#7
放課後、ホームルームが終わってすぐだった。
紗雪が発作を起こしかけてしまい、取り敢えず人気の無いところに行こうと、私は紗雪を屋上に連れて行った。もしかしたら、折良く標的がいてくれるかもしれないという淡い期待を抱きつつ、いざとなったら誰か誘き出して突き落とせばいいと思って。そして、扉を開けると。
飛び降り防止には不十分な高さの柵を越え、屋上の縁の金属部分に腰掛けている、女子生徒がいた。冷たい風の吹き荒ぶ中、一人ぼっちで。
雰囲気からして、一つか二つ歳上だろう。突っ張りたい年頃なのだろうか、後ろから見ても分かるほどだらしなく制服を着崩し、煙草を吸っていた。
まあ、この際そんなことはどうでもいい。大切なのは、彼女が既に、非常に都合のいい位置にいるということだけだ。
たった一突で、彼女は落ちる。私の中で、彼女の背中を押すことは決定事項になった。妨害を阻止するため、後ろ手で、ハンカチ越しに静かに扉の鍵を閉める。彼女が落ちたら、これはすぐに開かねばならない。でないと、私達が疑われる。落とす前に誰か来たら? そのときは、その誰かを階段から突き落とす。誰だって構わないのだから。落とした直後に来たら? 結末は同じだ。
「ん……? なんだテメェら」
二足の上履きが屋上の塗装を擦る音が聞こえたのか、彼女が上半身だけで振り返る。粗雑な仕草、言葉遣い。そして煙草。本当は一言も口を利きたくない。でも、彼女は私達の救世主だ。無礼な態度はできない。
「こんにちは。妹の体調が悪いので、空気のきれいなところで休憩しようかと。ここにいてもよろしいでしょうか?」
「あっそう。勝手にしな」
下級生だから逆らって来ないだろうとでも思っているのか、彼女は私と紗雪を一瞥すると、元の姿勢に戻り、また煙草を吸い始めた。煙草を隠す気も、やめる気もないらしい。下手な、ニコチンを効率よく摂取するためだけの吸い方。あれでは美味しくないだろうに。しかも未成年の喫煙者だ。生きていればいずれ、ニコチン中毒になるだろう。
煙草を消して欲しいというのは、伝わらなかったか。まあいい。彼女と一緒に、煙草も落ちていくのだから。
「ひまり、ちゃ……わたし……」
紗雪ははあはあと苦しげな呼吸を重ねながら、ぐったりと私に寄りかかっていた。もう限界らしい。ターゲットは目の前にいる。下には植え込みも何もない、この高さから落とせば、多分死ぬ。別に死ななくてもいいのだが、生き残った彼女に犯人だと言われて、紗雪が捕まったら。
紗雪の病は誰にも理解されないだろう。そして、紗雪はきっと、他人の生き血を見ることができなくなって、自分の身体を切り裂いて出血死、もしくは発作が治らなくて窒息死してしまうだろう。どんな手段を使っても、それだけは避けねばならない。だから、殺す。
素早く校舎の周囲を確認し、目撃者になりうる人物がいないか、捜す。運良く、誰もいない。ならば、行動あるのみ。
「……行こう、紗雪」
「……うん……」
紗雪に寄り添いながら、ゆっくりと、彼女の背中に近づいていく。私達が自分を殺そうとしているなんて思いもしないのか、前を向いたままだ。思ったより、小さい背中だった。
そのまま、彼女の背中に手が届くところまで、ゆっくり、ゆっくり、這うように忍び寄って。柵の隙間からスッと手を出し。
「……ごめんなさい……紗雪のために……死んで、ください」
ビュッと、一際強い風が吹いて、私の呟きは掻き消された。同時に腕を伝う、重たい感覚。
その、次の瞬間。
校舎の裏に、彼女の絶叫が響き渡った。
続いて聞こえた、ドサッ、という鈍い音。
間違いない。彼女の生命は今、絶たれた。
「さあ、紗雪……落ちないように気をつけて、下を、見てごらん」
「う、ん……」
素早く柵を越え、紗雪を補助し、眼下に広がる彼女の最期を見届ける。私の罪を、忘れないために。
目を凝らしてよく見てみれば、一気に十八メートルも下に叩きつけられたというのに、彼女はまだ、生きていた。蝶の翅のごとく左右に溢れ出した、赤い水溜の中で、昆虫の脚のようにひしゃげた手足がピクピクと痙攣しているのが見える。でも、頭は殆ど潰れていて、かつての頭部から、血液の他、脳漿らしき透明な液体が流れ出し、触覚のように長く伸びていた。まあ当たり前か。人間、ある程度の高さから落下すれば、頭で着地してしまうものだ。彼女の頭だったものの横で細く煙を上げている煙草が、なんだか切なかった。
普通の人間なら、死にかけの蝉のように無造作に転がっている彼女を、気持ち悪いと思うだろう。でも、私達はそうではない。私のは、ただの慣れだけれど。
隣を見てみれば、紗雪は新しい玩具でも見つけた子供のように目を輝かせて、口元を隠し、にっこりと笑っていた。はるか下にあるとはいえ、一面に広がる血の海。まるで地獄だ。満足したのだろう。紗雪の好きな、きれいなあかいものが、いっぱい。あたたかさは……私が抱きしめて補おう。
「紗雪……大好き」
灰色の雲に覆われた冬の空の下。私は紗雪の肢体を、そっと、包み込むように抱き締めた。これからも、ずっと守り続ける。死ぬまでずっと。そんな思いを込めて。
「うん……私も陽葵ちゃんのこと、大好き」
紗雪の、天使のように清らかな、優しい微笑み。鈴をころがしたような、透き通る声。私の腕をきゅっと握る、白くて可愛い指。私はこのために生きている。
私のような、罪に穢れた醜い悪魔には、十分過ぎる報酬。紗雪の存在そのものが、私にとってはご褒美なのだ。
彼女には本当に、申し訳ないことをした。けれど、それももう、どうでもいい。紗雪さえ生きていれば。
一頻り抱き合うと、私は紗雪から身体を離した。この後からが、私の本当の戦いだ。
「……さてと。紗雪、そろそろいい?」
「うん。もう大丈夫。私、元気だよ」
「良かった……じゃあ、行こうか」
柵を乗り越え、階段へ続く扉の鍵を開け、誰かが来るのを、待つ。今回は、下手に逃げないほうがいい。柵のあちこちに指紋がついてしまっていることだし。
彼女は強風に煽られて、うっかり、落ちてしまったのだ。これは、あくまで事故。私達は目撃者。ただそれだけだ。
「……紗雪。よく聞いて。あの人はね、強い風に吹かれて、落ちちゃったの。あんなところに座っていたんだから、無理もないよね」
私達にしかわからない、あからさまな嘘。流石の紗雪も、彼女を手にかけたことを人に言ってはいけないということは理解している。私も紗雪も、逮捕される気など毛頭ない。
「……うん。そうだね」
少し、混乱したような顔をした後、紗雪はゆっくりと頷いた。紗雪は頭の回転も、行動もゆっくりで、おっとりしていて、私なんかよりずっと淑やかで上品だ。少しドジだけれど。だから、私の存在にも意義がある。物事を素早く正確にこなすのは得意だ。人間相手だとてんでダメだが。
そのまま、少し待っていると、 十八メートル下の地面の上を、誰かがドスドスと走るような音がして、続いて、誰かー、救急車を呼んでくれー、と叫ぶ声がした。自分で呼べばいいのに。
「……あ、そうか。私達が呼べばいいんだ。そのほうが、目撃者っぽいし」
「あ……そうだね……あはは」
私の間の抜けた声に、紗雪が苦笑いした。ぬかった。やはり、私もまだまだだ。こんな調子ではいけない。でも今は、その件は一旦置いておこう。
ポケットから携帯電話を取り出し、迷わず119をコールする。コール音が一回も鳴らないうちに、プツッという音がした。
「火事ですか? 救急ですか?」
お決まりの台詞に、学校の屋上から人が落ちたこと、学校の住所、私の名前と電話番号を伝える。現場まで誘導して貰いたいと言われて、電話は切れた。彼女はもう絶対に助からないのに、救急隊員に無駄な仕事をさせてしまうことに、心がちくりと痛む。
私が携帯電話を仕舞った一瞬後、屋上の扉は、よく知らない男性教師によって開け放たれた。一体何があったんだ、唾を飛ばしながらもの凄い剣幕で訊いてくる教師に若干辟易しながらも、校舎の縁に座って煙草を吸っていた上級生が転落したところを目撃したこと、救急車はもう呼んだこと、救急車が誘導してもらいたいと言っていたことを告げる。私も役者だ。慌てているフリをするのは、そう難しくない。紗雪は演技はあまり上手ではないが、単純に教師の出現に慌てていたから、はたから見れば私と同じだった。もっとも、慌てすぎて殆ど何も言っていなかったが。
男性教師は私の話を聞いて深い溜息を吐くと、頭をバリバリと引っ掻き、わかった、二人とも、俺についてこいと言って、屋上を出て行こうとした。命令に従い、私と紗雪は教師について、下の階へ向かった。
その後は、この学校の誰もが知るところだ。
死亡したのは、三年三組三十五番、三島乃恵瑠。のえると読むらしい。イミがわからないが、まあ、そんなことはいい。
事故に遭った生徒について。三島乃恵瑠は煙草について学校側から何度も注意されていたようで、屋上にいた理由は、人気のないところで喫煙しようとしたからだろうということで、みな納得した。屋上の縁に座っていたことについては、そこに座ったときにしかつかないような指紋もついていたことだし、非行少女のやることだ、まあそんなこともあるだろうと皆が頷いた。彼女の両親でさえも。ひょっとしたら、彼女の両親は、親の煙草をくすねたり、非行ばかりして言うことを聞かない娘を持て余していたのかもしれない。葬式でも泣いてはいたが、私の目にはあまり悲しそうに見えなかった。
問題は、私達についてだ。私達が屋上にいた理由は、単純に静かな、景色のいいところに行きたかったからだと答えた。こんな寒い日に? と訊かれたが、それは三島乃恵瑠も同じでしょうと言うと、取り調べの警察官は黙ってしまった。そう、私達は目撃者……いや、容疑者として取り調べにかけられたのだ。仕方がないだろうが、私は紗雪が警察官に泣かされていないか、心配で心配で気が気でなかった。
事故が起こったときの状況を説明して下さいと言われた。説明も何も、私達が屋上に出て間も無く、彼女は勝手に落ちたのだ。説明することなど何もない。私達は彼女が落ちてすぐ、柵を乗り越え、彼女の安否を確認し、大怪我をしていることがわかったため、救急車を呼んだ。ただそれだけだ。そう言うと、警察官は随分冷静なんだねと言ってきた。まだ私のことを疑っているらしい。煩わしいことこの上ない。
だから、訊いてみた。私達を疑ってるんですかと。すると警察官は慌てて、そういうわけじゃないと何やらあたふたしていた。新人か。
三島乃恵瑠の転落に、事件性は認められなかったんですよね。なら、私達が尋問を受ける謂れは無いはずです。早く家に帰して下さい。そう言うと、目の前に座っている警察官は長大な溜息を吐き出して、手厳しいこった、と呟いた。やけに気の弱い警察官だ。取り調べとは、もっと雑な扱いを受けるものだと思っていた。いや、彼にその気がないだけか。
暫くして、取り調べ室のドアが開いて別の警察官が入って来て、私を解放すると言った。やっと来たか。取り調べが始まってからもう三時間も経っている。
そう、実は私達の両親は、弁護士なのだ。それも、夫婦で弁護士事務所を経営している。忙しいのだろう、数日帰ってこないこともしょっちゅうだ。だから、私達が幼かった頃は、よく家政婦さんに来てもらっていた。もっとも、私や紗雪が成長して家事をソツなくこなせるようになってからは、あまり呼ばなくなっていたが。これは不満ではないが、家にいるとき、両親はなんの家事もしない。私にやれと言うだけだ。そんなときも紗雪は、率先して手伝ってくれる。本当に気の利くいい子だ。
その、一流弁護士事務所・弁護士法人双龍法律事務所を経営している二人が、大事な大事な紗雪が警察に不当な取り調べを受けていると聞いて、黙っているわけはない。私はおまけだ。まあいい。紗雪を助け出してくれたことには感謝しよう。
取り調べ室を出て廊下を抜けると、待合室に両親と紗雪がいた。紗雪は両親と何やら楽しげに話していて、思ったより元気そうだ。良かった。ストレスがかかると、紗雪の発作の間隔が縮まってしまうから、ストレスコントロールは非常に重要だ。
私が三人のところに近づいていくと、まず紗雪が私に気がつき、駆け寄って来た。
「陽葵ちゃん! 大丈夫だった?」
「うん……大丈夫。紗雪は?」
「私? 私は平気だよ!」
そう言う紗雪の後ろから、両親の非難がましい視線が、真っ直ぐ私に向かって降り注ぐ。昔から、悪いことは全て私のせいにされた。でも、今はなんだかそれが誇らしい。私が攻撃されることで紗雪を守ることができるなら、私としては本望だ。
「お父さん、お母さん、申し訳ありません。屋上に行こうと言ったのは私です。そのせいでこのような徒労を……」
「……だと思った。行くわよ」
母は冷たく言い放つと、私に背を向け、カツカツとヒールの音を響かせて歩き出した。父は何も言わず、私に見向きもしなかった。あまりにぞんざいな私への対応に、紗雪が異議を申し立てようとしているのを、首を小さく振って止める。私なんかのことで、紗雪が要らぬストレスを抱えることはない。
そのまま、家族四人で車に乗り、帰宅する。両親が振った話に紗雪が相槌を打つ中、私はずっと黙っていた。いつものことだ。
家に帰って、レトルトの夕食と、入浴を済ませて寝て。次の日はまた、普通に学校に行った。冬の受験シーズン直前だったためか、ご苦労なことに学校は休みにならなかった。
その日、事故について誰かに訊かれることは無かった。次の日も、そのまた次の日も。
三島乃恵瑠の死は、完全に事故として処理された。
そうして、全ては丸く収まった。
私達は、壁をまた一つ、乗り越えたのだ。