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Snow White Lunatic  作者: 天童美智佳
Chapter III
29/33

#29

 目の前にいる黒服達は、この病室のなかでは明らかに『異物』だった。


 首筋を過る微風は重たく、身体を包み込む空気は零下の冷たさ。暖房が効いて暑かったはずの病室は、この一瞬で氷室と化していた。


 募る緊張。彼らと私との間を横切る見えない糸は張り詰め、触れればこちらが傷つくのではないかとさえ思ってしまう。一定以上の速度でピアノ線にぶつかると、人体でも切れるとか切れないとか。もしくはレーザービームか。それと似たようなものだ。


 だが、彼らにとってこの糸は、テープカットのリボンくらいの強度しかないようだった。彼らの放つ殺気にも近い気迫は、使い込まれた鉈のように重たくも鋭い。糸が断たれる瞬間、激しい鼓動を胸に感じながら、私はごくりと唾を飲み込んだ。


 ぶつりと切断され、張力に任せて水平に飛んでいく鋼の糸。拘束から解放された彼らの色は、水に垂らした墨汁のように広がり、宙を揺蕩う海月と化す。半透明に薄まった黒は白と溶け合い、灰色の混沌へと変わっていった。


 輪郭を失った境界――曖昧に揺らぐ中間領域(グレーゾーン)を踏み越えて。数人の中でも一際顔色の悪い、四十五歳ほどに見える長身の男が、私の横に来て会釈をした。白髪交じりの髪をきっちりと撫でつけ、ワイシャツに黒のスーツを合わせて、いかにも堅物そうな外見。彼は見た目の印象から想像されるより滑らかな仕草で、コートの内ポケットから取り出した黒っぽい茶色の手帳をかざした。


 二つ折りの革の中から現れたのは、言わずと知れた金色のバッジと、目の前にいる男の顔写真。写真の中の土気色が、どぎついブルーの背景から浮いて見える。写真の下には、『緒方正彦』と名前が印刷してあった。


 やはり警察だったか、と、予感の的中をあらわにするわけもなく。私はただ黙って、相手の顔を見つめていた。絶対に退けないこの窮状は、どう転んでいくのか。突きつけられる現実の全てを受け入れる、その覚悟を石のように積み上げ、仮初めの城塞を築きながら。


 そんな私の虚勢を、見透かしたのだろうか。緒方正彦は鷹揚な仕草で警察手帳を仕舞うと、もう一歩私達に寄り、細かい縦皺の入った肌色の唇を開いた。


「……双龍陽葵さん、そして紗雪さん。県警捜査一係の緒方です。通報があったため参りました」


 地鳴りの如く低い男の声に、白熱した胸がさっと冷える。心臓を握られたような、肺を潰されたような。まだ紗雪と一緒にいるのに、怯えて動けなくなってしまう自分が情けない。まるで、蛇に睨まれた蛙だ。


 だが、蛙なら蛙なりに、できることをするだけ。声を出すことがままならなかった私は、背中を曲げて一礼した。国家権力には逆らえないのだから、無駄に歯向かうことはせず、何も知らないフリをしていればいいのだと。


 私の意を汲み取ったのか、それとも覚悟していたのか。紗雪がそっと私の手を放し、礼儀正しく頭を垂れる。花蕾のように結ばれた口元と、スッと上向きの睫毛。その横顔はいつになく凛として、あまり動揺が窺えなかったのに少し驚いた。


「通報では、陽葵さんが薬物を使用した疑いがある……と。それと、残念なお知らせなのですが……」


 緒方正彦はふぅと息を吐くと、勿体ぶって言葉を切った。萎びた風貌のなかで一際ぎらつく、老獪な瞳。無遠慮な視線に首の包帯を舐められて、肌が泡立つのを感じた。


 まあいい。さて、残念なお知らせの内容はわかりきっている。問題は程度だけだ。全焼か半焼か。両親はどんな状態で発見されたか。早く聞きたいような、聞きたくないような。相反する気持ちと焦燥を抱えていた私に、そのときが訪れた。


「お宅が全焼したそうです。在宅なさっていたご両親は巻き添えに……残念ながら、お二人とも……」


 緒方正彦の声が鼓膜を震わせた瞬間。心を覆っていた氷に罅が入り、パキリと割れて――なかから何かが零れ落ちた。はじめ静かに滴っていたそれは勢いを増して瀑布となり、舞い散る飛沫は冷たい欠片を赤く染める。何を、何故失っているのかもわからないまま、私はひとつめの勝利を受け止めた。


 これでいい。両親は、死んだ。家も、燃えた。狙い通りに。そんな声なき声が、脳を直接揺さぶってくる。視界のブレを瞬きで抑えながら浅く息を吸うと、ひゅう、と溺れかけた人間の息継ぎに似た呼吸音が喉の奥で鳴る。おかしい。これでいいはずなのに、ホッとしてもいいはずなのに。胸の奥に巣食う何かが、肺に溜まった水のようにそれを阻んでいた。


 殺伐とした静けさを(つんざ)く、私にしか聞こえない轟音。耳元で鳴り響くのは天使のラッパではなく、悪魔の喝采。また一つ、悪事を成し遂げた私に贈られる称賛。止むことを知らないその音は鼓膜の内側で唸り、やがて新たな呪詛となる。


 異言語にも聞こえる音の羅列に聴神経が侵され、針金を捻じ込まれたように鼓膜の奥が痛む。知らぬ間に現れた白い蛇に首を絞められ、眼球が破裂しそうなほどに眼圧が高まっていた。閉じかけた瞼の隙間から見えた、小さな頭。その側面に煌めくふたつの柘榴石(ガーネット)は血のように赤く、真っ直ぐに私を睨んでいた。


 これが幻想だということは重々承知だ。問題は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということだ。


 何故、見ているのか。この状況でそれを考えている暇はない。では、何を意味するのかは? それには気づかざるを得ない。警察から両親の死を聞かされてこんな状態に陥った――それが意味するところはひとつ。


 そう、理由はわからないけれど――私の身体は、私の心は、作戦の成功を喜んではいなかった。その事実を前に失ったものの重みを自覚し、滝に打たれたような衝撃に頭蓋を襲われる。頭骨を砕かれ、無残に脳漿を垂れ流す幻覚に苛まれながらも、私は考えることを選んだ。くだらないことにショックを受けている場合ではない、今は警察とのやりとりに集中しなければ、と。


 だが眼前の景色は、ガラス一枚を挟んだ向こう、水槽の外の世界にあるようで。なす術なく赤い水に溺れた私は、(もが)くこともできないまま混乱のさなかに置き去りにされていた。


「出火原因については現在調査中です……そのことについても、二、三伺いたいことが。ですが……陽葵さんは入院中ということで。ご同行いただくことは叶いませんね」


 様子がおかしい私を不審に思ったのか、緒方正彦はピクリと眉を上げ、でも先程と変わらない調子で続けた。怪しいことは後できっちり調べればいい。この状況で逃げられるわけはないのだから。とでも言いたげな余裕を感じさせる、慣れた態度だった。


 続く言葉は、勿論予測の範囲内。私の全てをあっさりと攫っていく、無慈悲な台詞。


「ですが、紗雪さんは別です。二、三伺いたいことがありますので、署までご同行を」

「……はい」


 紗雪がすっくと立ち上がり、私に背を向け、刑事たちのほうに一歩踏み出す。淀む空気のなか、ひらりと揺れるワンピースの白が、白薔薇模様のレースが、散り急ぐ花のように私の眼に焼きついた。


 ああ、紗雪が行ってしまう。もう、一生会えないかもしれない。


 そう思ったとき、シャーという独特の威嚇音と共に、輝く鱗に覆われた首環が一層きつくなった気がした。いつの間にやら氷嚢を当てたように脳天が冷え、指は氷柱の如く固まって、ピクリとも動かせない。遠のく意識を辛うじて繋ぎ止めながら息を吸うと、冷気のレイピアが喉頭をつついた。


「……さ……」


 痛みの波に抗い、消え入りそうな無声音を発して、私はその背に手を伸ばした――すると。


「大丈夫だよ、陽葵ちゃん。また、会えるよ」


 くるりと振り返って、柔らかな桃色を私の頰に押し付けて。可憐に微笑み、紗雪は私の頭を撫で下ろした。髪を梳く繊細な指先が首筋に辿り着くと、白化個体(アルビノ)の蛇はガーゼの帯に変わる。まるで魔法が解かれたかのような、一瞬の出来事だった。


 そして――紗雪は、荷物置きの上に置いていたコートとポシェットを抱えると、数人のうちの一人に連れられて病室から出て行ってしまった。その後ろ姿は、ふらっと散歩にでも行こうとしているときと何も変わらなくて。すぐに帰ってくると言いたげなほど、安穏に脱力していて。私はもう、手を出せなかった。


 白い残像に目を瞬きながら、考えを巡らせる。紗雪には、不安など微塵も無いのか。心から、未来を信じているのか。この状況であのゆとり。正気の沙汰ではない。そう思うと同時に、私は自らがかけた呪いの強さを思い知った。紗雪は私の言葉を、()()()信じている。刷り込みを受けた雛鳥のように、他の全部を捻じ曲げてまでも。何故か? 問うまでもないことだ。


 笑える――半身を前屈みに倒して、私は顎に力を込めた。腹の底が擽られるような感覚に、こみ上げる痙攣を喉で受け止めると、包帯の下がずきりと痛む。傷ついた皮膚と筋肉の反抗だった。


「くくっ……」


 堪えきれず、私は食いしばった歯の隙間から奇妙な忍笑いを漏らした。肩の震えも身体の強張りも、全く制御できない。傍から見れば、追い詰められて発狂したと思われてもおかしくない醜態だ。数人の視線が肌に突き刺さるのを感じるけれど、不思議ともう怖くない。私には、紗雪がいる――その想いが、私に前を向くことを選ばせた。


 口元を押さえて顔を上げると、刑事たちはやはり、不審なものを見るような目で私を凝視し、殺気を膨らませていた。そんなに警戒しなくても、私はただの中学生だというのに。そう思うとやがて、荒れ狂っていた内海はにわかに鎮まり、赤い水面は静謐な輝きを見せた。嘲笑を無表情の裏に隠すと、私は両手を太腿の上に置いて頷き、彼らに従う素振りを見せた。


 これから、乗り越えなければならないことがたくさんあるだろう。薬物の件で検査を受けたり、家が燃えた件で取り調べを受けたり。乗り越えるのはきっと、容易ではない。だからこそ、ここにはいない紗雪に宛てて、私はひとり呟いた。


 ――私も、紗雪を信じるよ。


 いつか、紗雪が望むように狂ってみせる。それが、私の使命なのだから。黒い塊に囲まれるのを感じながら、私は静かに目を瞑った。



 ――以上が、十四歳の私にできた全て。何も知らない子供だった私が吐いた、小さな嘘だった。

作者の都合により、執筆ペースが落ちております。もう暫くお待ちください。

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