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Snow White Lunatic  作者: 天童美智佳
Chapter III
23/33

#23

 眠っているとも、覚醒しているともつかない、霞がかかった意識のなか。


 遠くで、紗雪の声が聞こえた気がした。


 私は一体、どうなったのだろうか? 喉が焼けそうなほど熱く、身体は石のように固まって、動かせない。どうやら死んではいないようだ。もし死んでいれば、私は早速地獄の拷問にかけられているはず。身体の自由が利かないだけで済むとは思えない。


 と思うと、急に目の前が明るくなった。強力な照明で照らされているらしい。瞼を僅かに上げてみると、歯医者にあるような無影灯が見えた。


 薄緑のガウンを着てマスクをした人物数人が、私の喉元を覗き込んでなにやら話し合っている。これからちょっとした手術でも始めそうな緊張感。なるほど、これから私は緊急手術を受けるというわけだ。怪我をしたのは恐らく喉。錯乱した状態で力一杯首の皮膚を掻き毟り、出血ののち昏倒。そんなところか。まだ死んでいないところをみると、頸動脈は()()()()傷ついてはいないが、放っておけば死ぬ、という状況なのだろう。


 頼むから失敗してくれ。執刀医には申し訳ないが、私はそればかりを祈っていた。私に生きる権利などないのだから、さっさと死なせて欲しい。罪も痛みも受け止めるから、紗雪の病と心中させて。

 生まれる価値のなかった私。叶わなかった私の願い。最後にひとつだけ、たったひとつだけ、どうか叶えてください。


 絶え間なく祈りを捧げているというのに、手術は黙々と執行されてゆく。顔に酸素マスクが当てられ、鼻から人工呼吸器のチューブが挿れられる。麻酔が効き始めたのか、身体がピリピリと痛む。意識も飛びそうだ。このまま眠ったら、死ねるだろうか。それとも、まだ生きねばならないのだろうか。


 もう、なにも知りたくない。考えたくない。瞼を下げて視界を閉ざし、私は胸に渦巻く深淵に意識を沈めた。


 漆黒の海の中。水は冷たく、凍えるほど寒い。吐き出した空気はゆらゆらと揺れる虹色の球体になって水中を泳ぎ、鏡のように光る水面に到達すると、シャボン玉のように弾けて消えた。その儚さと潔さが、今はとても羨ましい。私も、あんな風に消えたかった。


 肺に溜まっていた空気が全て抜け、私は窒息するはずだった。事実、息苦しさで喉が潰れそうだ。しかし、意識が消える気配は、ない。先程の地獄と同じで、ここも私の心が創り出した幻なのだ。引き金(トリガー)は違えど、本質は何も変わらない。違うのは、現実の私が瀕死であるということだけ。この世界で死に至ったのなら、今度こそ死ねるのだろうか。心に巣食う闇、その操者たる死神に、身を委ねかけている私がいた。


 チラリと周りを見ると、見知った顔がいくつもある。私が殺した生贄達だ。食屍鬼ゾンビのように酷い顔色をした彼らは、私の身体に絡みつき、更に下の、海底が陥没したのかと思うほどの深みに引きずり込もうとする。そして、私の腕に、脚に、喉に食らいつき、まさにその名が示す本性を発揮した。


 重油のように真っ黒だった水が、私の鮮血で赤く染まり始める。喉笛がザックリと切り裂かれ、皮膚には無数の穴が空いていた。胸の薄い肉が襤褸ぼろ雑巾のように縦に破かれ、肋骨がへし折られて、ゆっくりと脈打つ錆色の心臓が露わになる。か弱くもまだ動いているそれに興味をそそられたのか、それとも妬ましいのか、彼らは黒い穴のような口からおぞましい叫喚を放って、私の胸の中にあるその肉塊に殺到した。食い千切られ、粉微塵になる私の心臓。心臓ポンプがないからもう脈拍を感じることはないはずなのに、感覚として、血液の循環が止まることはなかった。


 ズタズタに切り刻まれた胸から、体内に海水が流れ込む。それが喉へと逆流すると、今まで無味無臭だった水が、途端に鉄臭く、胃酸のように苦く感じられた。胃潰瘍に罹って、胃液と血液を同時に吐き出したら、このような味がするのではないだろうか。鼻腔を撫でる毒気の独特な癖は、煙草の蘞辛(いがら)っぽさに少し似ていた。はじめは苦いのに、嗅げば嗅ぐほど甘くなってゆく、あの感覚に。


 肌を穿つ彼らの牙は、骨をも噛み砕く。樹々が薙ぎ倒されるような轟音がした後は、筋肉が切れるぷつんぷつんという音、疵口から血が溢れるどくどくという音だけが、やけに大きく聞こえた。身体が、動かなくなってゆく。一刻一刻、死神に(いざな)われるままに、亡者に食い荒らされるままに。


 ショック状態に置かれているためか、痛みはあまり感じない。その代わりと言ってはなんだが、私の心は今、どこまでも虚無に支配されていた。今までの生贄達も、こんな感覚の中で最期を過ごしたのだろうか。いや、違うだろう。彼らは最後まで、自らの死の運命に抗おうとしていた。私は違う。寧ろ、それに殉じることを切望している。


 バリバリと私の身体を貪り食う彼らの肉体が崩れ、人間の形を留めなくなってゆく。顔面から肉が削げ落ち、奥から白い髑髏が覗いた。目玉が抜け落ちて、眼窩が空っぽになる。身体の肉も瞬く間に腐って有機物粒子(デトリタス)となり、潮に攫われて何処かに消えてしまった。残ったのは、枯れ枝のような骸骨だけ。彼らが私を喰らうのは、怨恨のためというよりも、水の底に沈まない理由をつけるためなのではないか、という想像が頭を過る。まだ、死にたくない。まだ、消えたくない。そんな声なき声が、聞こえた気がした。


 海中に、滅びの詠唱(アリア)が響き始める。重なり合う幾つもの旋律は同一の調子(テンポ)に乗って、不協和音の合唱(コーラス)となっていた。重苦しい呻きと疳高(かんだか)い悲鳴で構成された曲は、無限の海を割れ鐘のように渡る。その一音一音は、狭い部屋の壁に何度も反射したかのように私の耳に押し寄せ、ぐわんぐわんと脳を揺すった。頭蓋を満たす音符達が奏でる、圧倒的な滅びの記憶。このままでは脳が溶けてしまう、そう思った矢先、それは静かな鎮魂歌(レクイエム)に変わった。


 飛び散った深紅は水中に浮かび、闇夜にかかるオーロラのように仄暗く光っていた。それは私の身体に纏わりついて、赤い死装束と化している。紗雪が見たら、綺麗だと言って喜ぶだろうか。我が愛しき殺人鬼(サイコキラー)。死の恐怖が理解できない貴女に、生物の世界は残酷すぎた。


 限りなく冷たい心を抱えたまま、抉られた胸に火が灯る。私は燃える氷(メタンハイドレート)。積もり積もった残骸が長い年月の間低温と高圧に晒されて、水の檻に囚われた結晶。静かに、静かに、燃え尽きる瞬間を待つだけ。


 目の前に赤い炎が見える。生贄達が流してきたのと同じ、ついの銀朱だった。ああ、やっと死ねる。私の心は安堵に満たされ、滅びゆく自らを、生まれて初めて、美しいとすら思った。今なら、紗雪が生命の燃え尽きる瞬間を求める理由を、感覚的に理解できる。確かに、破滅の美しさは他の全てを凌駕するかもしれない。そのために罪を犯すことを肯定する気は無いけれども。


 私の人生は、ここでお終い。生贄の魂と、狂気という病を道連れに、私は紗雪の元から去る。深く深く、光の殆ど届かない神秘の海域(トワイライトゾーン)まで。そこで彼らと共に朽ちて、深海に降る雪(マリンスノー)になりたい。紗雪と同質でいることを許されなかった私は、炭素の輪廻を巡り巡って、再び海の底に沈む。今度こそ……今度こそ、紗雪と双子になれると思うと、唇から笑みが零れた。


 もし生まれ変われるなら、次も紗雪と一緒がいい。

 苦しみも悲しみも、紗雪がいるからこそ耐えられた。

 喜びも幸せも、紗雪がいなければ何の意味も持たない。

 ありがとう。そして、さようなら。


 貴女と十四年も一緒にいられて、私は本当に幸せでした。

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