「2」
-追いかけ鬼-
学校は、大まかに分けると、東と西と南…と三つの棟に分かれている。
分かれていると言っても、実際には南を奥にして、コの字型に連結しているのだ。
初めは奥の南の校舎だけだったのが、増築に増築を重ねて続いて東と体育館、そして西…西と連結するコンピュータールーム…となったらしい。
それも彼女が入学する大分前の話にあった事だが。
棟ごとに階段があるので、担任の浅井が普段使っているのは南の階段だ。
二階の職員室の浅井の席が位置している場所からだと南の階段が一番近い。
気まぐれに別の場所から上ってくる事もあるがそっちの棟の何処かの教室に用事があった時位で、
面倒くさがりやの浅井は毎日ほぼ同じルートを通ってくる。
彼女は保健室に近い方の東の階段を下りる事にした。
これなら浅井がよほど気マグレを起こさない限り出くわす事はナイ。
彼女の南階段すぐ隣のクラスは5組だ。階段前を通り過ぎると、他のクラスは既に6組はホームルームを始めていた。
6…7…8…9とまるでカウントでもする様に他クラスの前も足早に通り過ぎて、東校舎四階の一番端にある階段に辿り着いた。
東の一番端のこの場所は、今は使われていない教室と、資料室と、一番奥の図書室しかない。
階下も、図書室の位置する場所が三階の第一音楽室、二階のソーイングルーム、一階の保健室と言った具合で人の気配が殆ど無い事にあまり変わりがナイ。
ゆりは何気なく資料室と、図書室を覗いてみたが案の定誰もいなかった。
なんだか少し気の抜けたような、ホッとしたような気持ちで彼女は階段を拍子をつける様に、ひょい、ひょいと一段一段降りはじめた。
―あ~あ…この瞬間に学校に爆弾でも落っこちてくんないかな~…
そうしたら少しはせいせいするかもしれない。
彼女はこのひどく馬鹿げていて不謹慎な考えに
クスッと小さな笑いをヒトツもらした。
トッ、トッ、トッ、トッ…
階段を下りていく音。一定のリズム。
心臓の鼓動にも似ている、と彼女は想った。
体が上下に揺れるその感覚が、心地よかった。
兎に角最近、何もかもが煩わしい。
全てがウザったかった。
一人になれるこの瞬間が心地いい。
三階。
音楽室。でもまだ音がしない。
一時間目から音楽をやっているクラスは今日はないようだ。
二階。
ソーイングルームには何年生かは解らないが、既に生徒達がいるらしかった。
楽しそうな声を軽くたしなめながら今日の作業について
声を張り上げて説明する、教師の声が響いてくる。
そうして二階から一階に続く階段を降りはじめたその時、はたと彼女の足が止まった。
―もうすぐ保健室だけど…どうしよう。
保健室はただ具合が悪いと言うだけでは使わせて貰えない事が多い。
熱も病気の症状もなければ追い返されてしまう事が殆どだ。
―だったらかばん持ってきて帰っちゃえばヨカッタな…でもま、一応ダメモトで保健室には行って見よっかな
彼女はまた一定の間隔で階段を降りはじめた。
トッ、トッ、ト…
彼女の頭の中に言葉が浮かんだ。
―心臓のリズム
その時。
「心臓のリズム」
彼女の口に出していない言葉がそっくりそのまま投げかけられた。
朝聞いた、若い男の声だと気付くのに時間はかからなかった。
「生命の証か…」
彼女の心臓がドクンッと体の中を跳ね上がった。
そのまま物凄い速度で心臓が動き出す。
背中がゾッとして、一気に血の気が引いた。
「誰よ!変なイタズラやめて!」
でも彼女は気付いていた。
なんだかこの声は妙だ、と。
―なんで私の耳元で…しかもどっちの耳からも聞こえるの?気配もナイのに。
彼女は顔を歪ませながら、正面の壁に目をやった。
その壁には大きな鏡があった。
「なんで…?」
―他の階の踊り場にはなかったじゃない。
彼女は後ずさりしながら階段を一段あがりかけて、気付いた。
―嘘!
鏡の向こう側の彼女はさっき鏡に気付いた瞬間の格好から丸で動いていなかったのだ。
「嘘でしょ!」
―やだ…あたし、オカシクなっちゃった?!
彼女は震えながら、階段のてすりに右手をかけた。
と、次の瞬間彼女は悲鳴を上げていた。
てすりがぬめって掴めない。
右手を顔の前に持ってくると赤黒い色の液体でべっとり濡れている。
彼女は絶叫する。
その場を離れようと、後ろを振り向くが、「キャッ」と小さい悲鳴を上げて、転倒した。
床は一面手すりと同じ奇妙な赤黒いドロドロの液体で埋め尽くされており、元の廊下のモスグリーンは跡形もない。
全身から冷たい汗がどっと噴出す。
泣き出しそうになりながら彼女は尚も逃げようと四つんばいになってから、体勢を変えて立ち上がろうとした。
と、また彼女の頭上から声が降って来る。
「逃げる気か…?」
あの男の声だった。
…恐怖…
それまでの17年間で一度も味わった事のない感覚だった。
いままで感じてきたどの場面でもこんな感情を味わったためしがない。
赤黒く光る床に震える手をつき、つっぷしたままの状態で
彼女は目だけを動かして上をみつめた。
そこには男が一人、無表情で立っていた。
男と目が合って彼女は益々ゾッとした。
男の虹彩の部分は丸で真っ青だった。丸で氷を思わせる青だ。
それだけじゃない…
男は鏡の向こう側にいる…。
本来は彼女が突っ伏していなければイケナイ場所にそいつは立っているのだ。彼女は顔を上げて、必死に鏡の向こうの自分の姿を探したが、ドコにも見当たらなかった。
彼女は男から目を離さず、よろよろと無理矢理立ち上がると、震える声を振り絞って怒鳴った。
「なによ…一体なんなのよぉ!コレェ!!!」
男は瞬きもしないで彼女を見ている。
「アンタなんなのよ…誰なのよォッ!」
男は答えない。
腹立たしい気持ちが沸いたが、それも本の一瞬で、すぐにスゥッとおなかの底の方へと立ち消えてしまう。
彼女はとっさに踵を返してその場を離れようとした。
が、そこで男がまた口を開いた。
「他の連中の身に危険が迫ったとしてもなんとも思わないけど自分の事となったら必死か…。みっともねぇな」
低く、重たく…そして冷たい声だった。
その声がゆりの鼓膜を無視して、脳や内臓全部に染み渡った。
ゾクゾクして鳥肌が全身に立つ。彼女はおそるおそる肩越しに鏡をみた。
やはり鏡の中に男は立っていた。
さっきより、彼女との距離はぐんと縮まっている。
音もなく…静かに…顔色のヒトツも変えないまま。
しかも男は足を一歩たりとも動かしていない。
それなのに近づいてくるなんて…!!
男の様子を悠長に窺っている場合じゃない…!
が、彼女の体は恐怖で固まっている。
気持ちの悪い汗がじとりと額に浮く。
彼女は震える足に―動け!と無理矢理命令を下し、地面を蹴った。
ニチャッ…
ピチャッ…
クチャッ…
彼女の足元に広がる赤黒い液体が嫌な音を立てる。
その音のせいなのか、全てがスローモーションに感じられた。
ゆりは階段を二段飛ばしで駆け上がる。頭の中は真っ白だ。
自分の荒い呼吸の音しか聞こえてこない。
誰かが彼女の髪の一筋をつぃッと引っ張った気がした。
ブチン…髪が抜けたのか、切れたのか。
彼女はそんな小さな痛みの感覚は全て無視して、階段を駆け上がり、二階に付いた所でソーイングルームの方へ体を向けた。
さっき明るい声のしていた場所。
ここなら人がいる。部屋までの距離は3メートル程。
彼女は足を止めず扉へ向かった。
奇妙な顔をされようと驚かれようと構わない。
この恐怖に比べたら問題になんかならない。
が、彼女はそこで又行く手を阻まれた。
目の前に、赤黒い無数の糸の様なモノが
見えない空気の壁を伝うかのように空間を侵食していく。
あっと言う間にソーイングルームの扉も生徒達のざわつきも聞こえなくなった。
彼女は諦めず、反対側を向いてまた駆け出す。
その先には、資料室と、1年の1~3組と職員室がある筈だ。
が、また何かに髪の一筋を引っ張られる。
そして、その正体がさっきの赤黒い糸だと彼女が気付くのに時間はかからなかった。
彼女は走った。
無我夢中で。
赤黒い糸は編みこむようにねじれるようにして絡みながら沢山の小さな手の形になって彼女を追って来る。
―なんで…!?
彼女の目に涙が溢れた。
―なんであたしがこんな目に…!?
そうこうしているウチに東校舎の半分位まで走ってきた。
もうすぐ1年1組と、南校舎への接続部分へ辿り着く。
―後少し…!
今度こそもう少しで人のいる場所へ行ける
彼女は呪文の様に唱えながらひたすら走る。
こうして息が苦しくて喘ぎながら走っていると、なんだか「走る」と言うよりは「溺れている」様な感覚だった。
こんなに一生懸命走ったの、最後はいつだっけ?
とんでもない状況なのにそんなくだらない事が脳裏を掠めた。
そう言えば、小・中学の頃、毎年の様に学校で催されていた
持久走でも真剣に走った記憶は殆どないな。
運動会や体育祭の時だってそう。
無理して走る必要なんてナイと、気が付いた時にはそう考える様になっていた。
それがいつ頃からかは…やっぱり思い出せなかった。
…その時だ。
彼女の右脇を伴走するかの様な影が目の端にチラリと映った。
彼女は「えっ!?」と小さく吐き出して右をみた。
そこにはさっき踊り場でみた青年は少し俯いて、目だけでコチラをみていた。強い視線を彼女に投げ掛けている。
「逃がすかよ…」
恐ろしく低くて…そして冷たい声で言い放ち、また歪んだ笑みを浮かべる。
ゆりは悲鳴を上げ、力一杯駆け出した。
…が、
ガクン!と言う音と共に後頭部の頭皮の一部に鋭い痛みが走り、彼女の意思に反して首がに無理矢理に後ろへ曲げられた。
…あの不気味な赤黒い糸で作られた無数の手の仕業だ…そう気付くのに時間は掛からなかった。
彼女は反動で廊下に倒れ込んみ、そのままモノ凄い速さで廊下を引き摺られて行く。
絶叫する彼女の目にチラリと映ったのはさっきの鏡のある壁だった。
無数の手はそこから伸びている。
―ぶつかる…ッ!
彼女は咄嗟に目を堅く閉じる。
…カクン…
微かな音。
フッ…と体が一瞬浮く様な感覚を覚え…
次に手も足も髪も…体の上へ向かって伸びたような気がした。
―…もしかして…あたし…落ちてる…?
息がしづらくなる程の、真っ暗闇の中。
音もなく…
ゆっくりと…
彼女は落下して行った。
「3」へ続きます。




