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Snow White Lunatic  作者: 天童美智佳
Chapter I
3/33

#3

 初めは、妹が何をしているのか理解できなかった。

 あたり一面に散った赤い飛沫。腹のあたりに大きな染みができた、冬用の真っ白なワンピース。池に手を突っ込みでもしたかのようにぐっしょりと濡れたレースの袖。リボンのついた黒革のパンプスは濡れててらてらと光り、なんとも不吉な薫りを放っていた。


「あ……陽葵ちゃん」


 紗雪は頬に張り付いた赤色を手の甲で拭うと、膝立ちのままそう言って、明るくふんわりと微笑んだ。白く輝く息を吐きながら、まるで朝の挨拶でもしているかのように何気なく、自然に。だが。


 その小さな手に握られているものが何なのかを理解するのに、酷く時間がかかってしまう。あれは何だ? ただの棒切れではないのか? 何故あんなにも赤いんだ? 目の前の光景を受け入れさえすれば容易に答えが出るはずなのに、受け入れたくない。雪のように白い肌に散る真紅に目を奪われ、一瞬にして永遠を体験したかのように、頭の中が飽和していた。


「さ、紗雪……」


 何をしているの、とは訊けなかった。目の前に転がるものがなんなのかわかってしまった今、それはあまりに明らかだ。


 見覚えのない若い男性。紗雪を染めている赤の主は、彼以外に考えられない。どうして、どうしてこんなこと。そう訊きたくて仕方がないのに、まるで太い糸で縫いつけられたかのように、口が動かない。唇から熱い息が漏れ、声にならない吃音が、寂れた廃工場に(こだま)した。


「ごめんね……でも」


 両手を軽く合わせ、眉を下げる紗雪。次の瞬間には、目の前の人間にさらなる一撃を与えるべく、握りしめた刃物をもう一度、振りかざしていた。埃っぽく淀んだ空気を切り裂いて閃く、銀色。それは明らかな殺意をもって弓張の弧を描き、彗星のように赤い尾を引いていた。


「やめっ……!」


 咄嗟に、その手を押さえる。こうなった経緯はわからない、それでも、見過ごすわけにはいかない。


 妹が、人を殺そうとしているなんて。


 手首を捻り上げれば、凶器は容易く床に転げ落ちる。カラン、と音を立てたカッターは、赤黒い液体でべったりと濡れていた。手にした瞬間ぬるつくそれを、落とさないように素早く拾い上げ、赤く染まった少女に正対する。そして、私は漸く認めたのだった。


 紗雪を、この場所を、私を汚すもの。それは、人間の血だと。


 否が応でも感じてしまう嫌悪感を頭の隅に追いやり、口を縛り付ける糸を断ち切って、私は目の前の少女に問いかけた。


「紗雪……なぜ? どうしてこんなこと……」


 怪我人の安否を確かめるのが先決のはずなのに、そんな疑問が口をついて出てしまう。こんこんと湧き出る、血の泉。その源になっている彼の命の灯火は、おそらく消えかけてしまっている。事実として認識したくないことから僅かばかりでも逃れたいという、愚かな願望が言わせた問いだった。


 誰からも愛され、満ち足りているはずの彼女が、こんな行動に出る理由。想像もつかないそれが明かされるのを、私は固唾を呑んで待ち続けた。


「だって……あかいのが、みたいんだもん。あったかくて、きれいな、あかいもの」


 紗雪はそう言うと、血に染まった自らの指先をうっとりと眺め、無邪気に笑った。それがおかしなことだなんて、微塵もわかっていないような顔で。


 同時に充満する、この世のものとは思えない空気。紗雪が醸し出すそれは純然たる狂気を強く匂わせ、炎のように私の肌を焼く。反射的に出た言葉は、およそ理性的とは言いがたいものだった。


「なっ……なに、それ。今までそんなこと、一度も……」


 温かくて綺麗な、赤いものが見たい?

 意味がわからない。


「うん。今まで、頑張って、我慢してきたんだ……でもっ……」


 ついさっきまでなんともなかったのに、紗雪の息が上がり、肌が色を失っていく。唇が紫に変色し、瞳からは光が消える。生気が急速に失われていくその様は、満開の椿がまるごと落ちてしまうかのように劇的な変化だった。


 持病の喘息の発作が起こったのか、細い身体がよろめき、コンクリートの床に叩きつけられる。聞こえてくるのは、弱風が僅かな隙間を必死に通り抜けようとしているような、苦しげで忙しない呼吸。大変だ。最近滅多に起こらなくなっていたから、油断していた。紗雪の体調に気を遣うのは私の使命だというのに、なんたる不覚。早く、楽にしてあげなければ。


「紗雪、落ち着いて! ゆっくり息をして!」


 カッターも怪我人も放り出して、私は紗雪の救護に走った。硬い床に座り込んで紗雪の上半身を膝の上に乗せると、持っていた鞄の中を漁り、常に持ち歩いているサルタなんとかという吸入薬を出して咥えさせ、呼吸のペースに合わせてボンベを押し込み、吸わせようとした。シュッという音がして、確実にガスが噴射された。紗雪は確かに、それを吸い込んだ。それなのに。

 紗雪の発作が治る様子は、ない。


「効かない……どうして……?」


 耳元でガスボンベを軽く振ってみる。中身はある。昔はよく手伝っていたのだ、噴射するタイミングもばっちり合っていたはず。それでも、効かない。なら、心因性ハイパーベンチレーションか? それの対処法は知ってはいるが、やったことはない。万一、誤って紗雪を窒息死させてしまったら。そう思うと手が鉛のように重たくなって、動かせない。


 そうしている間にも、リボンで編み上げた胸元は激しく上下している。紗雪の青白い手が鼻先を掠め、冷え切った私の頬に紅を差した。私を見上げる鳶色の双眸は、輝きを失いながらも気遣わしげに揺れている。頬に添えられた手を包み込むと、石のような冷たさに驚きを禁じ得なかった。

 一体、どうすれば良いというのだ? 正直焦っていた。それに追い討ちをかけるように、紗雪の儚い囁きが私の鼓膜を震わせる。


「ダメ……きかないの、それ。他の薬も……でも、いっぱいあかいのみたら、なおるから……」


 息も絶え絶えに紗雪が求めるのは、大量の……血。

 喘息だか過呼吸だかの発作止めがそんなものだなんてあり得ないし、納得できるわけもない。でも。


 それでしか紗雪を救えないのならば。


 さっきまでやめさせようと思っていたのに、簡単に心が揺れてしまう。


「今までは、ほんの、ちょっとで平気だったんだけど……はは……」


 その言葉に、視線が無意識に、紗雪の血塗れの指に向かう。近頃、紙で切っただの料理中に怪我しただのと言って、矢鱈に絆創膏を貼っていたが、まさか。


「もしかしてこれ、自分で……?」

「……」


 その沈黙は、肯定を表していた。

 脳を貫く、衝撃。なんということだ。血液が見たいがために、自傷行為に走るなんて。


 辛かっただろうに、私にも両親にも打ち明けられず、たった一人で、こんなになるまで追い詰められて。私が一番近くにいたのに、気がついてあげられなかった。助けてあげられなかった。もっと早く気がついていれば、精神的、医学的な治療の施しようもあったかもしれないのに。もう、手遅れなのか。

 薄紫に褪せた唇からたなびく白煙は、温もりを失っていく。


「陽葵ちゃん……困らせて、ごめんね。苦しませて、ごめんね。ずっと……ごめんなさい」

「紗雪……!」


 私を憂う途切れ途切れの囁きは、淡雪のように溶けて一縷の涙になる。冷えきった薄い身体を抱き締め、服に染み込む血の生臭さと冷たさを感じながら、私は自らの無力さに唇を噛んだ。粘膜を突き刺す痛みと舌に沁みる潮の味に、生命を感じた。


 シャツの袖口で乱暴に目の周りを拭い、チラリ、と怪我人の状態を確認する。胸と脇腹、首に切り傷。まだ生きてはいるが、首の急所をやられているため、既に出血多量だ。放っておけば数分のうちに死ぬだろう。


 対する紗雪も、発作を止められなかったら、呼吸困難で死んでしまうかもしれない。吸入薬は効かなかったし、何度も使うと、心臓に負担がかかってかえってよくない。私は医者ではない。むやみに医療行為をすれば、紗雪を危険に晒す。


 どちらか一人しか救えない。救急車を呼ぶという手もあるが、間に合わなかったときのことを考えると、呼ぶ気になれない。その場合は、二人とも助からないのだ。私が紗雪に殺されたら、怪我人を救護する人間がいなくなって紗雪しか生き残れなくなるから、本末転倒だ。紗雪と怪我人、どちらを生かすかの裁量は、私に委ねられてしまった。


 そんな重い責任、本当は背負いたくなどない。どちらを救っても、一生、どちらかの影に悩まされることになるのだから。でも。

 紗雪はかつて、私を救ってくれた。

 ならば、何を迷うことがあろうか。


「紗雪……はい」


 紗雪を助け起こし、傷だらけの華奢な指に、もう一度カッターナイフを握らせる。滑って落とさないように、持ち手の窪みに指がぴったり入り込むよう、細心の注意を払って。頼りない握力を補うために自らの手を上から添えると、その冷たさに胸が痛んだ。


 温かい血に濡れた、小さな手。そこに温もりが戻ること、ただそれだけを願って。


「……私は、誰か来ないか見張ってるから……あったかくてきれいなあかいもの……好きなだけ、見ていいよ」


 紗雪が人を殺すのを傍観するのではなく。私の意思で、紗雪に凶器を与え。紗雪と共に、罪を背負う。

 それが、私の選択だった。

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