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Snow White Lunatic  作者: 天童美智佳
Chapter III
27/33

#27

 視界の虹色が薄れ、星の瞬きが弱くなってきた頃。


 漸く頭の揺れと小煩い音が止み、身体が意のままに動くようになった。どうやら、眩暈か何かだったようだ。ここ一日でもう何度も幻想を見ているし、今更どうということはないが。


 薄い掛け布団を退けてのそりと起き上がると、傍のパイプ椅子の上にいた紗雪が、おもむろに口を開いた。


「……陽葵ちゃん、変なこと言って、ごめんね……もう、言わない」

「ん……」


 眉尻を下げ、ひどく申し訳なさそうな顔をしている紗雪を責めるわけもなく、私はただ頷いた。わかってくれれば、それでいい。私としても、紗雪が萎んでいるところなど見たくないのだから。


 閉ざされた世界の裂け目を、私は隠し通した。危機一髪ではあったが、この件はなんとか丸く収まったようだ、と思いかけたとき。猫のように丸めていた背中に、不意に厳しい声が降ってきた。


「……でもね、一つ約束して欲しいの。もう二度と、自分が穢れてる、なんて、言わないで」


 見ると、紗雪はいつになく真剣な表情をして、私の顔を真っ直ぐに見つめていた。何やら威厳のようなものを漂わせ、まるで小さな子供を叱るように。


 言っている意味がわからない。いや、言葉の上では理解しているけれど、心が納得していない。私が穢れていないなど、何を根拠にそんなことを言えるのだろう。もはや謎だ。


 そう思っているはずなのに、私の想像は止まらない。回転覗き絵(ゾエトロープ)のように頭の中を回る紗雪の言葉、その内側で再生(リピート)される物語。その中に描かれた私は、現実に存在するこの私とは違う存在なのだろうか。紗雪に見えている私は、醜怪な悪魔ではないのだろうか。そんな儚い期待が、大樹のように(そび)え立つ劣等感に小さな斬撃を与えた。


「陽葵ちゃんにいやなこと言う人も、確かにいるかもしれないよ? でも、陽葵ちゃんはとってもすてきな子だって……私、知ってるもん


 紗雪はそう言うと、包帯で膨れた私の右手の甲を指先でつぅと撫ぜ、中指の第二関節の上で止めた。引き締めていた表情を緩め、聖母のように微笑んで。弓張月の口元は静けさと柔らかな光を湛えて、ゆっくりと私の下に舞い降りてきた。


「陽葵ちゃんの指ってね、白くて長くて、とっても綺麗だと思う。あったかくて優しくて、私、大好き」


 包帯の上から、手の甲に接吻が落とされる。包帯越しに感じる僅かな圧力が、今はとても重たい。いつも、私を肯定してくれる紗雪だけれど、こんな褒め方をされたのは初めてだ。


 続け様に投げ与えられる、私には不相応な賞賛。そこに嘘偽りが混じっていないことが、一層きまりが悪く感じられる。全てがあべこべになった世界に投げ込まれたような、そんな違和感があった。


 この状況にどう反応していいのかわからず、されるがままになってしまう。混乱から眼球が揺れ、自然と瞬きが増えていく。こちらのそんな様子を気にした風もなく、紗雪は私の顔に向かって、ゆらりと両手を伸ばした。


「陽葵ちゃんのお顔もね、とっても綺麗。お鼻はすっきりしてて、お肌もすべすべで、お目々はきらきらおっきいの。睫毛も長くて、くるってカールしてて、お人形さんみたい」


 小さな手が私の頬を包み込み、人差し指は鼻を、瞼を、額を飛び回る。繊細な芸術品を調べるように、顔の部品一つ一つを、丁寧になぞって。壊れやすく美しいものを慈しむ優しさが、そこには確かにあった。


 このときになって初めて、私の感情は明瞭に言語化した。紗雪は、一体何を言っているのだろうか? この私が綺麗だなどと、なかなか笑わせるではないか。それに、仮に私の身体が醜くなかったとして、心が穢れているのを、どうして否定できようか、と。


 無知は罪だと、人は言う。確かにそうだ。しかしその邪悪さは、()()()()()()()()()人間のそれに、遥かに及ばない。社会的には悪であることを知りながら、自らの行いは不善であると悟りながら、実行する。そんな犯罪者の心が罪に塗れていることを否定することなど、絶対に不可能なのだ。


 そして、罪とはすなわち穢れ。だから私は穢れている。固く信じていたその概念は今、斧で叩き斬られ、倒される寸前の小木のように、ぐらぐらと揺さぶられていた。あんなに大きな(なり)をしていたのに、これは一体どういうことだろう。あたりに散らばる、紫紺色の果実をつけた枯れ草。これが、あの木を核に繁茂していたとでも言うのだろうか。


 荒涼とした鈍色の風景に、何処からか火の粉が舞い込み、あたりが一瞬で火の海と化した。降り注ぐ灰は粉雪のように白く、黒に染まった心を塗り替えんとする。私の闇を、私の罪を、全て焼き尽くし浄化してくれるような——私はこの煉獄に、そんな光明を見出していた。


 天使の恩赦。あるわけもないそれを、求めている私がいる。求めてはいけないと思っている私も。私が自らが赦されることを、許せない。どんなに辛かろうが苦しかろうが、私は決して、罰から逃れてはならないのだ。そう強く言い聞かせているのに、頭の中に響く私自身の声はどんどん小さくなって、遂には蚊の鳴くような聞き取れない音の連続になってしまう。


「瞳の澄んだ人に悪い人はいないって、誰か言ってた。陽葵ちゃんの瞳もね、冬の湖水みたいに澄んでるの。だから、陽葵ちゃんの心も、悪くなんかないもん」


 紗雪が、私の瞳を覗き込む。全てを見透かす清らかな眼差しに射抜かれて、私の心は震えた。目頭が熱く潤い、瞼をぐっと開いているのに、乾いてくれない。それどころか、煙が沁みたような痛みが走り、涙が零れてしまいそうになる。やめて、もう、やめて。口に出せない呟きが心の奥底に降り積もり、雪崩となって押し寄せた。


 広大な雪原の中に不意に現れた狐火は、消えることなく雪を融かし、小さな湖をつくっていた。これ以上溶かされることのないよう、絶対零度の息吹で炎を吹き消し、雪解水を凍らせると、同心円状の波紋が浮かぶ氷の鏡が、私の姿をくっきりと映し出す。鏡の中の私は無表情のまま息を止め、古びた彫像のように佇んでいた。


 黒い蔦に絡め取られて、身動きがとれなくなっていた私。母の言葉に縛られ、父の言葉に縛られ、自分自身の言葉に縛られ。何重にも刷り込まれた言霊の呪いが、白日の下に晒される。


「陽葵ちゃんはね、綺麗だよ。心も、身体も。穢れてなんかないよ。だから……そんなひどいこと、もう二度と、言わないで」


 鳶色の瞳は、私を捉えて微動だにしない。確固たる自信の下に紡がれる言葉は、私の心に巣食う両親の幻像を打ち消し、その呪縛を焼き払う。醜い、卑しい、屑、無器量、穀潰し、邪魔者。言われたのはずっと昔のはずなのに、棘のように心に刺さって今も痛み続ける言葉。それすらも溶かさんとする救いの御告げを雨霰と注がれて、私の眼から塩辛い雫が流れ落ちた。


 ——生きてて、良かった。


 私が一番に思ったことは、それだった。

 そして、気がついてしまった。私がこんなにも、他者からの承認に飢えていたことを。


 紗雪は、私を認めてくれなかったわけではない。むしろ、やり過ぎなくらい褒めてくれた。けれども、私の敏感な部分、特に卑屈になりやすい容姿や性格については、あまり触れてこなかったように思う。多分、知らないうちに気を遣わせていたのだろう。紗雪はそういう子だから。


 紗雪の言葉を信じるならば、私は別に、そこまで醜くはないということになる。いや、本当に醜いか醜くないかは、あまり問題ではない。大切なのは、()()()()()私が醜くないということだ。


 私の実像がどうであれ、紗雪の心に棲んでいる私は、醜くない。ならば、私はそれで満足だ。紗雪という鏡の向こうに、見目麗しい私の虚像があるというのなら。

 私は私自身を、肯定することができる。


「あり……がとう……」


 声を出さずに感謝の言葉を呟きながら、私は年甲斐もなく泣いた。嗚咽になりきれない吐息を洩らし、涙で顔をぐちゃぐちゃにして、かなりみっともなかったと思う。


 だが、そんなことなど気にもならないくらい、私は幸福だったのだ。こんなに幸せで、いいのだろうか。何度もそう自問してしまうほどに。


 片割れである紗雪を守ることに、全てを賭す。そう決めた私の努力は報われ、褒美として自己否定から解放された。その事実が、嬉しくて、誇らしくて、愛おしかった。


 この先、どんな困難に突き当たっても。二人なら、きっと乗り越えられる——このときの私は、そう信じていた。


 この世に絶対など無い。そんな真理を、忘れるくらいには。

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