6-36. 餞別
土曜日。梢恵ちゃんはリクルートスーツに身を固めて、朝早くから出掛けて行きました。
私はゆっくり起きて、朝食に目玉焼きサンドを作って食べてから研究室に向かいました。
研究室にいたのは織江さんだけです。知恵ちゃんが来る直前の二週間は、午前中でも他の人達が来ていました。やれ論文の提出だ、やれ論文発表だと、四年生や修士二年の先輩たちが、時間が足りなくなって、朝から夜まで研究室に籠っている状況でした。
お蔭で、織江さんとゆっくりお茶ができず、しばらく研究室には顔を出さない日が続きました。そして、さあ研究室に行こうか、という日に知恵ちゃんが来たのです。それで今度は私の方が、季さんとの訓練の毎日に。
そんな訳で、研究室に来たのは久しぶりです。
「織江さん、おはようございます」
「ああ、珠恵か、おはよう。お主は今日も一人か?」
「ええ、織江さんと話がしたかったから、先に来ました。でも今日は、午後雪希ちゃんとお出掛けなので、お昼前に雪希ちゃんここに来ますよ。灯里ちゃんは忙しいみたいで、会えないのですけど」
「そうか。そう言えば、ここのところ連日季のところに行っていたのではないか?試合をするのだろう?」
「織江さん、良く知ってますね」
「季から電話があったのだ。毎日お主のことを聞かされたよ。お蔭で、お主がどんな訓練をやったのか、全部教えて貰ったぞ」
「なるほど、季さんですか。ええ、はい、月曜日に実家で知恵ちゃんと試合するつもりです。それで、試合までにもっと強くなりたかったので、季さんにお願いしてゾーンの使い方を教わりました。本当は今日もと思ったんですけど、時空管理室のシフト表に知らない番号があるときは来ない方が良いって季さんに言われていたので、止めました」
「そうか、お主もシフト表を見る権限を得たか」
「え?『お主も』って、織江さんもシフト表を見られるんですか?」
「いかにも。我もごく稀に手伝う時があるからな」
「そうだったんですね。季さんから、ゾーンの使い手は私以外は四人だって聞いていたのに、シフト表には五つの番号があるので、どうしてかと思っていたんですよ。一つは織江さんだったんですね。あれ?でも、織江さん、巫女じゃないですよね。何で番号があるんですか?」
「それは、珠恵であったとて今話すわけにはいかぬのだが、簡単に言えば欠番を使わせ貰っておるのだ」
「欠番って前に何かあったんですか?」
「いや、お前の思うているようなことはないぞ。今はそのことは気にするな」
「はーい」
何か聞いてはいけない事情があるのですね。聞きたいけど、我慢します。
「それで、織江さんは何番なんですか?」
「43だ」
「それじゃあ、明日から時空管理室に行くんですね」
「そうだ。そのまま月曜日の試合を観戦しようと思うてな」
「観戦目的だったんですか」
「良いではないか。何か面白そうな話になりそうだしな、楽しみにしておるぞ」
「分かりました。良く見ておいてください」
うーん、別に織江さんのために出し物をするのではないですけど、まあ、いっか。
「それで珠恵よ、いつ西の封印の地に向かうのだ?」
「明日の朝に出発しようと思ってます。着くのは夜になってしまいそうですけど」
「そうか。心して掛かれよ。季の手解きを受けたのだから、お主が負けることは無いとは思うが、この世に絶対はないからな」
織江さんは椅子から立ち上がると、机の間の通路の真ん中に立って、私を手招きしました。
「どれ、我がまじないをしてやろう。ここに来て跪くが良い」
私は織江さんの前まで歩き、そこで跪きます。織江さんは私の顔を上に向けると、左手を私の肩に置き、右手で私の前髪を避けて額を露わにしました。
「織江よ」
「はい」
「我が愛を受け入れるが良い」
言葉とともに、織江さんは屈んで、私の額に口づけをしました。その口づけと一緒に、何かが私の頭に流れ込んで来たように思えましたけど、直ぐに私の巫女の力に交じり合って、分からなくなりました。
「これで良し」
織江さんは、満足そうに身体を伸ばし、椅子に戻りました。
私は立ち上がり、椅子の方に向かおうとして、ふと織江さんを見ました。すると、織江さんの胸の辺りに赤いものが見えます。
「あの、私に何かしたんですか?織江さんの胸の辺りに赤いものが見えるのですけど」
「ん?まあ、我と同じものを見せてやろうかと思うてな。今見えておるのは、相手の魂の形だ」
「何でそれを私に見せるんです?」
「お主には見えていた方が良いのだ。そのうちに分かる。それに、相手が真実を話しているかも魂を見ていれば分かるのだぞ」
「嘘発見器みたいなもんですか」
「いや、もっと高機能な上に、機械でもないぞ。もう少し言いようがないのか?お主、創世神話は読んでいないのか?」
「読みましたよ。あ、『真実の目』ですね」
「然り。ただ、勘違いするなよ。真実とはあくまでも相手が信じている真実故、相手が真実を誤解している場合は、誤解したものが真実に見えるからな。客観的な真実とは限らぬぞ。それに、微妙に言い方を変えることで嘘だと分からぬようにする輩もおるしな。そこは経験を積んで見極められるようにならねばな」
「分かりました。織江さん、何か嘘言って貰えませんか?」
「我は嘘は好まぬ」
織江さんは気分を害したか、プイと顔を背けました。しばらくそのままにしていましたけど、気が済んだのか、私の方に向き直りました。
「しかし、お主、感情に動きが無いな。大抵は驚くか、慌てるか、喜ぶかするかと思うたが」
「相手が織江さんだからですかね。正直に言えば、まだ実感が無いし、どうしたものか悩ましいと言うか」
「まったく、お主らしいな」
話が一段落したようで、織江さんは椅子の上で大きく伸びをしました。
「お茶でも煎れましょうか」
「ああ、頼む」
私はお茶台で二人分のお茶を煎れて戻ってきました。それから二人でお茶を飲みながら、まったりとした時間を過ごします。
「それで、お主は、知恵とはどんな試合をするつもりだ?」
「内緒です。当日観戦するんでしょう?分かっちゃったら詰まらないじゃないですか」
「それもそうか」
織江さんは、再びお茶を口にしました。私はそんな織江さんを眺め、それから下を向いて溜息をつきました。
「何て、まだ決まってないんです。どうすれば叔母さん諦めるかなって。かと言って、知恵ちゃんを思い切り痛めつけるとかしたくもないですし」
「お主は優しいな。だが、時として心を鬼にしなければならぬ時もあるぞ」
「それは分かっているつもりです。でも、それは知恵ちゃんにではなく、叔母さんにでないと駄目だと思うんですよね」
「思い切り恐怖を味合わせてやったらどうだ?我の与えた力で幻影を見せることもできるぞ。それも魂に直接な」
織江さんは、ふっはっはと笑います。
私は再度溜息をつきました。
「織江さんは、私を何にしたいんですか?これ以上、能力が増えても持て余しちゃいますよ」
「良いではないか。あっても困らぬよ。お主は我を楽しませてくれるからな。今度の試合でも楽しませてくれよ」
「織江さんを楽しませるのが目的じゃないですけど、派手にやって叔母さんを黙らせるように考えます」
「ああ、我のことは序でで構わぬよ」
そうは言いながらも、織江さんは楽しみにしている風な笑みを浮かべています。
困った人だなと思いながらも、その憎めない笑みを見て、仕方が無いかと思うのでした。
そんな時、研究室の扉が開いて、人が入ってきました。雪希ちゃんです。雪希ちゃんの胸の辺りにもやはり赤いものが見えます。
「こんにちはぁ。珠恵ちゃん、来たよ」
「ああ、雪希ちゃん、こんにちは」
返事をしながら、私の視線は雪希ちゃんの顔から下がっていき、その赤いものへ。そして、そこに何が書いてあるかを見ると、私はパッと振り返り、目を細くして織江さんを睨みます。
私の視線を受けた織江さんは、私が何を言いたいか直ぐに悟ったようですけど、首を傾げて、てへぺろっと舌を出して誤魔化そうとしました。やれやれです。
「珠恵ちゃん、どうかしたのぉ?」
「ううん、何でもないよ。雪希ちゃんもお茶を飲んで一休みする?」
「うん、そうだね」
雪希ちゃんも作業台の方に来たので、お茶を煎れて出してあげました。
その後、三人で会話しながら、一度で良いから織江さんをぎゃふんと言わせられないかな、と思いを巡らせていた私です。




