#33
――冷たい夜を裂く怒号。雪に隠れた啜り泣き。
天ヶ崎には、今日も嘆きの雨が降る。凍てつき尖り、大地を突き刺す呪いの雫が。
水気を多く含んだ、重い雪に覆われた三角屋根。底冷えのする紫檀の床には、幼い黒髪の少女が無造作に転がっていた。大人の力で叩かれ、痛々しく切れた唇。その端から零れた血が、林檎色に腫れた右の頬を伝っている。扇形の厚い睫毛に縁取られた切れ長の目は涙を涸らし、黒々とした硝子玉のような瞳の奥には、ただ虚無だけが棲みついているようだった。
傍らに立つ長身の男は、憤怒と侮蔑に染まった視線で少女を見下ろしていた。薄い茶色の髪を逆立て、顔面に青筋を立てて。固く握った拳は少女のものとおぼしき血で汚れ、ぶるぶると震えている。吐き出す息は脂に汚れ、澱んだ空気に有害物質を放ち続けていた。
男は、家の外では皆に温厚に振る舞い、理想的な父親を演出していたが、一歩家に踏み入れた途端に豹変した。きっかけはなんでもいい。ちょっとした態度が気に入らなかったとか、足音が五月蝿かったとか。男はそんな些細なことに異様なまでに腹を立て、まだ年端もいかない少女を、酷く殴る。娘を殴ることで憂さを晴らす鬼。それが、この一家の主人だった。
「……あなた、いい加減にして頂戴」
おもむろに現れた女が、苛立たしげに溜息を吐いた。少女を一瞥することもなく、後頭部の低い位置で纏めた、男と同じ色の髪を弄り、甘い匂いのする煙草を片手で吹かしながら。彼女には少女を守ろうという意思などなく、ただ面倒ごとを避けたいだけ。彼女の頭にあるのは、男の行動が露呈したらただでは済まされないから、程々でやめさせねばという、保身の為の打算のみ。徹底的な無関心。女にとっては、少女がどうなるかよりも、愛用の煙草から散った火花で、カシミヤの高価なセーターに穴が空かないかの方が、遥かに重要だった。
妻と少女を見比べて舌打ちをすると、男は少女の襟首を荒々しく掴んだ。無抵抗の小さな身体が人形のように摘み上げられ、ガーゼのパジャマ生地がぴんと張る。男は裏口の扉を開け、狭く冷たい砂利道の上に少女を落とすと、そこで暫く反省していろと吐き捨てて、鍵を締めてしまった。女はそれを見てぶつくさ言うが、男は意に介さない。およそ愛し合った夫婦の会話とは思えない、憎まれ口の叩き合い。だが年月とは恐ろしいもので、そんな険悪なやりとりも、この家では既に日常だった。
やがて、二人が居間に戻り、廊下にしんとした空気が戻る。つかの間の静寂を破らぬよう、足音を消して現れた少女がひとり。黒髪の少女と揃いのパジャマを着て、亜麻色の長い髪を垂らした少女だった。
「陽葵ちゃん……」
色づいたばかりの蕾のような唇から零れるのは、姉の――黒髪の少女の名前。憂わしげに揺れる鳶色の瞳は、扉の向こうにいるはずの姉に向けられていた。こんな寒い日に外にいたら、風邪を引いて死んでしまうかもしれない。怪我もしているはずなのにあまりにも酷い、と。小さな胸は重石を乗せられたように軋んで、今にも潰れてしまいそうだった。
鈍く光る裏口の鍵に恐る恐る手を掛け、亜麻色の髪の少女は思案した。これを開いてしまったら、自分も怒られてしまうのではないだろうか。殴られてしまうのではないだろうか。姉を助けなければと思うのに、先ほどの父の剣幕を思い出すと足が竦み、床に貼り付いて微動だにしない。あの、汚らわしいものを見るような、一欠片の愛さえない恐ろしい眼差しを向けられたらと思うと、脳天が冷たくなり、喉がひとりでにひゅうっと鳴った。痛いほどに脈打つ心臓を必死に抑え、両親がこちらに来る気配がないのを確かめて、彼女はきゅっと唇を噛んだ。
滑らかな花弁に赤い蜜が差す。ゆっくりと染み入ってくる痛みに背中を押され、意を決して指先に力を込めると、金属製のツマミは案外すんなりと回り、カチャリ、と音を立てた。余計な音を立てないようそっとレバーを捻り、ほんの少しだけドアを開けると、綿雪の混じった真冬の風が吹き込んでくる。レースのついた白い靴下を濡らしながら、亜麻色の髪の少女――紗雪は、裏口の外の階段に降りていった。
漂白されたセメントでできた階段の下には、陽葵と呼ばれた少女が横たわっていた。剥き出しの手足は霜焼けを起こして睡蓮のように薄赤く、表情のない横顔は血の通わぬ雪像よりも生気がない。吹雪に紛れて消えてしまいそうな姉を見て、紗雪の眉が下がってゆく。 目には薄い膜が張って、今にも破れてしまいそうだった。
けれど、そうしてはいられない。瞼をぐっと持ち上げて涙を乾かし、小粒の真珠の如く皓い歯を食い縛って。か細い腕の下に手を入れて肩を貸し、やっとのことで立たせると、紗雪は励ますように呟いた。
「……陽葵ちゃん、いま、お家に入れてあげるから……だから、頑張って……」
「う……」
辛うじて意識を保っていた陽葵は、小さく呻いた。そして、紗雪を拒否するかのように、ゆるゆると首を横に振った。どうせ家に入ることは許されないのだから、いっそ放っておいてくれと言いたげに。喋る気力はもう残っていなかったらしく、声を出すことこそなかったが、その身体は糸が切れた操り人形のようにぐったりとして、陽葵より少し大きかった紗雪にとっても、ひどく重たかった。
紗雪の顔に焦りが走る。押し殺していた弱虫が生き返ってしまう前に、彼女は二の句を継いだ。
「ダメ、外にいたら死んじゃうよ……!だから、ね、もうちょっとだけ頑張って……!」
冷え切った身体を担ぎ直し、物音に気をつけて裏口の扉を開く。無意識のうちに泥棒のような忍び足になりながら、紗雪は陽葵を廊下に引き込んだ。子供部屋は二階だ。二人分の体重を支えるのには骨が折れたが、夢中で階段を登るうち、紗雪はいつのまにか、筆記体の白文字で自分の名前が書かれた、造花のついた可愛らしいネームプレートが下がった扉の前にいた。今ではこの扉を見ることまでもが心苦しい。うちに陽葵なんて名前の子はいない――暗にそう言われているようで。
扉を開けた先、純白のシーツが敷かれた子供用のベッドのひとつに、紗雪は陽葵を下ろした。寒くないよう、ふかふかの羽毛布団を爪先から首元までかけてやり、陽葵の頭を撫でる。絡まった黒髪を整えてやれば、出来過ぎた陶器人形のような端正な面立ちが露わになる。腫れてしまった肉の薄い頬をなぞると、痛かったのか、陽葵の美しい眉がピクリと動く。頬辺を伝う緋色を拭ったとき、紗雪の目から透明な雫が溢れ落ちた。
身体の力が抜け、絨毯に膝をついたと同時に、紗雪の喉は泣き出しそうにひりついた。陽葵は、自分が差し伸べた手すら払い除けようとするほどに憔悴してしまっている。自分には優しい両親が何故姉に辛く当たるのかはわからないけれど、愛する両親が愛する姉を痛めつけ、命さえ危うくさせていることが、とても、とても耐え難かったのだった。
そんな紗雪の心中を知ってか知らずか、陽葵のかさついた唇がぽつりと動いた。
――紗雪……ごめんね。
まっしろなシーツの上で、血に濡れた唇の赤さだけが際立つ。吸い寄せられるようにそれに口づけたとき、紗雪の心は決まった。
小さな手のひらに力が籠る。姉を助けられるのは私だけなのだから、私が自分の力でなんとかしなければならないと。何故私達を平等に扱わないのかを、両親に問い正し、改めさせねばならないと。そう決めたとき、まだ狭い背中はきりりと伸びて、瞳は磨き上げた虎目石のように強い光を宿していた。
「……陽葵ちゃん、待ってて。きっと、助けてあげるから」
そう言って陽葵の手を握ると、紗雪は子供部屋を後にした。両親は、話を聞いてくれるだろうか。いやきっと聞いてくれるだろう。たまにひどく叱ることはあっても、本当の家族なのだからと。だからこそ、居間へと続く扉に触れたとき耳にした台詞に、紗雪は凍りついた。
――何度も言っているだろう。陽葵は俺の子じゃないんだから、面倒を見てやる義理はない……本当は、お前ごと縁を切ってやりたいところだ。
氷のように冷たい――父の、声だった。