4-30. 巌さんのアドバイス
オフの日、私は午前中から星華荘の庭で体を動かしていた。美鈴さんは部屋にいるみたいなので、もう少しすれば庭に出て来るかも知れない。いや、最初から美鈴さんを誘っても良かったのだけれど、一人でじっくりと体の動かし方を再確認しようかと思い、声を掛けずに一人庭に出たのだった。
庭の倉庫から木剣を取り出すと食堂の前辺りに移動して、剣の型を一通りおさらいした。一つ一つ丁寧に、基本に忠実に。剣を振りながら私は先日の清華ちゃんの動きを思い出していた。清華ちゃんの動きは基本通りのものだった。と言っても、単に基本をなぞっているだけのものではなく、私の動きの変化にもきちんと対応してきていた。ああした動きができるのは、日頃から基本の動きを体に叩き込んでいるからだ。だから、と思った。あの最後の一撃も基本の動きの延長線の筈。でも私には捉えることができなかった。
私は剣を構えて前を見る。あの時の清華ちゃんの立ち姿を目の前に思い浮かべる。両手で剣を握り、姿勢を正して正眼に構えていた。そして、少し前傾姿勢になって一歩踏み込んだと思ったけど、その後は見えなかった。あれは身体強化だったのだろうか、でもそれまでも身体強化で打ち合いをしていたのだ、しかもアバターの私が身体強化をしていたのだから、清華ちゃんは精一杯だったと思うのに。そう言えば、前に美鈴さんの動きにも対応できなかったことがあったっけ。あの時も美鈴さんの動きを見失ったのだった。美鈴さんが特殊なことをしたとも思えなかったのに。
そのとき、食堂のサッシを開く音がした。
「どうした嬢ちゃん、考え事か?」
巖さんだった。巖さんは職業不明だけど、たまに私が一人で訓練しているところや、美鈴さんと打ち合っているところを興味深げに眺めていることがあった。それで、巖さんの仕事は何か武術に関係したものなのだろうかと思っていた。
私は巖さんの方を見た。巖さんは見た目50歳前後、仕事に出るときは背広姿だけど、今日はカジュアルなシャツとスラックスを履いている。頭がボサボサなのは、いつものことだった。
「巖さん、おはよう」
「ああ、おはようさん。嬢ちゃん、何か集中できていないみたいだな」
何故か巖さんは私のことを嬢ちゃんと呼ぶ。名前は陽夏だと何度も言ったけど、嬢ちゃん呼びは変わらなかった。最近ではもう呼び方を改めて貰うのは諦めている。
「うーん、ちょっとね。私なりに頑張って訓練しているつもりだったんだけど、及ばない人が増えていくというか」
「あれ?嬢ちゃんが勝てないのは美鈴ちゃんだけかと思っていたんだが、違ったのか?」
「私もそう思っていたんだけどそうじゃなかったってこと」
流石に女子高生に負けたとは言えなかった。それを言ってしまうと、相手が黎明殿の巫女で、自分もそうだったことまで話さないといけないことになりそうな気がしたからだ。
「ふーん、そうか。それでどんな風に負けたんだ?」
「相手の剣筋が見えなかった」
私の言葉を聞いた巖さんは、フッフと口元を緩めた。
「なるほどな。まあ、仕方が無いか、嬢ちゃん目が良いもんな」
「え?目が良いと駄目なの?」
私は巫女だから、当然のように視力は良いし、動体視力も良い。これまでの打ち合いは、その目の良さを使って来たのに、巖さんから見ると、それには問題があるということらしい。
「分かった、教えてやるから。靴を履いて行くからそこで待ってろよ」
巖さんは私に言い置くと奥に引っ込んだ。靴を履きに玄関に向かったようだった。ほどなく、建物の脇から庭の方に巖さんが出て来た。
巖さんは倉庫から木剣を一本取り出すと、私の前に立った。
「良いか、俺から打ち込むから、嬢ちゃんはそれを受けるんだ。分かったか?」
「受ければ良いんだね」
「ああ、そうだ。行くぞ」
巖さんは、私に向かって打ち込んできて、私が受ける。右に左にと打ち込む方向を変えて来るけど、身体強化もしていない普通の人の打ち込みだから何の問題もない。
「そうだ、ちゃんと見えているようだな。もう少し続けるぞ」
巖さんはリズムよく私への打ち込みを続けた。イチ、ニ、サン、シ、と。そして次の打ち込みが左から来たのでそれを受けようとしたのだけど、厳さんの剣先がフッと消えたと思うと私のお腹に木剣が突き立てられていた。
「え?」
「まあ、そう言うことだ。嬢ちゃんは剣筋にばかり気を取られているからこうなるんだ。もう少し周りを見ないとな」
なるほど、巖さんの言いたいことは分かった気がする。
「剣筋だけじゃなくて、体の動きにも注意しないといけないってことなんだよね?」
「まあ、そうだな。あと目の動きとか色々とな」
情報源は沢山あるから、それらすべてを見て総合的に判断しろということなのだろう。
「巖さん、分かったと思うから、もう一度やってみてくれる?」
「おぅって言いたいところなんだがな、悪い、さっきので腰を痛めちまったらしい」
「え?大丈夫――じゃないよね。そう言えば、腰かがめたままだし」
「たまにやっちまうんだよな。まあ、しばらくじっとしていれば、動かせるようになるから気にするな。もっとも、嬢ちゃんの訓練には付き合えんが」
「巖さん、私が代わりにやってあげるから、縁側に座っていたら?」
横から声がした。声のする方を見たら、美鈴さんが両手を腰に当てて立っていた。
「ああ、美鈴ちゃんか。良いところに来てくれたな。嬢ちゃんの相手を頼むわ」
「はいはい、頼まれてあげるから、そこで大人しく見ててよ」
「悪いな。まったく歳は取りたくないものだ」
「何言っているのよ。巖さん、まだそこまでの歳じゃないでしょ」
「そうだな、美鈴あがぁっ」
巖さんが話そうとしていたところに、美鈴さんが手で巖さんの口を押えたので、巖さんの言葉が途中までしか聞こえなかった。惜しかったけど、巖さんがピンチなような。
「私に歳の話題を振るとは巖さんも良い度胸だよねぇ」
「おががわががった。わががったった」
相変わらず口が塞がれているので何を言っているのかは良く聞き取れなかったけど、謝罪しているだろうことは見て取れた。
「あの、美鈴さん。巖さん謝っているみたいだから、許してあげたら?」
「そうね。今回は未遂だったし、この程度にしておいてあげましょうか」
言うなり、美鈴さんは巖さんの口から手を離した。巖さんはハーハー言っている。
「余計なことで話がそれちゃったわね。陽夏ちゃんの練習相手だっけ?」
「嬢ちゃんが剣筋を見失って負けたって話をしてたから、ちょっくらアドバイスしてたんだ」
「ああ、それで無理に剣の起動を逸らそうとして腰を痛めちゃったのね。まったく年甲斐もないことするから」
「面目ない」
「それで、陽夏ちゃんは分かったの?」
「はい、何となくは。でも、もう一度やろうと思ったら、巖さんが腰痛めてしまっていいたので」
「分かった。私が相手してあげる」
美鈴さんは厳さんが使っていた木剣を受け取ると、庭の真ん中に行ったので、私も付いていった。
「それじゃ、この前と同じように打ち込んできて」
「え?」
巖さんの前で身体強化使ってしまって良いのか分からず、思わず視線を巖さんの方に向けてしまった。どうやらそれだけで美鈴さんには伝わったようだった。
「巖さんなら大丈夫よ。口は堅いから」
本当に口が堅いなら、さきほどのようなことにはならないのではと思ったが、黙っていることにした。
「美鈴さん、行きます」
身体強化を掛け、剣を構えて美鈴さんを見る。美鈴さんの木剣だけではなく、体全体を視野に入れておく。そして、美鈴さんの体のどこが一番最初に反応するのかを見定めるようにしながら打ち込んでいく。
美鈴さんは最初の何合かは反撃せずに受けに専念していた。体全体の動きは少なく、コンパクトに私の打ち込みを受けるようにしていた。そして、七合目、私が右から打ち込もうとしたとき、美鈴さんの体が左に傾いていくのが見えた。
反撃が来る、とは思ったけど、何処に、が分からなかった。とっさの判断で、美鈴さんの体勢から推測される位置に木剣を持って行って受ける姿勢を取ると、ちょうどそこに美鈴さんの木剣が当たった。
「出来た、の?」
「出来たんじゃない?」
相手の動きを見るのに必死だったので、今一つ実感がない。でも、先日よりは確実に進歩したということだけは分かる。横を見ると、厳さんもニコニコしながら頷いていた。
「すみません、まだ感覚が掴み切れていないので、もう何度かやっても良いですか?」
「良いわよ」
二度三度と繰り返していくうちに、段々と感覚が掴めてきた気がした。もう何度か繰り返せばモノに出来そうに思えたが、残念ながら時間切れになった。
「ベル、訓練しているところで悪いんだけど、そろそろ出掛けようと思うんだよね。良いかな?」
声がしたのは巖さんのいる方だけど、巖さんの声では無かった。縁側に座る巖さんの後ろに立っていたのは先生だった。
「はーい」
美鈴さんは先生に返事をすると、私に向けて申し訳なさそうな顔をした。
「陽夏ちゃん、悪いんだけど今日はここまでにさせてくれる?私、先生に付いていかないといけないから」
「分かってますよ、美鈴さん。今日はありがとうございました」
「どういたしまして。また今度やろうね」
私が美鈴さんにお辞儀をすると、美鈴さんも私に向けて礼をしてから木剣を倉庫に仕舞い、庭から出ていった。
「陽夏ちゃん、悪かったね。邪魔しちゃったみたいで」
「いえいえ、先生、大丈夫ですから」
「そう、ありがとう。それじゃ、出かけて来るから」
先生は私に向けて手を振ると玄関の方に向かった。
私には先生と美鈴さんの関係性が良く分からない。恋人同士と呼ぶにはかなり疎遠な感じなので、違うと思うのだが、先生の近場のお出かけにはほぼいつも美鈴さんが付いていく。ただ、先生は遠出をすることも多く、そのときには美鈴さんはお留守番だ。先生は去年、夏から半年以上不在で、そのときも美鈴さんは星華荘に残っていた。あと、先生は美鈴さんのことをベルと愛称で呼んでいたりする。愛称で呼ぶのだから、それなりに親しい間柄だとは思うのだけど。
いや、他人の詮索は止めておこう。自分にも後ろめたいところがあるし。
「巖さんもありがとう」
「いやなに、どうってことないさ」
それより、巖さんの親切に報いるためにも、今日の成果を清華ちゃんとの打ち合いで早く試してみたい。




