃあ、叶和さんとは、それっきり?」
「まあね」
「貴女も結構思い切りが良いわね」
母は、感心したような顔になった。
「そこまで大層なことじゃないから」
そう、特に何を考えていたのでもない。一度会えたのだし、縁があればまた会える。何となくそう感じただけだ。
それから暫く母と会話した後、私は家族へのお土産を渡して自分の部屋に下がった。
自室に入り、灯りを点けると、荷物を下ろし、勉強机の椅子を引き出して座る。しんとした部屋の中で、私は一人でしばし呆けていた、
それから、机の引き出しを開け、その奥から折り畳んだ紙を一つ取り出す。その紙を広げ、書かれてことを確認する。それは、中三のときのオーストラリアへの修学旅行の際に、バスポートを得るために入手した、自分の戸籍謄本のコピーだった。
既に何度も眺めたその紙には、私が二歳で養子となったことが記されていた。さらに言えば、両親が結婚したのは私が養子になる9ヶ月前、弟が生まれたのは、私が養子になった翌月だった。
これを見れば、私は両親の実の子供ではないことは明らかだった。私は、今の両親も弟も嫌いではない、と言うか好きだ。でも、血の繋がった親子ではない。
そのことを知ってから、私は家族との距離を感じ、また、自分が何者なのかを知りたいという欲求に苛まれていた。




