#26
聖なる夜が、更けてゆく。およそ二千年前、救世主が生誕した、記念すべき夜が。
いつの間にか、気温が氷点下を下回っていたらしい。静寂に零れ落ちる冷気は世界を夜陰に封じ、カーテンの隙間から覗く外界に散らつく雪は、この特別な日を祝福するかのように、街の灯りを天へと照り返し。厚い雪雲に覆われ、薄っすら赤みを帯びた夜空は、彼がために捧げられた葡萄酒のような紫色だった。
ユダヤ暦及びそれを継承する教会暦では、日没と共に日付が変わるらしい。つまり、一日は夜から始まって昼に終わるのだ。初めてその話を聞いたときは、なんて奇妙なんだろうと思った。だが今は、その概念にどこか共感を覚えている。闇に始まり、闇に沈む世界。生命の一生そのものではないか。
私はこの白い夜に一度死に、再び生まれた。紗雪と共に生き、その障害になる全てのものを殲滅するために。堅牢な盾と犀利な矛を装備し、私は無敵の戦士に生まれ変わる。
そんな、凍てついた覚悟だけを身に纏っていくつもりだったのに。
この浮ついた感情は、一体何なのだろう?
目の前で揺れる双眸が、透ける肌の紅が、温かな吐息が、私の心を捕らえて、放さない。下腹がきゅっと収縮し、身体の奥が悩ましく痺れる。頬が火照り、胸を打つ鼓動が速くなっていく。無意識に内腿を擦り合わせれば、静電気のようなピリピリとした快感が背筋を駆け抜け、脚の間が僅かにひりついた。
――キモチイイ。
その五文字だけが、脳内を揺蕩う。何をしているのか、何をされているのか、自分でもよくわからないまま、優しくも強引な波に揺られ、沖に流され。官能の海に投げ出された私は、潮の流れに抗う術を持たない哀れな漂流物のようだった。
長い睫毛を伏せた紗雪の頬は、冬の林檎のように赤い。絹糸のような髪が放つ芳香を吸い込めば、耽美な微睡みに飲み込まれそうになる。清浄な薫りの中に僅かに含まれる龍涎香は、まるで私を誘惑するかのよう。寝所を共にしたときにも感じなかった艶かしさ。水蜜桃のように蒼い少女、故に漂う倒錯した蠱惑。私は戸惑いを隠せない。
血行が良くなったせいか、傷口が熱を持ち、痛み始める。だが、そんなのには構っていられない。目の前の美しい生き物に魅了され、昏い劣情に突き動かされそうになる我が身を押さえつけるのに、全力を注がねばならなかったのだから。
躰と切り離されていたはずの感情が神経に溶け出し、全身の感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。覚醒剤か何かを使われたかのように肌が敏感になっているのに、意識はどこまでも白く濁って。こんな状態で刺激を与えられたら、私は確実に参ってしまうだろう。止まることを知らない融合の連鎖は、疾走を続ける。このまま全て溶けたら、私はきっと色情狂になってしまう。
この毒薬が私を蝕み殺すのは、時間の問題だ。代謝が追いつかなくなる前に、元を断つ必要がある。となれば、早くこの行為をやめさせねば。そう思った矢先、私の世界は白と薄紅に満たされた。
紗雪の小さな唇は熟れた果実のように鮮やかに色づき、瑞々しく張っていた。可愛らしいそれは私の瞼を擦り、鎖骨を撫で、唇を愛でる。甘美な刺激に唇を綻ばせれば、僅かな隙間から柔らかく滑らかなものが忍び込んでくる。思わず目を瞑ると、ぬらりと蠢く果肉がよりはっきりと感じられて、却って良くない。滴り落ちる果汁は甘く、私のかさついた喉を潤し、媚薬のように昂らせていった。
駄目、駄目、駄目。これ以上は。頭のどこかで、理性の警鐘が五月蝿く鳴っている。私はそれを深い水甕の中に沈めて蓋をし、蔵の奥に仕舞い込んだ。何故か? 抑止力として保管はするべきだが、今はまだ必要ない、そう思ったからだった。
私が本当に放り込まれたのは、水深一メートルもない子供用のプール、もしくはただの水溜りだ。本気を出せばいつでも浮かび上がれるのに、惰性で沈んだままでいるだけなのだ。それか、単に意思が弱いか。どちらも私には無縁だ。私は自力で、この脳内麻薬の沼を脱してみせる。そうでなければ、私の価値は無になってしまうから。
愛しても、穢してはならない。
それは、罪に塗れた私なりの美学であり、天が定めた絶対の法だ。処罰を先送りにしてもらっている私が、それを遵守することは必然。だから、私は紗雪を拒み、穢れから遠ざけねばならない。それが誰の意に反していても。
悪魔の肉体は、天使に恋い焦がれている。認めたくはないが。このまま捨て置けば、私は麻薬中毒者のように紗雪を欲し、いつかは奈落への道連れにしようとするだろう。早く、そうなる前にこれをやめさせなければ。
瞼を上げて紗雪を押し返そうとしたとき、塞がれていた唇が不意に解放された。恐る恐る瞼を開くと、目前の桜貝は二つに割れ、新たな言葉を繰ろうとしているところだった。
「陽葵ちゃんと一緒なら、何処へだって行けるよ。天国でも、地獄でも」
細く甘い声が、春風のように私の耳を過る。濡れて妖艶に光る唇は、確固たる覚悟をもってきりりと結ばれていた。だが、それが再び解けたとき発せられたのは、憂懼に慄く子羊の啼き声だった。
「だから……もう、どこにも行かないで……陽葵ちゃん以外、何もいらないから」
紗雪が私の額に口づけ、弱々しく微笑む。強がっていても、瞳から溢れる銀の雫がその本心を物語っていた。もう何処にも行かないよ、そう言ってやりたいのに、生憎今は声が出せない。
「死んだって構わない。でも、陽葵ちゃんとお別れするのはいや」
包帯が巻かれた私の手を取って、紗雪は独り言のように呟いた。先ほどの妖しい雰囲気は影もなく、あるのは、急速に冷えてゆく覚束ない視線だけ。
「……陽葵ちゃんがなんで悲しんでるのか、苦しんでるのか、いっぱいいいっぱい考えたの。でも、わかんなかった……ごめんなさい」
紗雪の目から滴った涙が、包帯の手の甲をぽつぽつと濡らす。どうも雲行きが怪しい。早くこの闇中独白を止めさせねば、私が拵えた狂気の檻が壊れてしまうかもしれない。
恐るべき事態を阻止するため、私は喉に力を込めようとした。だが、刃物で突かれるような鋭い痛みに妨げられてしまう。声が出せないことが、かように不自由なことだとは知らなかった。どうしてこの流れを変えようかと私が焦っているうちに、紗雪の思考は遥かに遠くに飛躍していた。
「私、きっとおかしいんだよね……私が、陽葵ちゃんをこんなにボロボロにしたんだよね……」
ギリ、と唇を噛み締め、肩を竦める紗雪。おそらく頭の中では、溢れ出した感情が独歩を続けているのだろう。私がずっと隠してきた、箱庭の亀裂に到達してしまうまで、あと何秒ある? 十秒? 五秒? 私はそれまでに、紗雪を止めることができるのだろうか?
声は出せない。先ほど使った方法も、今の紗雪に届くとは思えない。感情的に不安定になった相手には、もっと大胆な干渉が必要だ。ならば、致し方ないか。紗雪を黙らせ、心を温める方法。それを実行するしかあるまい。
水銀で満たされたように重い上半身を起こし、紗雪の華奢な二の腕を掴み、グイと引き寄せて。
私は、震える花唇に口づけた。
ぶつかった瞬間感じる、柔らかい温もり。マシュマロのようにふわふわした、円やかな甘さ。熱で軟化し私の唇と優しく溶け合うそれは、この世の何より美味だった。
目を開くと、惑いぐらつく紗雪の瞳が映った。微細な罅の入った赤琥珀。その中心に浮かぶ黒い円は私の虚像を吸い込み、宇宙のように煌めいていた。それはまるで、美しく閉じ込められた内包物。紗雪に相応しい、永久なる美しさ。
瀞みのある艶が揺れ、永遠に刹那が混じり始める。埋まりようのない紗雪の欠陥。張りぼてでもいい、なんとしてでも隠し通さねば。穴の底に激突でもしたら、琥珀は砕けて粉々になってしまうのだから。
先程身体の中で燃え滾っていた熱は鳴りを潜め、紗雪を守り抜かんとする私の信念を、静かに讃えていた。いつの間にか遠くなっていた周囲の音が、今ははっきりと聞こえる。一定の調子を刻む電子音も、外で密やかに渦巻く木枯しの音も、木々の僅かな騒めきも。それだけ、私が落ち着きを取り戻したということだ。
私はもう、大丈夫だ。身体的には不自由なままだが、精神は安定している。人を宥めようとするならば、まず自分が冷静にならねばならない。それをよくよく噛み締めて、私は紗雪の花弁から離れた。
私の視線が、紗雪の宇宙を真っ直ぐに貫く。その心を射止め、新たな鳥籠に捕らえるために。肺に空気を溜め、喉を使わずに出せる精一杯の声で、私は紗雪に語りかけた。
「……いいの。紗雪……気に……しないで」
喉を振動させていないとはいえ、声を出すのはやはり苦しい。けれど、ここで痛みなどに敗れてしまっては、全てが水泡に帰す。私はそれを、いやそれだけを、絶対に許さない。
「……紗雪のせいじゃ、ない……全ては私の……心が、穢れているせい……だから……っ……」
「陽葵ちゃんっ……もう……」
喉が詰まって咽せそうになり、私は身体を折った。その私の背中を一生懸命に摩り、小さな手を翳して、もう喋らないでという意を表明する紗雪。隠す気もない焦りの色が、その声に滲み出ていた。
残念ながら、限界が近いようだ。だが、紗雪の思考の方向をずらすことには成功したから、まあいいとしよう。現に紗雪の涙は止まり、罪悪感は狼狽に取って代わられていたのだから。
しかし、まだ詰めが甘い。腕の針が突っ張るのも構わず、目と鼻の先にある白い掌を押し退け、卵型をした小さな顔をするりと両手に収め。
「……だから……もう、そんなこと言わないで……お願い」
鉄臭い息を吐きながら、私はやっとのことでそう言った。力尽き、白いシーツの上に落ちる私の両手。頭は重く、水盤に浮かべた華の如くゆらゆらと揺れている。そのまま平衡感覚が消失し、私は真後ろに倒れ込んだ。
ドサリ。ベッドに背中を預け、頭骨の中に広がる漣が治るときを、ひたすらに待つ。耳元は羽虫が飛び交う音で五月蝿くなり、瞬きの度に白黒の星が散る視界の中では、七色の迷彩が生き物のように脈打っている。ひどく眩しい世界の中、私が寝ているところだけが、墨を落としたように黒く染まっていた。
感覚の殆どが信用できないものになってしまった今、包帯越しに感じる紗雪の手の温度だけが、かけがえのない命綱だった。どうか、放さないで。そう強く念じながら、私はモノクロームの星に祈りを捧げた。