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Snow White Lunatic  作者: 天童美智佳
Chapter I
4/33

#4

 ふと、誰かの声で、私は急に現実に引き戻された。

 瞼に焼きついた灰色の残像が消え去り、ぽつりぽつりと、絵具が滲むように視界に色が戻る。弁当箱の包装に使われ、今はランチョンマットと化している風呂敷の桜色、草臥(くたび)れた艶のある机の茶色、黒い箱に入った御菜(おかず)の豊かな色彩。朱色の塗り箸に挟まった(ヘタ)つきのプチトマトは、あの日の彼の頭に、少しだけ似ていた。


「……陽葵ちゃん? どうしたの、ボーッとして」


 気がつくと、紗雪が私の顔を覗き込んでいた。いけない、うっかり放心していたようだ。


 記憶の旅から帰還した手土産なのか、(カビ)(サビ)が混じったような廃墟の匂いが、意思とは無関係に鼻腔の奥に蘇る。食事時に吸うには向かないその空気を肺から追い出し、いつのまにか伏せていた顔を上げ、私は真っ直ぐに前を見た。


 私達が今いるのは、賑やかな狭い教室の片隅、私の机のあるところ。昼休みには皆が好き勝手に移動を始めるため、中央付近にある紗雪の机よりも、ここの方が居心地がいいのだ。だから、この風景に違和感はない。紗雪がいつ来て、いつ弁当を広げたのか、まるで覚えていないけれど。


 知らぬ間に教室にいて、無意識に弁当を摘んでいる。そんな異常な体験も、初めてではない。私は今の今まで考えていたことなど微塵も表情に出さず、向かいに座っている紗雪に微笑んでみせた。


「うん……いや、なんでもないよ。そんなことより、私の芋餅の出来は?」

「うん! とってもおいしいよ。他のおかずも」


 紗雪は好物のじゃがバター風芋餅をもぐもぐと頬張っている。頬を僅かに膨らませ、軽く握った拳で、口元を上品に隠しながら。


 芋餅。ミニオムレツ。人参と大根の煮物。ポテトサラダ。煮魚。温野菜。温野菜はともかく、今日のおかずはめちゃめちゃだ。極めつけは、カレーピラフと、筍の炊き込みご飯。家の台所が無駄に広いのが仇になった。


 紗雪はじゃがいもが大好きで、芋餅とポテトサラダはやり過ぎだろうと言っても聞いてくれない。紗雪の数少ない、我儘な部分だ。でも、そんな子供っぽいところも嫌いじゃない。むしろ好きだ。


 私達はいつも、毎日交代で二人分弁当を作っている。今日は気分転換ということで、一人分を別々に作って半分こにした。その結果がこれだ。紗雪はどちらかというと洋食が好きで、私は和食が好きだったから、成る程弁当箱の中が混沌とするわけだ。


 ついさっきあんなことをしたというのに、私と紗雪は、ごくいつも通り、賑やかに、楽しく昼食を摂っていた。今、彼がこの世からいなくなったことを知っているのは、私だけ。何度経験しても、この感覚にはまだ、慣れていなかった。


 生物から命が消え失せ、ただの肉塊に成り下がる。

 死とは、どんな生物にとっても、逃れられぬ運命だ。それを、間近で体験したのだ。もっと、ショックを受けてもいいはず。それなのに。


 私は彼の最後の瞬間まで、あくまで平常心を保っていた。私の眼に映るのは、彼の死ではなく、彼の生命を吸って、蘇ってゆく美しい生き物。紗雪だけだ。


 端的に言えば、私は彼の死をなんとも思っていなかったのだ。なんとも思っていない自分自身に、ショックを受けていたという言い方もできるだろう。


 なんとも思っていないという点では、紗雪も私と同類だ。だが、紗雪と私には、決定的な違いがある。

 言ってしまおう。紗雪は、人殺しが大きな罪であると、理解できないのだ。頭というよりも、心で。


 普通の人間が持っているはずの、死への嫌悪。恐怖。そういったものが、欠如している。自分にされたくないことは、人にもしてはいけないという格言があるが、紗雪はその論理で抑制できる人間ではない。


 だから、血が見たい。そんな単純な理由で人を殺めることに、罪悪感を感じない。紗雪にとってそれは、罪ではないから。


 そのくせ、性格そのものはとても優しくて、どんな人間にだって手を差し伸べるし、なんだって許してしまう。紗雪の憎めないところだ。誰にでも好かれる理由でもある。だが。


 私の他に、紗雪の闇を知る人間はいない。

 紗雪の全てを知って、受け入れているのは私だけ。

 その事実が、たまらなく愛おしい。


 昼休みの五月蝿い教室の中。今日のお弁当は、一段と美味しかった。

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