#30
――長い追想が、終わった。
愛する妹のこと、その病のこと。好いた人を、知人を、名も知らない他人を手にかけたこと。陽葵は洗いざらいを告白した。何故、何の目的があってそうしたのかは陽葵にしかわからないけれど、聞き流すことを許さぬ重みが、彼女が紡ぐ言葉ひとつひとつにはあった。
陽葵の人生。陽葵の罪。あくまで他人である彼には、黙って聞くことしかできない。けれど、陽葵の思いを知った今の彼には、中性的で硬質なその姿が、今にも崩れそうな雪像のように見えた。
「そう、あれは嘘でした」
ぽつり、と薄い唇から零れ落ちた呟きが、凍てついた空気に沁み渡っていく。陽葵は冷徹だ。その態度も行いも。それだけに、胸の内には燃えるような愛を秘めているのか。声そのものは氷のように冷ややかなのに、連ねられる言葉の節々には、隠し切れない熱情の余韻が残っていた。
「……疲れましたね。少々、話し込みすぎましたか。もう五年も前のことです。ところどころ記憶があやふやですが、今お話した内容には、間違いはないと思います」
話を仕切り直すように彼から視線を逸らし、陽葵が深い溜息を吐く。なにかを堪えるように、細く、墨で描いたように黒々とした眉を顰めて。押し殺した呻きとともに瞼が落ちると、その睫毛は黒壇の扇のように伏せられ、蒼白い肌に影が差した。
「あの後、私は事情聴取を受けました。一言も喋れなくて、筆談でしたけど。紗雪はいつもの通り、うまく切り抜けたようです」
まあ、家を出た後に起こった火事のことなんか、わからなくて当然なんですけどね、と嘯く陽葵。薄明かりに照らされたその笑みは、嘲りと蔑みを含んでなお、美しさを失わない。彼女はまさに惡の華。虚構で塗り固めた白には、黒い微笑がよく映える。
「警察がどの程度捜査したのか、詳しくは知りませんが、どうやらあの件は迷宮入りしたようです。まともに報道されることもないまま、彼らの死は忘れ去られました。私達は容疑者として槍玉にあげられることもなく、親類や近所の人々の憐憫を集めただけ……全ては丸く収まりました。不気味なほどに。ふふっ、笑っちゃいますよね」
唇の端を吊り上げながら、陽葵は饒舌に語った。先程の告白とは一転、息を継ぐ間も惜しがっているように聞こえるほど、愉快そうな口ぶりで。妹の紗雪のように、かつて誓ったとおりに、陽葵もまた狂ってしまったのだろうか。リスクを潜り抜ける快感に罪を忘れるのは、所謂サイコパスの典型だ――そう思ったところで、彼は陽葵の双眼に釘付けになった。
陽葵はそう、泣いていた。唇に張り付けた笑みは、仮面のように揺るがないけれど。黒鳶の瞳から流れた雫が床に落ちて散るのを、彼は確かに見た。何故泣いている? その答えはきっと――彼女が狂えなかったから、妹と同じになれなかったから、だ。安らかに生きるためには、狂わねばならなかったのに。
狂いたいのに、狂えない。その根底にあるのはきっと、陽葵が一切語らなかった、陽葵本人でさえ気がついていないかもしれない最後の箍――完全に正気を捨て、人間として壊れることへの拒絶。陽葵の心は、今にもそのアンビバレンスに押し潰されそうなのだ。
陽葵は語る。偽りの狂気を纏うために。自分は狂っていると、彼に認めさせるために。それを悟ってしまった彼の頭には、陽葵が喋っていることのことの半分も入らない。今の彼が感じているのは、ただ陽葵への哀れみと――後ろ手に縛られた腕、些かの余裕もなく拘束された両脚にビニール紐が食い込む鈍い痛みと、口にガムテープが貼られていることによる息苦しさだけだった。
「ああでも、捜査に当たっていた刑事の一部は、それに納得しなかったようです。事後数ヶ月、まぁ色々と付き纏われました。あの煩わしさと言ったら、死体に集る蝿のようでした。結局なんの成果も上げられず、一人二人と減っていきましたけどね。
事件後は親戚に引き取られて、今はアルバイトをしながら、近所の大学に通っています。相変わらず、紗雪と二人暮しです……ふふ、あの頃とあまり変わりません。
さて、ここまで言えばもうおわかりですよね……私が、あなたをどうするつもりか」
静かに頬を濡らしながら、陽葵は続けた。そうして、自らに狂気を刷り込もうとしている。一方の彼は、胸を焼かれるような気持ちがして、グッと歯を食い縛った。彼女の語りから導かれる彼の運命は――ひとつしかない。
彼の焦りは、当然予測の範囲内だったろう。陽葵は一歩前に出ると、壁に寄りかかったままの彼を見下ろし、能面よろしく表情を消した。その瞳に宿っていた僅かな光がふっと消え去り、死んだ魚のような虚ろな眼差しが彼の目を真っ直ぐに捉える。底無しの闇が広がっていた。
「ええ、そうです。殺しますとも。腹を掻っ捌いて、心臓を貫いて、息の根を止めるんです。六年もやっていれば、そろそろ慣れてきます。最近は、豚や牛の屠殺と何が違うんだ、なんて思ったりもします……いえ、違うことはちゃんとわかってますよ。だって、動物を殺しているわけじゃありませんから……紗雪は、人間の死にしか興味がないんです」
陽葵は諦めを含んだ声でそう言うと、散りゆく黒薔薇のように、吹けば飛びそうな笑顔を浮かべた。そして、彼のすぐ目の前に、倒れるように屈み込んだ。事実、倒れかけたのかもしれない。陽葵が木製のフローリングに膝をついたとき、骨肉と床材とがぶつかり合うくぐもった音がした。
床についた陽葵の手は薄くなだらかで、血の通わない石膏像に似ている。その先端にある爪は端正に生え揃い、自然な光沢を放っている。一度剥がれたことなど、言われてもわからないほどだった。
いつの間にか、病的に白い陽葵の肌には幾筋もの汗が伝っていた。今日は十二月の二十四日、紛う方なき真冬だ。部屋は空調が効いて温かいとはいえ、汗でびしょ濡れになるほど暑いわけはない。陽葵がポケットから白いハンカチを取り出して汗を拭い、肩で息をしながら忌々しげに目を細める。その奥の瞳孔がひどく揺れているのが、彼には奇妙に感じられた。
荒い呼吸に、定まらない視線。陽葵の様子が、おかしい。
「ふ……ああ、痛い。いえね。五年前のあの日からずっと、頭痛が酷くて。それに、頭も変になりかけてるみたいなんです。道行く人の顔が母に見えたり、するわけもないガラムの匂いで咳き込んだり、いきなり眩暈がして倒れたり……ふふふ、これも、天罰なのですかね……」
ゆらりと立ち上がった痩躯が、よろめきながら彼から離れる。すぐ横にある彼のベッドに腰掛けると、俯いて胸を押さえた。シャツの襟から覗く細い首筋が汗で光って、なんとも艶かしい。忙しない喘ぎが狭い部屋に響き、苦しげな姿に切れば血が出るような生々しさを与えていた。
息を整えること暫く。発作のような息切れが治まると、陽葵はもう一度汗を拭い、顔を上げ、再び口を開いた。色素の薄い凛とした唇が、小刻みに震える。数秒の逡巡の後、陽葵はぽつりと呟いた。
「……私にはもう、時間がないんです」
切れかけた白い蛍光灯が、彼の正面、カーテンの隙間から垣間見えるシリウスのように瞬く。闇に、光に。繰り返される点滅の下で、彼は彼女の横顔に死の影を見た。
あと数話で第二章に突入します。