#31
もう、時間がない――
焦燥の滲んだ囁きが示唆する真実から目を背けるように、陽葵は自らの顳顬を指先で突きながら、何もない宙を見つめていた。俯いた白い頬に、濡羽色の短髪が流れる。切り揃えられた毛先からちらつく口元が、ふっと歪んだ。
「……医者には、治療は勧めないと言われてしまいました……こうして動けているのが、奇跡だとも。気づくのが遅すぎて、もう、打つ手がないんだそうです」
限りなく絶望的なことを言いながら、少女は笑っている。自己欺瞞なのか、心の底からどうでもいいのか。涙さえ流さなくなってしまった陽葵は、あてどない語りを続ける――まるで、何かを待っているように。
陽葵は不意に立ち上がると、壁に掛かった鳩時計を一瞥した。黒い長針が十二に届くまで、あと少し。鳩はまだ、鳴かない。
彼の正面の壁に寄りかかった黒い少女は、狩りのときを待つ鴉のように、機械仕掛けの巣箱に目を光らせている。あの箱から白い鳥が出てくるときはきっと、彼が喰われるとき。一定の速度で進むはずの秒針の動きが、彼には途轍もなく遅く感じられた。
「……思えば、前兆らしきものはあったんです。五年前、死にかけたときだって。冷静に考えてみれば、健常者があのような幻覚を見るはずがないんです。詰めが甘かった。まさか私に限って、そんなことはあるまいと油断していた……私の負け、です」
妖美な曲線を描く陽葵の唇。光の加減か、赤みを帯びた黒い瞳。暗闇に同化してゆく黒衣。彼は、彼女がどんな気持ちでここに立っているのかを知った。
陽葵にとって、死ぬことは負けではない。寧ろ、甘美なる誘惑ですらある。それでもこの世に留まっていたのは、ひとえに妹のため。何度もそう言っていたではないか。ならば、彼女は今――彼がその答えに至るより先に、乾いた笑いが水底のような空気に反響した。
「……でもね。私、嬉しいんです。ずっとしたかった……すべきだったことをする決意が、やっと、できるから」
唇から零れる皓い歯が、吸血鬼の牙の如く、鋭い輝きを放つ。この牙が、どれだけの血を吸ったのか、どれだけの命を奪ったのか。牙を持たない妹を守ってきた彼女、そのなかで創り出され研ぎ澄まされた刃に、彼は背筋が寒くなった。
「私達は人の命を吸って生きている。殺し続ける限り、私達は決して死なない。この五年間は平和過ぎて、そんな風に思っていたこともありました。でも、そんなことはなかった……永遠に生きる人間など、存在しないのですから」
再び牙を隠すと、陽葵は事も無げに言い放った。死にゆく少女は、生ける退廃。時が来れば潔く散り、速やかに朽ちて、後には何も残さない。その命が消える刹那はきっと、星の終焉のように美しいのだろう――彼女の妹が人の死を求める意味が、彼にもほんの少しだけわかってしまった。
「……私達は、とっくの昔に死んでいたんです。初めて人を殺めたそのときから、生ける死体になっていたんです……あれから六年。もう、潮時です。だから……」
陽葵はその先を言い澱み、口を噤んだ。残された妹が辿るのはきっと、飢えの苦しみに満ちた壮絶な最期。先立つ彼女が、そんな結末を良しとするわけもない。ならば、彼女が選べる未来は、ひとつだけ。
それが彼の頭に浮かんだとき、ガチャリ、と部屋のドアが開く音がした。話に集中していて、足音に気がつかなかったのか。咄嗟に向けた視線の先、入口に立つ白い少女を見た途端、雷撃に打たれたような衝撃が彼の身体を貫いた。
終の夜に舞い降りた光の天使。
美し、かった。
小さな顔のなかでひときわ目を惹く大きな瞳は、セピア色の潤む宝石。健康的な象牙色の肌は上気して色づき、淡い紅に発色している。柔らかそうな唇は鮮やかな血の色をして、隙間から漏れる吐息までが朱に染まるよう。高くカーブした額は広く賢げで、筋の通った小さな鼻は淑やかさを思わせる。彼は直感した。彼女こそ、双龍紗雪。陽葵が命を賭けて守ると誓った、双子の妹であると。
「陽葵ちゃん、お待たせ。ごめんね、準備に時間かかっちゃって。待った?」
「……ううん。大丈夫だよ、紗雪」
駆け寄る紗雪に、陽葵が軽く微笑んだ。皮肉でも愚弄でもない、混じり気のない慕情からくる表情の優しさに、彼は不覚にも胸を突かれる。至純の愛、だった。
そうして並ぶと、いかに二人が似ていないかが露わになる。どちらも整った容姿をしてはいるが、その質が全く違うのだ。花に喩えるならば、曼珠沙華と極楽百合。どちらも天上の花と呼ばれているが、彼岸花や地獄花とも呼称される曼珠沙華の妖しさは、陽葵が纏っているどこか近寄りがたい雰囲気に通ずるものがある。対照的に、永遠に萎むことのない不死の花とされる極楽百合は、紗雪の清らかさによく馴染む。
彼が寝惚けたことを考えている間にも、準備は進められていく。荷物を床に置き、外套を脱いで畳むと、紗雪はごそごそと鞄の中を探り始めた。緩やかに波打つ亜麻色の髪がゆらゆらと揺れると、表面にある天使の輪に小波が起き、花々の甘い香りが仄かに漂う。長い髪が垂れた先、抜けるように白い首は引き締まった線を描いて、なよやかな窪みをつくる華奢な鎖骨へと続く。ワンピースの襟刳から覗く膨らみは形良く盛り上がり、湯の詰まった水風船のように張っていた。
やがて、目的のものを見つけたのか、紗雪がすっと立ち上がった。その手に握られているのは――言わずと知れた、凶器。もとい、ナイフに滑り止めの布巾を巻いたもの。小さな手に不釣り合いなそれは、幽々たる光を受けてギラリと光った。
瞬間、白百合のような少女から放たれる、禍々しい雰囲気。それはまるで、血を吸い上げて乱れ咲く地獄の花のように。赤く穢れてゆく天国の花を、陽葵は黙然と見つめていた。
「……じゃあ、始めるね」
得物をひと振りすると、紗雪はお気に入りの玩具を前にした幼子のように、楽しげに笑った。自らを突き動かす欲望の悍ましさに気がついていないが故の無邪気さが、この上なく恐ろしかった。
「うん……さあ」
陽葵は儀式を執り行う神官のように恭しく首肯し、屠るべき彼へと、妹を導いた。そうして、紗雪を――純白の狂者を拘束する枷を、外した。
懺悔の罪人はもういない。いるのは、命を喰らう天使とその僕、拘束され身動きのとれない彼。
時が止まる。動いているのは、紗雪だけだった。
白刃が一閃、彼へと振り下ろされる。殴られたような衝撃の後、腹が燃え上がったような感覚が彼を襲う。直後、グチャッという嫌な音がして、腹の中がぐるりと掻き回された。突き立てられた刃が、無慈悲にも捻られたのだ。それが抜き放たれると、真紅のリボンと共に赤い飛沫が散る。落ちて転がる大粒の滴に、彼は尖晶石の輝きを見た。
直後、抉り取られた傷口の疼きに、彼は身悶えした。渾々と湧き出る血潮は熔岩のように熱いのに、すぐに冷めて重たい鉄錆に変わってしまう。冷えていく身体。末梢が締めつけられる感覚に、全身の皮膚から冷汗が噴き出した。ショックのためか痛みはない。彼を覆うのは、ただ十二月の寒気のみ。
壁に寄りかかっていたお陰で、正面にいる紗雪の姿が自然と彼の目に入る。彼女はそう……笑って、いた。彼女が花畑で遊ぶ子供なら、彼は、たまたまそこにいただけの虫けらなのだろう。興味本位で摘み上げられ、弄ばれ、死ねばゴミのように捨てられる。彼女にとって彼は――人間ではない。刺せば容易く壊れる、血の詰まった人形なのだ。
「あはははははっ……っあはは……」
悦を含んだ笑い声とともに、彼の身体に光の雨が降る。雨粒の軌跡は白い残光になって、腹を裂き、胸を刺した。何度も何度も、それこそ激しい秘め事のように。切り刻まれた皮膚と筋肉の下、殊更敏感な臓器に刃が達すると、彼の身体はビクンと動いた。悲鳴を上げる腸。肺をやられたせいか、息が止まりつつある。喉の奥から込み上げた鉄の味がする液体が、その呼吸を一層不自由なものにしていた。
ふと、振り仰いだ空。惨烈な宴に打ち上げられた花火が、紗雪の衣に咲いていた。鮮やかな赤は瞬く間に飛び火して、白日夢に似た景色を大火で包む。その渦中で微笑む少女は、畏ろしく美しかった。彼女に魅入られ、全て奪われてしまいたいと――彼は、そう、思った。
踊り狂う刃が、遂に心臓を穿つ。噴き出す血霧に目隠しをされて、彼の全てが赤に染まった。身体全体がどくどくと脈打つ。口のなかに残る鉄臭さも、もう気にならない。遅れてやってきた痛みですら、彼にとっては快感だった。
再び目を開いたとき彼の目に映ったのは、燃える瞳と喜色に溢れた唇。黒い靄に滲んだ赤、粘り気を帯びたどす黒い血の色。温かく甘い吐息に頬を撫でられて、彼は目を瞑った。
「ありがとう。とても、綺麗だったよ」
囁きと共に落とされるくちづけ。その瞬間、彼は果てた。
薄れる意識。消えゆく感覚。風に晒された遺灰のように身体が崩れていく錯覚に、彼の意識は沈んでいく。短くない時を生きてきたはずなのに、今際の際に彼の頭を過ぎったのは、会ったばかりの少女達のことだった。
紗雪は、陽葵は。二人は一体、どんな運命を辿るのか。
その真実は、死んでしまった彼には知る由もない。
これにて第一章完結です。