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Snow White Lunatic  作者: 天童美智佳
Chapter III
24/33

#24

 遥か遠くに、水面が見える。白い光を透過して、銀色に輝く巨大な鏡が。


 そこに映り込んだ黒髪の少女は、朱色の衣を纏って微笑んでいた。私だ。朧になる昏い視界の中で、私の赤と鏡の白だけが際立つ。白と黒、紅に閉ざされた世界は、ひどく現実感が薄くて、美しかった。


 このまま、沈んでしまおう。瞼を降ろしかけたとき、鏡の中に大きな波紋が起こった。何か、落ちてきたようだ。一体なんだろう。神から私への餞別か。夢ではなく、私を葬ってくれるというのだろうか。


 だが、そんな淡い期待は一瞬で砕け散った。


 嘘だ。見間違いだ。有り得ない。そんな言葉をいくつ並べても、私の驚きを表現しきることはできないだろう。


 落ちてきたモノ、それは紗雪だった。水泳は苦手なはずなのに、重たい水を掻き分け掻き分け、私のほうに向かってくる。しかも、とんでもなく速い。まるで人魚か、水の妖精。紗雪がばら撒く光の粉は暗黒の海に雪のように降り注ぎ、濁りと影を祓い清めていった。それが肌に触れた瞬間、私に歯をめり込ませていた死者達は消え、満身創痍だった身体は傷一つ残らず綺麗に治ってしまった。


『陽葵ちゃん、行かないで』


 紗雪が私の手を取り、背中に手を当てて、静かに語りかけてくる。水の中だから普通には喋れないし、聞き取れないはずなのに、ああ、やはりこれは幻想だ。臨死体験だからだろうか、なんて都合のいい夢。私は未だに、『紗雪に必要とされたい』と思っているのだ。


『……ごめん紗雪。でも……私は、もう紗雪の傍にいる資格なんて……』


 つい、本音が漏れてしまう。愛すべき紗雪に罪を押し付けようとしてしまった最低の私を、許してくれるとは思わない。許してくれとも言わない。ただ、逝かせて欲しいだけだった。


『……私の傍にいるのに、資格なんて必要ないよ。陽葵ちゃんは、私と一緒にいるのはいや?』


 そう言って少し笑う紗雪。ちょっぴり意地悪な問いかけだ。私がうんと言うわけがないのを、嫌というほど知っているくせに。でも、そんなそんなところも愛おしい。全く、私は見上げた紗雪バカだ。


『……ううん』


 首を緩く振って否定の意を示し、私は紗雪の陶磁器のように白い頬に手を添えた。冷たい水の中、紗雪の肌だけがじんわりと温かかった。


『……紗雪、愛してる。病めるときも健やかなるときも、どんなときでも、この気持ちだけは揺るがない。絶対に』


 絶対に。その先は敢えて言わなかった。言い始めればキリがないし、紗雪に罪を自覚させないためでもあった。

 だが、そんな方針が暴走した結果、私達は今、海底に沈もうとしている。私の力不足。私の限界。本当は、罪を犯さない方法を探し求めて、もっと足掻くべきだったのだ。頼りにできるものが何一つ無かったなんていうのは、甘えに過ぎない。


『……でもね。これ以上一緒にいると、私紗雪のことを傷つけちゃうかもしれない。守りきれないかもしれない。だから私、神様にお願いしたの。紗雪を助けてくださいって。きっと、叶えてくれるよ。だから、ね、もう戻りなさい。紗雪にはこんな暗い海の中じゃなくて、明るい空の下で、自由に生きて欲しい』


 できる限り冷静に、優しく諭したつもりだった。しかし、返ってきたのは、嗚呼。


『……やだ。陽葵ちゃんが海の底に行っちゃうって言うなら、一緒に行く。陽葵ちゃんがいなきゃ、お弁当も、どんなお菓子も美味しくないもん。陽葵ちゃんがいなきゃ、学校だって楽しくないもん。陽葵ちゃんじゃなきゃダメなんだもん。ずっと一緒にいるって、約束したじゃない。陽葵ちゃんが……陽葵ちゃんが死ぬって言うなら、私も一緒に死ぬ!』


 紗雪はそう叫ぶと、私の胴体に腕を回して、ひしと縋りついた。朱色に触れて、紗雪の羽織っている白い衣が、みるみるうちに赤くけがれてゆく。それは白絹に垂らした血のように、決して消えない染みになってしまうだろう。私は焦った。紗雪を巻き込んで死ぬだなんて、そんなことができるわけがない。


『やめて……戻れなくなっちゃう。紗雪はまだ生きられる。きっともう、息が苦しくなることも無いから。大丈夫だから、生きて。今ならまだ間に合う。私から離れて、そらを目指して……お願い』


 死にたい私。生きたい私。私が死ぬなら、自分も死ぬという紗雪。もうどうすればいいのかわからない。募る焦燥に、燃え盛る心の火焔が激しく揺れ、爆ぜて火の粉を撒き散らしそうになる。飛び火して火傷を負わせてしまう前にと、紗雪を胸から引き剥がそうとするけれど、腕に力が入らなくて、力尽くでは無理だった。本気を出せば振り払えるはずなのに、それができない、私の弱さ。


『やだっ! 陽葵ちゃんがいなきゃ、生きてる意味なんてない! 陽葵ちゃんがいなくなっちゃったら、私、悲しくて生きていけないよ……』


 純白の羽衣を汚れに染めながらも、紗雪は頑として譲らない。その切ない啜り泣きが胸に突き刺さり、麻痺していたはずの痛覚を呼び覚ます。心が、痛い。この痛みを紗雪も感じているのかと思うと、私は全く駄目な姉だと思った。守ると言っておきながら、結局は悲しませてばかりなのだから。


 紗雪が私の死を望むわけはない。そんなことはわかっていた。けれど、一体どうすればいい? 私には、この状況を収拾する方法がまるで浮かばないのだ。胸の奥が焦げ付いていくなか、時は刻々と過ぎてゆく。


 紗雪一人の浄化能力には限界があるのか、海水は再び、粘性を帯びた黒い液体に変わっていく。まるで、私達を搦め捕り、ゲルで固めて標本にしようとするかのようだ。沈み続ける私達に残された時間は、あと僅か。


 選択のときが迫っているのは確かだった。凍てついた炎を放って燃え尽きるか、呼吸を止めて氷に戻るか。


 自分のために死ぬか、紗雪のために生きるか。

 嗚呼、なんて単純な二択。

 絶望的なほどに美しい、この対照。


 この二つを並べられては、私の選ぶ方は決まりきっているではないか。神に頼み込むまでもなく、文字通り私は、()()()()()()()


 だがそれは、これからも紗雪のために犠牲を捧げ続けるということだ。動物ではなく、私達と同等の存在である、人間の血と命を。何故、人間の血でなければならないのか? 私には理解しかねることだが、紗雪曰く、それが一番()()だから、らしい。


 動物だからといって、無闇矢鱈に殺していいとは言わない。だがやはり、動物を殺すのと人間を殺すのでは、越えられない壁があるように思う。同種を殺すというのは、種の繁栄の観点から見ても明らかに()()()()()。つまりは、生命の本質に反しているのだ。


 生きるため、戦って敵を滅ぼさねばならないときもあるかもしれない。だがそれは、他の如何なる手段でも解決できないような絶対的な確執の末に、自分の所属する集団、起源ルーツを同じくする仲間を守るためにやむを得ず行われるべきものであって、たった一人のために何度も行って良いものではない。


 『カルネアデスの舟板』という哲学的命題がある。船の難破によって海上を漂流しなければならなくなった者が、一人しか掴まることのできない舟板を他者から奪い取って生き延びた場合、罪に問われるのか。いや問われないだろう。そんな寓話だったと思う。


 生存のために不可避な殺生は、ある程度は仕方ないかもしれない。この話の主人公も然り、危機から逃れるため、日々の糧とするため、生命とはもとより、他者を殺すことでしか生きていけないのだから。


 だがしかし、紗雪をそのルールに当て嵌めるのは、やはり無理がある。紗雪を生かすことで発生する犠牲は数知れず、まして最近のように、予防措置的に生贄を捧げていれば尚更だ。


 本当なら、例の舟板を紗雪に掴ませて、私は溺れ死んでしまいたい。だが紗雪は、それでは嫌だと言う。

 ならば、仕方あるまい。たった一枚の板に縋るという考えなど捨てて、通りがかりの船を乗っ取ってしまえばいい。奇襲は得意中の得意だ。今度は何十人殺すことになるのか。罪を犯すのは苦しいけれど、罰を受けるのは恐ろしいけれど、紗雪を生かす為ならば。今まで紗雪のために払われた犠牲に、報いる為ならば。


 この命ある限り、戦い続けようではないか。


 もう、逃げない。

 もう、迷わない。

 もう、甘えない。


 罪を、罰を、全てを背負って。私は人生で三度目になる、()()の覚悟を決めた。


『……わかった。紗雪、私もう一回頑張ってみる。でもね、うまくいくとは限らないの。もしかしたら捕まって殺されちゃうかもしれないし、離れ離れになったまま、一生会えないかもしれない。それでも、いい?』


 腕の中の紗雪の背中を撫で下ろし、私はそう訊いた。生きようとすることで発生する新たな危険リスクは、きっと私が思っているよりも重い。本当は、それも含めて私が責任を負うべきなのだが、このときの私にはそこまでの余裕はなかった。


『……うん。大丈夫。だって、信じてるもん。私もね、神様にお願いしたんだよ。陽葵ちゃんと、ずっと一緒にいさせてくださいって』


 紗雪はゆっくりと顔を上げると、そう言って微笑んだ。全く、我儘で、欲張りで、それでいてなんていじらしいのだろう。これだから私は、紗雪を愛すことをやめられない。紗雪が微笑むその一瞬のために、全てを投げ出そうと思えてしまう。私の愚かしいところであり、罪深いところであり、罰せられるべきところだ。


 だが、それは仕方がないだろう。紗雪が可愛すぎるのがいけないのだ。適当に責任を転嫁してしまうけれど、あながち間違っているとも思えない。紗雪と接しているとき、私は幸せしか感じないのだから。


 私は紗雪を、愛している。身も心も魂も。この程度の絶望など、紗雪のためなら何度でも跳ね返してみせる。私を捕らえて逃がさない、光輝の檻で。再凍結した私の心は、前より強固な結晶格子を形成しているようだった。


『そう、なら……行こう、紗雪。一緒に。もう二度と、放さないから』


 紅装束を脱ぎ捨てて、私は紗雪に手を差し出した。この逆境から二人で抜け出す、その決意表明として。


『……うん。約束、ね』


 赤に蝕まれた天衣を捨て去り、紗雪はしっかりと私の手を握った。新たな誓約が結ばれた瞬間だった。


 そうして、私は永逝の好機を、紗雪は病から回復する僥倖を、それぞれ手放した。それが正しいことだとは言えない。数日後、数ヶ月後、この選択を悔いることになるかもしれない。囚われの身にならずとも、私が再び生贄達の幻影に悩まされる可能性は十分にある。嗅覚は戻らないかもしれないし、やがては視覚や聴覚までが侵されて、この世を地獄のように感じることがあるかもしれない。


 だが、そのときはそのときだ。身体が動くうち、頭が働くうちは、紗雪に全てを捧げよう。それを心に決めて、私は紗雪の手を引いた。


 泡沫に押し上げられて、私達は幻想の海を脱出すべく天を目指した。海の上がどんな世界かなんて知らない。けれど、光あるところに、希望はある。それだけを信じて、ただ、鏡の向こうへ。


 白い光が、どんどん強くなる。ここから最も遠いところにあるはずの天国が、今はごく近くにあるよう。海中に木霊する滅びの記憶は徐々に薄れ、水の呪縛から解き放たれるまま、私達は光の空へ羽撃はばたいた。


「……っは」


 水面に辿り着いた、と思ったとき。私は硬いベッドに寝かされて、無機質に漂白された天井を見上げていた。

 鼻を突く消毒薬の匂いと腕に刺さった針、バイタル測定器の電子音が、ここがどこであるかを雄弁に語る。病院の一室だ。手術は成功したらしい。そして私の精神も、無事に夢幻の世界からの帰還を果たした。

 取り敢えず、私の示談は神に拒否されたようだ。だがもう、構わない。私はこれからも、紗雪のために生き続けるのだから。


 我が真紅の血潮に誓って。私はまだ、死ねない。

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