#20
自宅が殺害現場になってしまった場合、どうやって証拠隠滅を図るのか。
最もポピュラーな方法は、そう、放火だ。炎で現場と死体を焼いて、死体についている傷や、現場の血痕を誤魔化す。外傷を目立たなくするには、炭化するまで徹底的に焼かねばならない。既に死んでいるから一酸化炭素中毒にはならないが、死亡推定時刻を多少狂わせることくらいはできる。となると、就寝中の出火を装うのがいいだろう。私が強盗殺人犯だったとしてもそうする。私達の仕業だという証拠が無くなれば良いだけだから、死因が焼死ではないと判明しても、まだ勝ち目はある。
問題は、火種をどうするのかということだが……そうだ、家にはうってつけのものがあるではないか。丁度いい。寝煙草からの出火。ありそうな話だ。
そうと決まれば、両親を寝室に運ばねばならない。まず大きい方から運ぼう。そう思うと、私は父の脇の下に手を入れ、ずるずると引きずり始めた。重いといえば重いが、運べないほどでもない。父が痩せていたのが幸いだ。
少し動くたびに死体の傷口から血液が流れ、床に赤い線を引く。今日ほど両親の寝室が一階で良かったと思うことはない。七十キログラムもあるものを持って階段を登るのは、流石に辛い。そのまま、なんとか寝室に辿り着いた。父をベッドにドサリと寝かせると、母も同じように運び、父の隣に寝かせた。
ちらり、と両親の死体を観察する。父の喉は、巨大な鉤爪が掠ったかのように横一文字に切り裂かれていた。首の薄い皮がだらりと捲れ、筋肉がすっぱりと切断されている。スロートスラッシュというやり方だ、きっと、背後から突然襲われたのだろう。対する母は、紗雪の一撃を正面から食らったようで、喉を一刺されている他、右胸にも一箇所の刺し傷、急所を庇った際についたと思われる比較的浅い傷が両腕にあった。紗雪は父を殺した後に、母に包丁を向けたということだ。意図したのか偶然なのかはわからないが、賢い選択だと思う。やはり、男性を殺害するなら不意打ち、もしくはスタンガンや薬物などの小道具が必要だろう。にしても、武器を持っているとはいえ、あくまで健康体で、身長も大きい母に無傷で勝利するなんて。紗雪は案外戦闘のセンスが良いのか、それともまぐれか。この件が片付いたら、一緒に護身術でも習おうか。
次に、紗雪のワンピースを回収した後、煙草がしまってある棚を漁り、母のお気に入り……ガラムとかいう煙草を取り出す。この煙草には確かクローヴという香料か何かが入っていて、とてつもなく甘ったるい匂いがするのだ。しかも、そのクローヴのせいで、吸っている最中もバチバチと火花が飛ぶらしい。今回はそれを利用させてもらう。
そして、ベッドの脇に屈んで膝をつき、母の指にガラムを挟もうとしたとき。
死んでいるとばかり思っていた母の手が突然動き、私の手首をがしりと掴んだ。
「ひ……まり……たすけ……て……」
驚いて顔を上げると、母は紗雪と同じ色の瞳で私を見つめ、救いを懇願していた。赤く裂けた喉を必死に動かし、ヒューヒューと浅い呼吸音をさせて。普段のきつい性格からは想像できない、弱々しい姿だった。
まさか、まだ死んでいなかったとは。頸動脈が切断できていなかったということか。予想だにしなかったことに少し心臓が跳ねたけれど、まあ、大したことではない。母から溢れ出すものによって、白いシーツは鮮やかに赤く滲み、私の描いた地獄絵図に華を添えている。これだけ出血していれば、もう助けを呼ぶこともできないだろう。むしろ、好都合かもしれない。母の死因が一酸化炭素中毒と判定されれば、もしかすると、母が父と心中を図ったと勘違いする輩が出てくるかもしれないから。
燃え盛る地獄の火炎によって完成されるこの絵画に、人々はどんな物語を思い浮かべるだろう。怨恨の末の心中か、物盗りの偽装か、火の不始末か、或いは。
母がまだ生きていようがいまいが、私のすることは変わらない。放火せずに、単なる無理心中の現場に見せかけるという手もあるが、紗雪の血に汚れた服を処分する手間が増えるし、死亡推定時刻を撹乱できない。それはまずい。両親は、私達が外出している間に死んだことにしなければならないのだ。
母の手を振り解くと、私は躊躇いなくガラムに火をつけ、カーペットの上に放った。この部屋のカーペットは羊毛でできている。まもなく、燃え始めるだろう。出かける前に一度、確認しよう。
ガラムから昇る白煙はやはり、猛烈に甘い匂いがした。こんなものを吸う日本人は、余程の愛好家だけだろう。まあいい。今日だけは、この匂いに感謝している。これのお陰で、私達は逃げ延びることができるのだから。
そう思ってさっと立ち上がり、血のついたワンピースを床に放って、両親の寝室を後にしようとすると。
「ひまりぃ……まって……紗雪は……あの子は……狂って、る……」
枯葉が擦れ合うようなか細い声が、私を呼び止めた。煩わしいが、もう会うこともないのだから、一つ、冥土の土産に教えておこう。私は母の枕元に立つと、ふっと笑った。
「……あはは、お母さん。紗雪が狂ってるって? 知ってますよそんなの」
「な……」
げっそりとやつれた母の顔が、驚きに染まる。やはり知らなかったか。本当に、仕方のない両親だ。我が子の異変に気がつかなかったために、命まで失うことになるのだから。まあ気がついたとして、彼らが紗雪を救えたとも思わないが。
「……前に、佐藤裕太って子が殺されたって言いましたよね。あれ、やったの紗雪です。他にも何人も……紗雪は、人を殺さなくちゃ生きていけないんです」
自分でも意地が悪いとは思うが、つい饒舌に語ってしまう。もう、母が私を傷つけることはないと確信したせいだろう。ささやかな復讐の瞬間だった。
「そういうわけですから、わかったらさっさとくたばってください。では」
そう言って笑うと、私は母に手を振った。鏡など見なくてもわかる。今の私の顔はきっと、悪魔のように醜怪に違いない。人の不幸を喜んでいるのだから、当然笑顔も見苦しく歪む。
「待っ……」
最後の力を振り絞るように、母は腕を僅かに持ち上げた。もう起き上がる力も残っていないのだろう。逃走する心配もない。家というオーブンの中で、丸焦げになってもらう。味見をする鑑識はたまったものではないだろうが。
「……さようなら。今までありがとうございました」
落胆に沈む母の顔を脳裏に刻み付けると、私は両親の寝室を後にした。吃驚するほど躊躇なく。血の繋がった親をここまで冷酷に見捨てられるとは、私の邪気は既に悪魔のレベルを超えてしまっているのかもしれない。
悪魔よりも邪な私は、死んだら一体どこへ行くのだろう。もう、地獄にすら私の居場所はないような気がする。そうしたら、天国と地獄の狭間を永久に彷徨うのだろうか。それも悪くない。ほんの一ミリでも、紗雪の近くにいられるのなら。
後は時間との勝負だ。さっさと血痕を掃除しようと、私は階段下の物置から雑巾を引っ張り出した。居間や廊下への火の回り方が不十分だった場合、現場の撹乱に影響が出てしまうからだ。
聞いた話によると、ルミノール反応を利用すれば、たとえ火災現場でも大まかな血痕の位置くらいはわかってしまうらしい。逆に言えば、そういった鑑定を使用しなければ発見されない。私はそれに賭ける。よって、見てわかるような血痕を残してはならない。血液がこびりついて落ちなくなる前に終わらせようと、私は床や壁、そのほかの調度品を急いで、だが確実に清め始めた。
木製の床を、濡れた雑巾で擦る。大小様々な滴下血痕を拭い、溝に溜まった血塊を掻き出して。血の円板は一度拭えば輪に、二度拭えば斑らのしみに変わる。体外に出てから時間が経ってしまったせいか、それらは暗赤色を通り越して褐色になっていた。お陰で、塗料か何かを拭き取っている気分になれていい。鉄の匂いに目を瞑れば、茶色い絵の具が固まったのと同じだ。
掃除を終わらせると、私は両親の寝室のドアをほんの少しだけ開けて、中を見ることさえせず汚れた布を投げ込んだ。それが終わって一息ついたとき、ちょうど紗雪が準備を終わらせ、二階から降りてきたところだった。
「陽葵ちゃん! 準備終わったよ! 何時に行く?」
繊細なフリルやレースで飾られた白いワンピースに身を包み、真っ白なフェイクファー付きのグレーのコートを羽織って、好奇心で一杯の子供のように目を輝かせている紗雪。余程楽しみなのだろう、その場でくるくると回って、スカートを膨らませてはニコニコしている。右肩にはお気に入りの黒いポシェットを下げ、ハーフアップに結い上げた髪には白いリボンをあしらい、左手には何やら紙袋を持っている。準備万端だ。
「あはは……ごめん紗雪。私まだ何もできてないから、少し待っててくれる?」
すぐに行ってやりたいのはやまやまだが、まだ顔も洗っていないし、髪もボサボサだ。紗雪の横を歩くのだから、身嗜みは清潔にしたい。私がみすぼらしいせいで紗雪が見下されることなど、あってはならないのだから。
「あ……ごめんね。私、自分のことばっかりで……」
紗雪は急に申し訳なさそうな顔になり、肩を竦めて下を向いてしまった。そんなにしゅんとしなくてもいいのに、ああ、やはり紗雪は可愛い。綺麗に纏まっている髪を乱さないように気をつけながらも、その頭をそっと撫でてしまった。
「……大丈夫、すぐ終わるから。顔を上げて、ね?」
「うん……わかった! 待ってるね」
紗雪はそう言うと、ストンとソファに腰掛け、置いてあった新聞を読み始めた。紗雪がよく読むのは科学系のニュースだ。最近、興味を持ったらしい。この調子で、数学も頑張ってくれるといいのだが。
洗面所で顔を洗い、歯を磨きながら髪を整える。鏡に映る私は、どんな顔をしているのだろうか。親を殺し、その身体を荼毘に付したのだ。いつも何も考えずに見ていたけれど、今は、怖くて鏡の中の自分と目を合わせられそうにない。
最低限の整容を終えると、私は階段を登って自分の部屋に入り、服を着替えた。シンプルな黒いスラックスを穿いた後、シャツの上にセーターを重ね、黒いコートを着込んで終わり。地味すぎるきらいはあるが、まあカジュアル過ぎるわけではないし、そこまでおかしくはないだろう。
小さめのハンドバッグを引っ提げて階下に向かうと、私の足音を聞きつけたのか、紗雪はまるで帰宅した飼い主を待ち構えていた仔猫のように、ちょこんと玄関先に立っていた。
「陽葵ちゃん、準備できた? すぐ行く?」
「……うん。でもその前に、戸締りの確認をしてくるから、先に靴履いて待ってて」
「はーい」
紗雪は素直に返事をすると、膝下までの黒い編み上げブーツを履き始めた。紐の締まり具合が気に入らないのか、一から締め直している。あの様子ならあと三分はかかる。その間に両親の部屋と裏口を見てこよう。火がちゃんと燃え広がっているかを確認しなければならないし、捜査の混乱を招くため、裏口の鍵を開けたまま出かけようと思っているからだ。
密室が成立しているかいないかは、この件の推理に大きな影を落とすだろう。隣人に侵入されて消火される恐れもなくはないが、一体この通りの何人が、この家に裏口があることを知っているだろう。設置したはいいものの、滅多に開かれていない換気用のドア。しかも、家を正面から見たときには絶対に見えない位置にある。それに、自分が焼け死ぬ危険を冒して消火活動に勤しむ市民がいるとも思えない。初めからこの試みは穴だらけだ。多少のリスクは、無視するしかない。
両親の寝室を覗いてみると、まずガラムの甘い香りが鼻腔をくすぐり、次に蛋白質が燃えるときに出るガスの臭いが喉を刺した。こうして嗅いでみると、ガラムの匂いもそう悪くはない。亜硫酸ガスよりは遥かにマシだ。カーペットは順調に燃えているようだ。まだ煙はあまり出ていないが、そのうち出始める。母がまだ生きているのか、もう死んでいるのかはわからないけれど、殆ど動いた形跡がないから、このまま放置しておけば焼けてくれるだろう。
両親の寝室を後にすると、キッチンに行き、裏口の鍵を開けた。煙が漏れたことが原因で出火がバレることのないように、換気のために開いていたガラスをずらし、閉める。この選択が吉と出るか凶と出るか。明日の朝にはわかることだが。
取り敢えず、やるべきことは全てやったと思う。だが、この努力が実を結ぶとも限らない。もしかしたら、紗雪と一緒にいられるのは今日が最後かもしれないのだ。
「……紗雪、お待たせ。じゃあ、行こっか」
「うん! 楽しみだね!」
「……そうだね」
履き慣れた革靴を引っ掛け、家の鍵を締めながら交わす、なんの変哲もない会話。一体何回、この場所でそういうやり取りをしたろう。平凡で平和な日常が、ただただ愛おしかった。そんな日々が、ずっと続いていくはずだと思っていた。だがそれは、神の悪戯によって危ういものになった。
人の命を奪って我が物としなければ生きていけない、そんな狂った性質を紗雪に与えるなんて、神は本当に因果なことをする。もしそれを私に移してくれるならば、私はいつでも、裁きの炎の渦にこの身を葬るというのに。この性質のために、紗雪は何度も泣き、苦しみ、生命を脅かされてきた。辛いのは私だけではないのだ。
私はいつまで紗雪を守っていられるのだろうか。毎日毎日、それだけが気がかりだった。いつ切れるともわからない綱の上を渡らされているような感覚に、湧き上がる恐怖を殺しながら、私は必死に生きてきた。
だからこそ、今日がある。今日を紗雪と共に過ごす許可証を持っているのは、私だけだ。
「陽葵ちゃん早く早くー!」
「……はいはい。そんなに急がなくても、スイーツは逃げないよ」
「えー、でもでもー!」
珍しくせっかちになっている紗雪に急かされ、冷たい冬の風に背中を押されながら、私達は駅に向かって歩き始めた。あたりを飛び回る楽しげな足音に心を洗われて、私は少なくとも表面上は、両親のことを忘却の彼方に放り投げたのだった。