#5
その日の夜は、氷室のようにひんやりと湿って肌寒かった。
いつものように二人で夕飯を作って食事を済ませ、紅茶を淹れてお茶の時間にしようとしたとき、滅多に鳴らない置き電話が振動と共にけたたましい電子音を発した。恐らく緊急連絡網が回ってきたのだろう、と思いながら受話器を取って耳に当てれば、かけてきたのはよく知らないクラスメイトの母親だった。何やら不安げな声色をして、怪談でも語っているかのような口ぶり。言っていることも連絡事項とコメントがまぜこぜでいまいち要領を得なかったが、概要はなんとか掴めた。
二年三組十五番佐藤裕太、行方不明。誘拐か家出か。外出の際は、不審者にご注意下さい。
概要はたったこれだけ。私には無用のメッセージだ。
佐藤裕太は家出ではないし、行方不明でもない。そして何より、彼を殺めた犯人はすぐ後ろにいるのだから。
「わかりました。気をつけます……彼、早く見つかるといいですね。それでは、おやすみなさい」
礼儀正しく出まかせを言って、受話器を置いた。退屈な話を聞いたせいで込み上げた欠伸を飲み込めば、視野の下半分がジワリと滲む。とんだ時間の無駄だった。
私の家、双龍家は連絡網の末端だ。連絡が最後まで伝達されたことを、本部に報告しなければならない。本部……担任の電話番号を押して、電話をかける。帰宅してから教師と喋るなんて、気が乗らないけれど。
受話器を耳に当てて待っていると。数回のコール音の後、担任は電話に出た。
「もしもし、双龍です」
「おぅ……その声は、陽葵のほうか……どうした?」
担任の男性教諭は、なにやら疲れたような、嗄れた声をしていた。当然か。こんな時間まで学校に残っているのだから。
中学教師というのも難儀な職業だ。授業だけではなく、こんな雑用のような仕事もこなさなくてはならない。教師との間に良い思い出などない私は、余所事のようにそう思った。
「連絡がうちまで回りましたので、その報告を」
「そうか……ご苦労さん。佐藤、どこ行っちまったんだろうな……」
普段溌剌としているぶん、彼の溜息はいやに大きく聞こえた。受話器の向こうで薄くなり始めた頭を抱えている担任が容易に想像できて、急に彼が気の毒になる。担当しているクラスの生徒の行方がわからないことは、多大なストレスになっているだろう。学校にいるはずの時間帯にいなくなったのだ、責任を問われたり、糾弾される恐れもある。不安で仕方がないはずだ。だから。
「……きっと、すぐ見つかりますよ」
死体として、ね。
「そうだな……ありがとう。じゃ、お前も気をつけろよ」
「はい。では」
適当な慰めを言って、電話を切った。これからもっと忙しくなるであろう彼に、ささやかなエールを送りながら。
ひとつ、溜息を吐いて後ろを振り返る。そこには当然のように紗雪がいて。
「陽葵ちゃん、誰にお電話してたの?」
「……先生だよ。佐藤君がいなくなったんだって」
「ふぅん……早く見つかるといいね」
この調子だ。やはり紗雪は、彼のことを憶えていない。癪だから憶えなくていいけれど。
「うん……そうだね」
涼しげな麻のカバーが掛かったソファに腰を沈めている紗雪の横に座り、冷めた紅茶を啜る。電話のせいで、折角のティータイムが台無しだ。まあ、自業自得だから仕方がない。むしろ、紗雪が今も生きていて、横にいてくれることに感謝せねば。
そんな私の気も知らず、紗雪はさらっとした生地の白いパーカーとショートパンツに身を包んで、お気に入りの少女雑誌を捲っている。シャーリングした長めの袖から伸びる指はフードからとろんと垂れた兎の耳を弄り、賑やかな紙束との間を行ったり来たりする。苦くなった紅茶を口に含んでゆっくりと飲み込み、ティーカップをローテーブルに戻すと、落ち着いた薄茶色の小さな頭が徐ろに擦り寄ってくる。夜になっても花畑のような香りがする髪を撫でながら、私は今日のことを振り返った。
あの後、私は予定通り焼却炉に証拠品を葬った。血のついたウェットティッシュ、白い手袋、家庭科室の鍵。煙が上がるのも確認した。私達の罪の証は、炎に焼かれて清められたのだ。
家庭科室の死体に初めに気がつくのは誰だろう。うちの学校には警備員はいないことだし、やはり、家庭科の教師か。それとも、もう警察が見つけている頃だろうか。まあどちらでも構わない。紗雪が疑われなければ。
服や上履きに血液がつかないように、細心の注意を払った。髪の毛一本も、現場に残してはいない。服の繊維は……みな同じものを着ているのだから、証拠にはなり得ないだろう。皮膚の欠片? 同じ日に家庭科室を使ったのだから、残っていたって全然不思議じゃない。指紋だって、同じ。
だから、多分大丈夫だ。月曜日の全校朝会で伝えられるのは、行方不明か、殺害か。殺害だったら、休校になるかもしれない。
もう、どうでもいいことだけれど。