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Snow White Lunatic  作者: 天童美智佳
Chapter III
28/33

#28

 数分か、数十分かの時間が経った後。


 やっと泣き止んだ私は包帯で目元を拭い、薄目を開けた。虚脱に任せて両手を重力に委ねると、ぱさりという音と共に、白いシーツがくしゃりと波立つ。乾燥し薄くなり始めた幾つもの丸い染みは、過ぎ去った激情の名残のようだった。


 決壊していた涙腺が塞がり、潮が引くように感情が鎮まると、現在の状況の危うさが途端に浮き彫りになる。背後から何かが忍び寄ってくる、その足音だけが聞こえるような、得体の知れない切迫感。そう、私は私の危機を乗り越えたけれど、まだ一つ、大仕事が残っているのだ。


 両親の件について、警察を欺き、疑惑から逃れる。これは私達にとって未曾有の試練であり、そう簡単に突破できるようなものではないと思う。私が錯乱したことは警察にとって重要な手掛かりになるだろうし、薬物か何かの使用を疑われて、既に通報されている可能性もある。


 私の身に降りかかった異常と、双龍家に起こった事件とを結びつける仮説を立てることは容易だ。たとえば、覚醒剤など何らかの薬物の使用により我を失った状態で両親を殺害し、証拠隠滅のため自宅に放火。その後パニックを起こし、自傷ののち失神、など。なんだかありそうな話だ。人を殺めなければ生きていけない人間が、存在する。そんな悪い冗談のような事実より、よっぽど現実味がある。


 もしそうだったなら、どんなに楽だろう。死刑でも終身刑でも構わない。紗雪を健康にさえしてくれれば……と、いつもの思考に陥りそうになったところで、私はその考えを振り払った。


 私がいなければ、紗雪は幸せになれないという。ならば、この心に染み付いた自己犠牲も、徐々に消していかねばなるまい。一朝一夕にできることではないし、正しいことなのかは判断しかねるけれど。いや、正常な人間にとっては当たり前のことか。私が異常だというだけで。


 思えば、私はこの世界において、ひどく異質な存在だったと思う。集団からは常に疎外されていたし、入りたいとも思っていない。本当に解り合える人間はおそらく存在しないし、見つけようという気もない。他人と混ざり合うことなく放浪を続ける私はきっと、誰よりも世界について無知なのだと思う。好奇心が無いわけではないが、それは専ら学問や芸術、知識などに向けられるものであって、人間に向けるようなものではなかった。自分以外の人間がいる世界、それは殻に籠りがちな私にとって、異世界も同然なのだ。


 私はその意味で、迷い込んでしまった異世界を右往左往し、目眩(めくるめ)く出来事に翻弄されていく迷子(アリス)なのかもしれない。とすれば、彼女が追いかけていた白兎は、私にとっての『紗雪』。追いかければ追いかけるほどに、捕らえることのできない対象a――欲望の原因としての対象なのだ。


 ここで言う『紗雪』とはおそらく、『紗雪と共に平和に生きる幸せを手に入れた』、仮想的な私自身のこと。紗雪がいなければ『紗雪』は存在し得ないという意味では、この二人を切り離して考えるのは難しい。私という個人から見れば、不可分と言っても良いだろう。けれど、存在を感じるのに触れられない、という点では、『紗雪』の方が対象aにより近いのだと思う。精神分析学の解釈として正しいのかは、よくわからないけれど。


 なにやら混乱してきた思考の中で、複雑に絡み合う因果を丁寧に解く。すると、蜘蛛の糸を織ったように細く繊細でかつ丈夫なそれは、一つの輪になっていた。帯に刻まれた暗号を解読すると、黒い文字列が網膜を踊る。薄々気がついていた、でも認めようとしなかった。そんな客観的事実が、そこには記されていた。


 そう。私が求めていた幸せを与えてくれたのは紗雪で、その幸せを奪ったのも紗雪で。

 愚かな私は、記憶の中にある『幸せな私』の破片を手放したくないがために紗雪を繋ぎ留め、罪を重ねて。

 罪を犯した人間に幸せなど訪れないとわかっているのに止められなくて、堕ちて、堕ちて。

 耐え切れなくて潰れそうになればなるほど、まるでカンフル剤のように、儚い幸せを求めて。

 なんて不毛な輪廻。表と裏、光と闇が混在する私の道は、そんなメビウスの輪の上にあるのだ。


 全ては、この輪を創り出した瞬間。帯と帯の端を繋げようとして、誤って半分捻れた状態のまま貼り合わせてしまったときに、始まった。それは誰の仕業なのか。既に死んだ両親か、歪な本性を持って生まれた私か、何も知らない紗雪か。きっと、単純に断じることができるようなものではないのだと思う。


 だから。私はもう、全ての(わざわい)の原因を自分に求めるのはやめる。そして、『紗雪』を欲することもやめて、紗雪を守ることに徹する。欲しがっているうちは、決して手に入らない――それが、対象aというものだから。


 一連の思索に結論を出すと、私は目を閉じ、いつの間にか聞こえていた規則的な音に耳を澄ました。病院の構造など知らなくても、大体の距離と方向を掴むことは可能だ。靴底が床を叩く硬い音は、確かにこちらに向かっている。しかも、複数人。


 もう数十秒で、この病室に何かが侵入してくるだろう。警察か、医者か、看護師か。私は容疑者か、ただの患者か。拘束されたり、尋問されたりはするのか。わからないことばかりだ。一つわかるのは、この白い箱庭はまもなく崩壊し、私達は引き離されるであろうということ。再び会うことができるかどうかは、殆ど運次第。いや、はっきり言って絶望的だ。


 しかし、こうも思ってしまう。純然たる運の勝負ならば、私に分があるのではないか、と。神と交わした勝負の決着はまだついていないが、今までの悪運を信じるならば、私はきっと、()()()()()()。論理の欠片もない、ただの希望的観測だが。


 故に。たとえどんな結末が待っているとしても、最後まで諦めない。そう心に誓って、私は猫背のせいで痛み始めた背筋を伸ばし、紗雪に目配せをした。扉の向こうにいる何者かの存在を知らせ、注意を促すために。


 私の意図を悟ったのか、紗雪が私の右手を握り、深くゆっくりと頷いた。先ほどまで揺るぎない意志を感じさせていた瞳を不安の色に染め、怯えた仔兎のように肩を小さく震わせて。


 右手に感じる僅かな痛み。それすらもが只、愛しい。包帯越しに感じる手の熱さと力強さを胸に刻み、私は声の代わりに眼差しを、抱く腕の代わりに握る指を返した。残された僅かな時間の中で、あげられるものはそれだけだったから。


 ――大丈夫。必ず、また会える。


 強く念じながら、固く信じながら。扉の外にいるものを受け入れるべく、深呼吸を一つする。脳に酸素を送り込んで瞬きを数回するうち、散らかっていた私の心の中は整理され、綺麗に片付いていた。散乱していた思い達はあるべきところへ戻り、あちこちに転がっていた利己心は屑籠に捨てられ、紗雪への愛だけが棚の上に飾られて。あとは紗雪の緊張さえ解してあげれば、招かれざる客を受け入れる準備は完璧に整う。最後の仕上げをするべく、私は紗雪と目を合わせて、静かに微笑んだ。


 私の心が通じたのか、強張っていた紗雪の表情が解け、いつもの柔和な微笑が浮かんだとき――病室の引き戸が勢いよく左にずれ、黒い塊が突入してきた。


 白い部屋の中に現れた、分厚い外套に身を包んだ男達。おそらく警察だ。多分、家が燃えたことはもう知られているだろう。さて、どう出てくるか。私達は容疑者か、被害者家族か。私は固唾を呑んで、彼らの言葉を待った。

現在、執筆ペースが落ちております。

もう暫くお待ちくださいませ。

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