5-31. 治外法権の地
「何だと?嘘だ、そんな話があるものか」
目の前の男性は、明らかに動揺しています。
「嘘だと言われても、事実なのですから、受け入れてください」
私はそろそろこの男性の相手を止めようかと思い、近くのテーブルに座っていた男のお客様の方を向きました。
「山野さん、その警察手帳は本物ですか?」
「いや、顔写真が違うから、偽物だ」
私がテーブルの上に置いた警察手帳を、山野さんはさっさと確認していました。それで何も言わなかったので、男性が偽物の警察官であることを確信したのです。
「それで、引き渡しの準備は出来ていますか?」
「ああ、近くに待機させてある」
「では、このお店の前に来るように伝えてください。この人達を引き渡したいのですけれど」
「分かった」
山野さんは、スマートフォンを取り出すと指示を出していました。そして、席から立ち上がり、私と話をしていた男性の前に立ち、懐に手を入れながら名乗りました。
「警視庁特殊案件対策課の山野です。黎明殿の要請により貴方の身柄を引き取ります」
山野さんの懐から出した手には警察手帳が握られていました。店の前にはパトカーがやってきて、待機しています。私が左手で掴んだままの男性を押して入口まで行くと、外で待機していた警察官が扉を開けてくれました。
その扉を通って外に出ると、そこにいた私服姿の警察官に男性を渡しました。警察官は、男性をパトカーの後部座席に入れ、自分も後部座席に乗ってドアを閉めました。お店からは山野さんが男性を連れて、さらにその後ろからは山野さんと一緒にいた女性の刑事さんの古永さんが男性と一緒のテーブルに座っていた女性を連れて出てきました。そして、それぞれ違うパトカーに乗せました。山野さんと古永さんはパトカーに乗らずに、別の刑事さんが男性たちと一緒に乗っています。全員が乗り終えた三台のパトカーは警察署に向かって出発しました。
パトカーを見送り終わると、私は山野さん達の方に向いて、お辞儀をしました。
「今日は直ぐに来ていただけて助かりました。ありがとうございます」
「まあ、オフィスはすぐそこですから。お役に立てて良かったです」
そう、山野さん達のオフィスは新宿にあり、お店から車で五分くらいのところなのです。
「でも、最初、桐生さんから電話を貰ったときは、吃驚しましたよ」
「こういうことは珍しいですからね。巴ちゃんがきちんとマニュアルのことを覚えてくれていて良かったです」
会社のマニュアルには、警察への連絡は特殊案件対策課にするようにと書いてあります。特殊案件対策課の名前にある特殊案件とは、魔獣関係と、それから黎明殿が関係する案件のことなのです。お店は黎明殿の持ち物なので、お店で何か起きたときは、地域の所轄の警察では無くて、特殊案件対策課が対応することになっています。特殊案件対策課は、警視庁の所属ですけれど、その特殊性から全国を対象としています。なので、北の封印の地である蹟森に住んでいた頃に、山野さんと会ったこともある筈なのですけれど、実は覚えていません。蹟森では警察と関わり合いになることは殆ど無かったのです。
山野さんのフルネームは、山野巌生さん。若い頃は結婚していたそうですけれど、仕事のし過ぎで奥様に愛想を尽かされて子供と一緒に実家に戻ってしまい、今は一人暮らしなのだとか。山野さんと話をしている中で、朱音と同じ星華荘に住んでいることが分かり、世の中は狭いと思いました。仕事柄、星華荘にいる時間が短く、朱音との接点はあまりないとのことです。山野さんから朱音の様子が聞ければと思いましたけれど、残念です。
一方、古永環さんは私がお店を始めた後に刑事になったので、東京に来てからのお付き合いになります。歳は、私より二つ年上で、未婚とのこと。お互い、良い男性に巡り合えませんねと話をしていたりします。
特殊案件対策課には、他の刑事さんもいますけれど、お店に来るのはこの二人と、あと主任さんくらいでしょうか。ちなみに、山野さんは課長さんです。今日のようなトラブルは殆どありませんけれど、そうでなくても「巡回」と称して偶にお店に顔を出してくれています。巴ちゃんも面識があったので、電話し易かったのでしょう。日頃の交流も大切です。
「それで、お店の中で少し休んで行きますか?」
「いや、取り調べのことなどあるので戻らないといけません。ただ、私達がここに来る前のことはお伺いしておきたいのですがよろしいでしょうか?」
「はい、ではお店の中に戻りましょう」
私達はお店に入り、巴ちゃんも呼んで、先程山野さん達が座っていたテーブル席で、男女三人のお客様が来た時の話を伝えました。話が終わると、山野さん達はオフィスの方に戻っていきました。
その週の金曜日の昼下がり。探偵社の本荘さんと十郷さんの二人がお店に顔を出してくれました。いつもは一人で来ることが多いのですが、先日のトラブルのことが気になったのでしょうか。山野さん達が帰った後に電話で簡単に説明はしていたのですけれど。
二人はカウンターに座り、それぞれのお気に入りのコーヒーを飲んでいます。本荘さんはブラジル派、十郷さんはブレンドです。
「いやあ、北杉さん、先日の件は驚きました。皆さんに怪我など無くて良かったです」
本荘さんがカウンター越しに私に話し掛けてきました。
「私なら相手が刃物を持っていたとしても問題ないですし、山野さん達もすぐ来てくれましたから」
「それはそうだったかも知れませんが、気を付けてくださいよ。獲物は刃物とも限りませんから」
「そうですね、気を付けることにします」
私も治癒が使えるとは言っても不死身ではありませんから。
「それはそうと、彼らも調査不足ですね、この店を犯罪に使おうとするなんて」
「一般の人は余り意識していないと思いますけれど」
「勿論そうですが、裏の方では一応この店は普通ではないという情報を流しているんです。だから、少しでも調べれば分かった筈なのです」
「あら、そんなことになっていたのですか」
裏の方に手回ししてあったとは、初めて知りました。でも、確かに予め情報を流しておいた方が、変な人達が来なくて済むので良さそうに思えます。
そんな本荘さんと私のカウンター越しの会話に、十郷さんも乗り出して来ました。
「それにしても、黎明殿を他所の国扱いにするなんて、良くそんな話が通りましたね」
「ええ、本当にそう思いますけれど、いつからそうなったのか、私達も知らないんです」
「封印の地の伝承にも無いのですか?」
「はい」
私達の間に残念そうな空気が流れた。
そこに女性の声が割り込んできました。
「貴方達、昔の話が聞きたいの?何なら、私が教えてあげるけど」
「え?」
声の主は、本荘さんと同じカウンターの並びに座っていた女性でした。確か一人で入店されて、カウンターに誘導していたお客様だったと思います。色の入った眼鏡を掛けているので、どんな顔かは分かりませんが、頭の後ろで束ねてアップにしている髪や、シンプルなワンピースに上着という服装から、何とはなしに知性を感じます。
「大昔は良かったのよ、ここも国としてのまとまりが無かったから」
私達の返事を待たずに、女性は話を始めました。
「だけど、群雄割拠の時代を越えて天下が統一されると、時の為政者が黎明殿に国の一部になれと迫ってきたわけ。でも私達は国なんてものには興味が無かったし、無視していたのよ。そしたら今度は封印の地の住民を人質にしてきたの」
初めて聞く話に、私はただ驚くばかりでした。天下統一の頃って、何百年も昔のことなのではないでしょうか。
「それでどうしたのですか?」
「まあ、その気になれば反撃なんて余裕だったんだけど、それだと根本的な問題の解決にならないから悩んだの。それで結局、私達は中央御殿を別の場所に移すことにした」
「別の場所?」
「そう、この国では無いところ。人の手の及ばないところにね。それで私達は、中央御殿はもうこの国に無いから、別の国だと主張したわけ。国からは脅しめいたことも言ってきたけど、私達の力をほんの少し見せてあげたら黙ったわ。それで黎明殿は一つの独立した国だって認められたし、この国の中の黎明殿の所有地は、黎明殿の治外法権の地になったというわけ。分かった?」
本荘さんと十郷さんは、言葉も無いようでした。
「そんな昔のことをご存知の貴女はどなたですか?」
「あら、挨拶が遅れてしまったわね、ごめんなさい」
そう言うと、女性は掛けていた眼鏡を外しました。そして現れた女性の顔を見て、私は驚いて一瞬声を失いました。そこには、柚葉ちゃんをそのまま大人にしたような、年の頃にして三十台前半に見える女性の姿がありました。
「貴方は柚葉ちゃんの、お母さん?」
「そう見える?嬉しいわね。でも、残念でした。私は柚葉のお婆ちゃんってことになっているの」
「え?お婆さん?とてもそうには見えないですけれど」
「まあでも、そうなのよ。私は南森万葉、よろしくね」
「はい、北杉琴音です。よろしくお願いいたします」
名乗られてもなお、目の前の女性が柚葉ちゃんのお婆さんとは信じられないのでした。




