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Snow White Lunatic  作者: 天童美智佳
Chapter III
22/33

#22

 やがて、夢のようなひとときも終わりに近づいてきた。アールグレイを飲みながら紗雪と感想を言い合っていると、ふと、線香のように煙っぽく、甘い香りが指先から薫った気がした。


 その香りの、鼻が痛くなるほどの強さに何故かぞっとして、あたりを見回してみる。けれど、この状況で香を焚いている人間などいるはずもない。そもそも、私自身の身体から匂った香りなのだから、外に原因を求めるのはおかしい。


 ならば、これは一体何の匂いなのだろう。何処かで感じたことがあるような……


 次の瞬間脳裏に蘇るのは、胸に真っ赤な大輪の花を咲かせ、救済を切望していた……母。


 ガラムの毒々しい煙の中で、我が子に裏切られた怨みに身を捩らせながら息絶えたであろう、母だ。


 私にとって、ガラムの匂いは母の象徴。そういうことか。これは、母が遺した置き土産だ。私の鼻腔に亡霊のように取り憑き、そのまま覆い尽くそうとしている。


 そう思った途端、甘い香りが喉の奥、肺の中までを一気に埋め尽くす。毒ガスのように血液に溶け込み体内を巡るそれは、身体の細胞一つ一つを着香させていくようだった。全身がガラムと同じ匂いを放ち始めるのを感じて、私は頭から水をかぶりたいという衝動に駆られた。


 もう、他の匂いがわからない。さっきまで馥郁として清涼感のある飲み物だったアールグレイは、いまやただの熱い水でしかない。試しに何度も啜ってみるけれど、その状況は変わらない。それどころか、灰皿の水を飲んでいるかのような苦味だけが喉を突く。


 私は嗅覚を失った。いや、失ったというのは正しくない。ガラムの匂い以外を感じられなくなっただけだ。母を殺した代償としては、まあそこまで大きなものではない。慌てることはない、たかが嗅覚だ。寧ろ、失う前にこんな素晴らしい体験ができて良かったではないか。


 動揺を表に出さないように、努めてごく自然にティーカップを置こうとする。しかし、手が小刻みに震えているせいで、カップとソーサーがぶつかって高い音を立ててしまった。それは私の耳にはかなり大きく聞こえたけれど、騒がしい会場のせいか、紗雪を含めて誰も気にしていなかった。


 取り敢えず、落ち着こう。紗雪にも誰にも、このことを悟られてはならない。拳を固く握って深呼吸をし、目を閉じて精神を鎮めようとする。瞼の裏に広がる暗闇を彷徨ううちに、少し心臓の拍動がゆっくりになってきた。よし、もう平気だ。


 そう思って目を開けたとき、私は思わず叫び声を上げそうになった。


 何故なら、会場一杯に座っていたご婦人達は全て……母だったのだから!


 細かい皺の刻まれた乳色の肌、薄く赤い唇、切れ長の目に不機嫌にカーブした柳眉。見慣れた母の顔だ。間違えようがない。


 何十もの母の顔が、一斉にこちらを向く。そのうちのいくつかの首は、ありえない角度で回転していた。その右胸に一斉に一輪の花が咲き、赤い蜜が滴り落ちる。空間が歪むように、未知なる力がそれらの喉を裂き、銀の閃光を残して跡形もなく消える。滝のように流れる血があっという間に床に広がり、私の靴の先を濡らした。


 さっきまで、この世界に存在する匂いはガラムだけだったのに、今ではむせるほどの鉄と潮の香りが会場を包み込んでいた。向かいにいるはずの紗雪は消えてしまい、残ったのは金縛りにあったように動けない私と、怨念に眉を歪め、何かよくわからない言語で呪詛を呟く大勢の『母』達。その小さな唇が耳まで裂けると、口の中の真っ赤な肉と生え揃った白い牙が露わになる。照明が落ちたように暗い視界の中で、それらの身体が、内側に別の生き物を飼っているかのように蠢き、やがて裂けて異形の怪物が現れる。


 豪奢なホテルの内装は、いつの間にか血と炎の赤に閉ざされた地獄の風景になっていた。濁った赤いゼリーの塊に母の顔がついたような姿をした鬼達が伸ばす、瘴気を帯びた黒い糸が私の手足に絡みつき、鬱血するほどに締めつける。手足の指先がどんどん冷えていき、凍ったように動かなくなる。正直言って痛い。編み上がり、縄となった糸はやがて頸にも巻きつき、万力のような驚くべき力強さで私の頸動脈を圧迫した。普通なら、脳に血が通わなくなって数十秒で死ねる筈なのに、死ぬどころか、気を失う気配すらない。なるほど、これが地獄。逃げることを許されない、永遠の牢獄。


 酸素が足りなくなって壊死してしまったのか、ポキリ、と小枝が折れるような音と共に、腐り落ちた指が床に転がった。赤黒い肉の断面から覗く、白い骨と傷んだ絵筆のような筋。なんともグロテスクなそれは、新たな命を与えられたかのように、芋蟲のような動きでもぞもぞと地面を這い、鬼の身体に取り込まれてしまった。地獄の鬼は、あのようにして肥大していくのか。


 糸の次は鉄槌だ。ぶよぶよした鬼の身体、その中心付近からこれまた黒い槍のようなものが伸び、椅子の背もたれごと私の胸を貫く。心臓が潰され、肺に穴が空き、脊椎骨が二つ三つ飛んだ。逆流してきた血が口から迸って、顎を濡らすのを感じた。


 その次に、鬼の振るう大鎌が腹を引き裂いた。肝臓、胃、腸、膵臓、腎臓までが抉り出され、黒い床に転がって鬼の餌食になる。べしゃり、べしゃりと湿った音がして、流石に気色が悪い。だが、私は動かない。叫んだりもしない。不要になった罪人わたしに残された運命……廃棄を、受け入れるだけ。


 鬼の身体の表面を滑るように移動してきた母の顔がガバッと大口を開け、生臭い息を吐き出す。何千もの死体の腐敗臭をたった一息に凝縮したような、酷い臭い。鬼はそのまま私の頭に喰らいつき、齧り取ろうとしてきた。軋む頚椎、千切れる筋肉、裂ける皮膚。眼に映るのは鬼の体内、新たな地獄への入口。なるほど、ここは地獄というひとつながりの鎖のうちの一つでしかないのだ。鬼に食われて次の地獄へ、また食われて次の地獄へ。


 バキッと嫌な音がして、私の頭は身体に別れを告げた。飲み込まれ、急勾配の坂を転がり落ちると、今度は煮え滾る血がなみなみと入った大鍋があった。慣性の働くままそこへ転がり込むと、瞬く間に皮膚が焼け爛れる。ただの血ではなく、酸の海ということだ。痛い痛い。鍋の底から次の地獄へ送られると、次は蹴鞠の鞠代わりにされて弄ばれた。イタイイタイ。もう、面影を留めていない肉の塊と化した後は、ひたすら踏みつけられる圧殺の地獄へ。イタイイタイイタイ。その後はお待ちかね、全ての罪を祓い清める炎の地獄。アア……イタクテイタクテ、モウムリカモシレナイ。


 おそらく、私は地獄という地獄を巡ったと思う。再び、母の顔がついた鬼の前に座らされたとき、私は憔悴しきっていた。身体はいつの間にか元に戻っていたけれど、もう一度あの痛みを味わうのかと思うと、もう何もかも投げ出して逃げたくなってしまう。


『……カンタンダ。キリステレバイイ、コノコヲ』


 そう言った鬼の中から現れたのは、半透明の殻に入り、羊水の中を揺蕩いながら安らかに眠る、紗雪だった。


『……コノコサエイナケレバ、オマエガツミヲセオウコトハナカッタ』


 それは違う。その一言が言えない。何故ならそれは、私が心の奥底に封じ込めていた、紛れもない事実だからだ。

 地獄の鬼如きに、押し隠していたものを見透かされてしまった。背中に重く伸し掛かる敗北感。それすらもお見通しなのか、鬼は私に、忌まわしい、死の穢れが寄り集まって形を成したような黒い短剣を差し出した。


『ダカラ、エラバセテヤル。サユキカジブンカ、エラベ』


 その刀身から放たれる凄まじい負の感情に吸い寄せられるように、私はその柄を握って短剣を受け取り、ビュッと一振りした。セラミックのように軽くて、大した打撃力は期待できなさそうだ。だが、振った軌跡にいつまでも浮いている瘴気を前にして、私は確信していた。


 これで斬りつけられた生き物は、象だろうが鯨だろうが、確実に、死ぬ。


 たった一振り、ほんの少し瘴気を浴びせるだけでいい。それは毒のように身体を侵して、内側から食い破るように死に至らしめるのだろう。罪人に相応しい、醜く壮絶な最期だ。


 一歩前へ踏み出し、鬼の身体の中に浮かぶ、紗雪の繭を見つめる。白雲母のような層状の鉱物に覆われ光り輝くそれは、一つの宝石のようでもあった。中にいる紗雪は、無色透明の琥珀に包まれ、綺麗なままで時を止められた白銀の蝶のよう。そんな美しいものにこの穢れを浴びせたら? 結末はわかりきっている。


「ありがとう……これでやっと、終わりにできる」


 私は鬼の短剣を大きく振りかぶると――自分の喉に突き立てた。

 もう、死んだって構わないだろう。自分の罪を、一瞬でも紗雪のせいにした、この私は紗雪にとって不要なのだから。


「グッ……ガアアアアアアァァァァ!」


 肉が、細胞が驚異的な速さで破壊される痛みに、私は悪魔の断末魔のような咆哮を上げていた。ただ切り裂かれたり、部分的に壊死したりするのとはわけが違う。全身を繋ぐ糸が一斉に切られ、グズグズに腐って崩れていく。痛みとともに発生する痒みと言ったら、思わず短剣を放り出して、思い切り喉を掻き毟ってしまうほどだ。


 脚が溶け、腕が捥げ、爪が剥がれ、私は床に倒れ伏した。唯一自由な眼を動かして上を見ると、いつの間にかそこには、ひどく慌てた様子のなんとか氏がしゃがみこんでいた。


「誰か! 救急車をお願い!」

「清潔なタオルを持ってきて! 早く止血しなきゃ」


 気がつくと、鬼も地獄の風景も消えていて、私は大勢のご婦人達に囲まれて、救護活動を受けていた。今度こそ死ねると思ったのに、ああ、私はまだ生きねばならないのか。


「も……死なせ……て……」


 ひび割れた唇から零れ落ちる本心。


「なに馬鹿なこと言ってるの! あなたが死んだら妹さんがどんなに悲しむか……」


 何も知らないなんとか氏。彼女と私の背負っている罪は、飴玉と地球ぐらいの差があるというのに、生きろと言えてしまう愚かさよ。


「陽葵ちゃん陽葵ちゃん陽葵ちゃん……死んじゃやだ……」


 焦りと怯えを含んだ囁きが聞こえて、ちらりと横を見てみる。するとそこには、血まみれの私の手を痛いほど強く握り、鳶色の瞳から大粒の涙を流す紗雪がいた。


 紗雪は生きている。なら、私は?

 当然、生きるしかない。まあ、助かればの話だが。


 よし。もう一度、運命の賽に全てを委ねよう。どのみち、両親の殺害とその隠蔽を行なったということがバレてしまえば、私達の人生は終わりだ。私が助かるかどうかも含めて、神に二度目の賭けを挑もうではないか。私が賭けるのは私達の生命。神が賭けるのは私達の未来。私が勝てば、私達の未来は私達のもの。神が勝てば、私達の生命は神に奪われる。一度目は私が勝利した。さて、今回はどうだろうか。


 運命が壺の中に賽を投げ入れ、盆茣蓙ぼんござの上に伏せる。賽が壺の内壁にぶつかり、カラカラと乾いた音を立てた。丁か、半か。確率は五分だ。この一戦が今後の全てを左右すると思うと、緊張で脳が焼けつきそうになる。シュレーディンガーの猫箱ではないが、今あの壺の中には、私達の生と死が混ざり合った状態で存在しているのだ。


 神と私、各々が盆布の上に駒札を重ね、運命が壺を開くのを待つ。既視感のある、厳粛な勝負の場。

 そんな中控えめに異を唱えるのは、今までずっと姿を見せなかった私の衷心。もう十分に生きたから、これが最後の願いになるかもしれないから、壺が開かれてしまう前に、嘘偽りない胸の内を神に打ち明けようと。


 土壇場で示談を持ちかけるなんて、賭博師としてやってはいけないことかもしれない。それでも、たった一度だけ、大目に見て欲しい。己の駒札すべてを差し出して、私は静かに口を開いた。


 ――神よ、もし叶うなら――


 私の生命と引き換えに、紗雪の病を治してください。

 それだけが、私の本当の願いです。

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