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「夕日の彩りをさがして」

作者: いまっく

 今崎勇一の勤める出版社の梨木先輩が仕事中に突然倒れた。その二日後、先輩は静かに息を引き取った。会社の命運を左右する新規プロジェクトの責任者として、重圧に押しつぶされそうになりながら極端な残業が続いた。その結果、過労死との診断を受けた。葬儀もほどなく終えたのもつかの間、プロジェクト責任者の後釜を誰にするのかという話で社内は持ちきりであった。後任として白羽の矢が立ったのは同じ部署の勇一だ。

 勇一は当出版社に入社してまだ2年目であったのだが、たぐいまれなコミニュケーション能力と編集者としての繊細な心配りが買われていた。しかし、勇一には絵描きになるという夢があり、先輩の死を機に会社を辞めようかと考えあぐねていた。

 勇一の実家は農業を営んでいる。父は中学の美術の教師として教壇に立っていたのだが、定年退職後は実家の畑の作業に汗を流している。母ともども70歳をとうに過ぎているため、畑仕事が少しきつくなってきたようだ。勇一は実家に帰って農作業の傍ら絵を描いて過ごそうかと考えていたのである。

勇一は手持ちの会社の仕事がひと段落終えたのを機に、有休を利用して実家へ帰省した。

父に、会社を辞めて実家の農業を継ぐ相談をするためだ。

 

 勇一の実家は長崎の片田舎にある。空港から雲仙方面へ車で2時間ほど走ると小浜町という古びた温泉街があり、そこから更に海沿いをしばらく進むと民家もまばらな集落がある。橘湾を望むその集落には小さな港があり小船が5艘ほど停泊している。

 その港から山へ向かって延びる農道はほぼ一直線に整備されており、緩やかな坂道になっている。勇一の家はその農道の途中にあり、港から歩いて15分ほどのところだ。自宅のある小高い丘から眺める橘湾は、空の青さと流れる雲を鏡のように映し出し、さざ波がキラキラとまぶしく輝いている。

 昼頃長崎空港に着いた勇一は、バスに乗って実家へと向かった。3時間ほどバスに揺られて、家に着いたのは少し日が傾きかけた頃であった。家の玄関の脇には懐かしい金木犀が葉を生い茂らせている。玄関の扉はいつものように開けっ放しだ。

「ただいま」と言いいながら家の中に入ると廊下の奥から「お帰り」と母の声がした。

 玄関わきの靴箱の上には姉の瑛子が描いた絵が飾ってある。6号サイズのキャンパスに青々と明るく光る海の絵だ。

 奥へ続く廊下の壁にも同じような絵が3枚飾ってある。全部姉が描いたもので、画風はどれも似通っており、ほとんどが青い空と白い雲が冴えわたる海の絵だ。

 勇一は姉が描いた絵を見ながら廊下を進み、声がした居間の扉を開けた。

 居間にも姉が描いた海の絵がたくさん飾ってある。どれも躍動感あふれる波の飛沫が青色で彩られているのだが、1枚だけ鉛筆だけで描かれたデッサン画がある。

 母はソファーに座りアルバムを見ながらお茶を飲んでいた。

 1年ぶりの帰省だったのだが母は特に気にも留めず勇一の帰りを待っていた。

「お母さん、ただいま」

「おかえりなさい。早かったわね」

「うん。平日休みをもらったから飛行機もバスもすいていて楽に来られたからね」

「勇一が連休以外に実家に顔を出すなんて珍しいじゃない。何かあったの?」

「いや別に。何となく帰りたくなっただけだよ。で、お父さんはどこにいるの?」

「お父さんなら瑛子と一緒に海に行ったわよ」

「え?」

「天気もいいし、海の絵を描くんだってスケッチブックを持って行ったわよ」

「……、そう」

 勇一は浜まで行くことにした。

 

 勇一が港に着くと防波堤の先に父の姿があった。

 小さい港なので防波堤も幾分低めで作りが古い。コンクリートが波に浸食されて所どころひび割れがあり、その隙間に沿ってフナムシがサササと忙しそうに行ったり来たりしている。

 父は防波堤の片隅で折りたたみの椅子に座り、イーゼルにスケッチブックを載せて海の絵を描いていた。

 勇一は父の小さな後姿を見ながら声を掛ける。

「お父さん、ただいま」

「うん? ああ、勇一か。帰ってきてたのか」

 父は少しだけ勇一の方を振り返り、軽く微笑むと、またキャンパスに向かった。

「さっき家に行ったらお母さんがいて、お父さんはどこに行ったのかって聞いたら、瑛子姉ちゃんと一緒に港まで行ったって言ってたよ」

「……。そうか、最近ずっとあんな感じなんだよ」

 姉が癌で亡くなったのは2年前だ。母の時間は、二度と目を覚ませてくれない娘を前にした瞬間止まってしまった。いまだに娘の死を受け入れられずにいる。

 父はキャンパスに向かったまま話を続ける。

「瑛子が亡くなって一週間くらいたったころかな。食事の時に瑛子の分のご飯も出すようになった。瑛子は死んだんだと何度も言ったんだけど、そのたびに、あなたは何もわかっていないと怒り出す始末だ」

「……」

 勇一は父の描いているスケッチブックを見た。

「お父さん、また海の絵を描いているんだね」

「ああ、瑛子と約束したからな」

 姉に膵臓癌が見つかったのは3年前だ。1年間の闘病生活の甲斐もなく帰らぬ人となった。姉が死ぬ間際、病室のベッドに横たわる姉を家族みんなで囲んでいた。父が姉の手を握ると、姉の口から消えゆくような声で「あの絵をお願い」と言うのが聞こえた。父は分かったと小さくうなずき、姉はそのまま息を引き取った。口元には微かな笑みが浮かんでいた。

 居間に飾ってある海の絵で、一枚だけ鉛筆だけで描かれたデッサン画がある。姉が最後に描いた絵だ。鉛筆で細やかに描かれた海の絵には色がまだ塗られてなく、どこか物寂しさが漂っている。橘湾の対岸をおおう雲の切れ目から沈みゆく太陽がのぞいている構図は、夕刻を表現しているようだ。姉がよく描いていた真昼の太陽が降り注ぐ青空の情景が頭の中に浮かんでこない。全体の色調のイメージがどうしてもわかないのだ。

 姉がベッドの上で父へ伝えた「あの絵をお願い」という最後の願いを、父はしっかりと受けとめた。実家のリビングに飾られている色が塗られていないデッサンだけの絵を完成させてほしいということなのだ。姉が亡くなった日から、父は姉が描こうとしていた色彩を模索した。

 父は農業の傍ら時間の許す限り海の絵を描きつづけていた。描き続けることで姉が思い描いていた最後の色を探そうとしていたのだ。

 防波堤の片隅でスケッチを続ける父を見ながら、勇一はふと幼かった頃のことを思い出した。

 キャンパスに向かっている父の背中に話しかける。

「お父さんは俺と瑛子姉ちゃんがまだ小さかった頃、よくこの浜辺に絵を描きに来ていたね。俺たちもお父さんからスケッチブックを渡されて一所懸命描いたっけな。おかげで俺も姉ちゃんも絵を描くのが好きになってさ」

「ああ、二人とも絵を描くのがすごく上手くなってびっくりしたよ」

「お父さんはいつも、日が沈むまで描いていたよね。その時間まで俺たちも一緒にここにいてさ。そういえば瑛子姉ちゃん、言ってたよ。ここに来て見る夕日が大好きだって」

 父の横顔が夕日に照らされている。二人とも黙ったまま海を眺める。

 対岸に沈んでいく太陽は深紅の赤みを帯び、霞がかったオレンジと淡く焦げたような山吹色が混じり合い、光の粒が水面のさざ波を照らして煌めいている。

 父がつぶやいた。

「綺麗な海だ。そうか、瑛子はこの瞬間を描きたかったんだ」

「父さん」

「勇一。絵を描くことで一番大切なことは何か知っているか?」

「……」

「俺が中学で美術を教えていたときに常々思っていたことだ。絵を描くことで一番大切なことは、完成させることだよ。勇一、お父さんは分かったよ。瑛子の最後の絵の色が。瑛子の気持ちを引き継ぐためにもあの絵を完成させる」

「うん。瑛子姉ちゃん、きっと喜ぶと思うよ」

 勇一の脳裏にふと、会社の上司であった梨木先輩の面影が浮かび、新規プロジェクトに携わる同僚たちの顔がよぎる。勇一はしばらく目を閉じた。

 結局雄一は、会社を辞める相談を父にするのはしばらくやめることにした。

 次の日、先輩がやり残したプロジェクトを引き継ぐため、実家を後にした。


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