#25
目を覚まして数秒後。
腕に刺さった針に繋がれた管、その管に流れる液体の源となっている透明なビニールパック。それが点滴であると気づいたとき、真っ直ぐ上を見ていた私の視界に、突然白い塊が飛び込んできた。
「陽葵ちゃん! よかった……」
誰かが、私の手を握りしめて泣いている。亜麻色の髪と真白い肌。ついさっき私を絶望から救ってくれた、妖精だった。瞳から幾筋もの泪を零し、頰に塩の涸れ谷をつくって。一体、私は何時間眠っていたのだろう。赤く腫れ上がった彼女の瞼が、その時間の長さを物語っていた。
冷静になった今なら、私がしようとしていたことがどれほど無責任なことだったかよくわかる。内心、忸怩たる思いだ。早く、本物の紗雪に謝って、もう大丈夫だと言ってやらねば。
「さゆ、き……っ……」
ごめん。大好き。ありがとう。もう大丈夫。言いたいことは山ほどあるのに、喉がうまく動かなくて、まともに発音をすることすらできない。首が包帯でぐるぐる巻きにされ、よくわからない板で固定されて、傾けることもできない。どうやら私は、かなりの大怪我をしたらしい。起きるのが億劫になるほど上体が重いし、指先にも包帯が巻かれている。爪が剥がれてしまったのだろうか。唯一無事だったとみられる左小指には、バイタル測定器のセンサが取り付けられていた。
「陽葵ちゃん、喋っちゃダメ。傷口が開いちゃう」
案の定、紗雪に止められた。声が出せないとなると、どうしてこの想いを伝えようか。筆談などの証拠が残る方法は良くない。両親の件と関連づけようとする輩がいるかもしれないから。ああ、そうだ。肌に直接、書いてしまえばいいのだ。
なだらかな曲線を描く、ほっそりした紗雪の手。固く繋いでいたそれを解き、白魚のように滑らかで肌理細かな掌に、疼く指先を乗せた。
『ごめんね』
はじめの一言はそれだ。死んで現実から逃れようとしたことを、まず謝罪せねばなるまい。許してもらえるかは別として。
『ありがとう サユキがいたから もどってこられた』
二つ目はそれだ。紗雪には何のことだかわからないかもしれないが、他に言いようがない。黒く濁る水の中で紗雪だけが光り輝いていた、あの煌きを私は忘れない。あれは天使の、救いの光だった。
『もう だいじょうぶ これからもいっしょに いきてくれる?』
最後の一つ。あの約束が現実のものになるかどうかは、ひとえに紗雪の答えにかかっている。でも、きっと大丈夫。期待を込めて上を向いてみると、紗雪は泣き腫らした目を擦って、新たな涙を拭っていた。
「うん……うん! 私も、陽葵ちゃんと生きていきたい! でも……こんな私で、いいの? 陽葵ちゃんに迷惑ばっかりかけて、今日だって……私……陽葵ちゃんがどうして倒れちゃったのかも、全然わからないんだもん!」
そう言って泣き崩れる紗雪。死にかけた私を見て泣き、目を覚ました私を見て泣き、本当に泣き虫だ。網膜剥離を起こしそうなほど目を擦り、淡紅色の唇からか細い吃逆を漏らして、それはまるで幼子のように。
殺人の重さが理解できない紗雪には、どうして私が半狂乱で自傷行為に走ったのかなど、わからない。わかるのは、それが私を苦しめるものであり、社会に拒絶されるものであるということだけ。警察に捕まる恐怖は想像できても、地獄に堕とされる恐怖は、思い浮かべることもできないのだ。だが、それでいい。天使には、罪の意識など必要無いのだから。
私は紗雪の、姉だ。やるべきことは決まっている。誓いの言葉を、今すぐ形にしよう。私の胸で狂おしく咲き誇る赤い花の、花言葉を伝えるために。
指に巻かれた包帯が、紅に滲む。柔弱に震える紗雪の掌をなぞると、朱墨で書かれた小さな文字が、白い肌にありありと浮かび上がった。
『あいしてる えいえんに』
本当に伝えたいのは、たったこれだけ。紗雪がどれだけ殺しても、どれだけ犯しても、どれだけ奪っても、絶対に変わらない。消えてゆく命も、罪の重さも、失う悲しみも、紗雪が生きる全てに責任を持つ。それが、私の生き方だ。
私は紗雪の、影。穢れを飲み込み、闇に封印するために生まれた存在。そんな私の愛を、紗雪は受け入れてくれるだろうか。ほんの少し不安になってしまうけれど、そんな心配は無用なようだった。
「陽葵ちゃん……私も、だよ。世界で一番、陽葵ちゃんが、すき」
紗雪は掌に綴られた想いを見つめて、私の手を優しく包んでいた。止め処なく降り注ぐ涙は甘露のように私の心を潤し、氷の核を緩ませる。罪を犯す前、何も知らずに笑っていた頃と同じ。温かくて冷たい、不思議な気分になった。温かいのは、幸せだったから。なら、冷たいのは? いつかこの幸せが崩れてしまうかもしれない、そんな怯えからだったのだろうか。
幸せは、泡沫。長くは続かないものだ。いつかは弾けて消えてしまう、それを覚悟した上で生きるのが、生き物の宿命であると、私は思う。
どんな窮地に追い込まれても、私は諦めない。最後の最後まで、運命に抗い続ける。
だから、もう一度だけ契らせて欲しい。
病めるときも、健やかなるときも、どんなときでも。
――貴女だけを愛することを、誓います。
重ねた唇が紡ぐ言葉は、凍りついた心を甘く切なく蕩かせ、どうしようもなく狂わせる。
胸に沁みる柔らかさを慈しみ、雪解けの水音を聴きながら、私達は十二月二十四日に別れを告げた。