#19
今日はクリスマス・イヴ。
清らかな輝きに満ちた朝。部屋を飾るのはツリーやリースではなく、夥しい量の朱殷。解き放たれた天使は神の命に背き、地上を人の血で汚していた。二体の生贄の喉は無残に切り裂かれ、どれだけ祈りを捧げようとも、二度と蘇ることはない。
恐れていたことが、遂に起こってしまった。
折り重なる屍は間違いなく、私達の両親。血祭りに上げられて、永眠してしまっている。まずいことになった。両親の死を隠蔽するのは不可能だし、今までのように知らぬ存ぜぬ我関せずで通すのにも無理がある。一体どうすれば。寝起きの惚けた脳をなんとか働かせようとするけれど、胸を焼く焦燥に酸素を奪われ、私の頭は混乱に燻っていた。
血まみれの包丁を握ったままの紗雪が振り向き、今にも消えそうな淡雪の微笑みを浮かべた。鳶色の瞳に宿る仄白い灯火が小刻みに揺れ、白露の涙と共に流れ落ちる。
陽葵ちゃん、ごめんね。
紗雪は口を開かずしてそう言っていた。本当に謝りたいときこそ、怖くて動けなくなってしまうのが紗雪だ。小動物のように怯え、震えながら私を見つめている。
だが別に、謝る必要はない。紗雪は自分の命を守っただけ。何も悪いことはしていないのだ。責任は、紗雪が供物を必要としていることに気がつけなかった私にある。早く、この窮状を打開する術を考え出さなくては。
そう思い、煤の混じった黒い煙の中、思考の内燃機関を始動しようとする。だが、いつの間にか堆積していた沈殿物が、それを妨げるようにシャカシャカと耳障りな囁きを発した。
もう、限界なんじゃないのか、と。
違う、そんなことはないとその声を撥ね退けようとするけれど、家の中に漂う絶望の香りが息をするたびに体内に侵入し、心に染み付いていく。視界がひび割れ、私の世界は驚くほど儚く、崩れ始めた。
眼を閉じて滅びの景色を遮断し、五月蝿い音を振り切って、必死に思索を連ねる。しかし、もはやそれすらもが、暗黒に侵食されていた。
そもそも、殺人を続けていながら一生逃げおおせるというのが無理だったのか。これから私達はどうなるのか。警察に捕まり、極悪非道の連続殺人犯として国に殺されるのか。わからないわからないわからない……わかりたくない。
袋小路に追い込まれた思惟の中で、たった一つ確かなこと。
それは、私達は生まれてくるべきではなかった、ということだ。
他人の命を奪うことでしか生きられない存在など、この世界には本来不要なのだ。潔く消えればよかったものを、醜く生に執着してしまった。私はもう、罪を重ね過ぎた。後戻りなど、もとよりできるわけもない。構造上後退するという選択肢を持たない、蝶の幼虫のように。
止まることも戻ることも知らず、凄まじい速さで私の希望を食い荒らす、闇夜よりも暗い色をした芋蟲達。彼らは今ここで発生したのではない。私はそれを白く小さな虫籠の中に捕らえ、飼い慣らしてきたのだ。その透明な蓋がうっかり開いたせいで、出てきてしまったというだけ。
私は紗雪の隣から、籠の中の彼らをずっと見ていた。餌もやっていないのに勝手に増え、壊せるわけもないのに籠の壁に身体をぶつける彼らの姿が、ときどき私の闇の化身のように見えた。紗雪には見えない純黒の蟲。それこそが、私の真の姿なのかもしれない。
這い進んでいた細い枝の先は折取られ、行先は遥か下の硬く冷たい地面だけ。落ちたら、かつて私が殺した三島乃恵瑠のように潰れるのだろう。ここを歩み始めたときから、いつかこうなることは明らかだった。私が無意識のうちに、認めないようにしていただけで。
終わりだ。もう私には、死しか残されていない。死んで償えるわけではないけれど、仕方がない。償いきれるようなものではないのだから、せめてこれ以上、この星に迷惑をかける前に生命を断とう。
そう思って、閉じていた眼を開いたときだった。
「陽葵ちゃん……ごめんね。もう、終わりにしよっか……」
いつの間にか、紗雪は私のすぐ前に立っていた。白いワンピースに大きな紅い染みを作り、何か大切なものを失くしてしまったかのように空虚な笑みを浮かべて。
『終わり』にする。その言葉が鼓膜を振動させた瞬間、身体を氷の剣が貫く。心臓まで凍てつかせる、嫌な予感。
時が停止しているのではないかと錯覚するほどゆっくりに、紗雪の手に光る鋭利な銀色が弧を描く。その切っ先がどこに向かっているのかを見切って、私は動いた。さっきまで岩のように頑なだった身体が、反射的に一歩前に踏み出し、紗雪と刃物の間に割り込む。
そのまま勢いに任せて、小さな頭を抱きしめた。迫り来る鋼鉄の刃を受けるべきは、私。死ぬべきはこの私なのだ。紗雪には、生きて欲しい。この世のどこかで幸せに。
そう思ったところで、私は自分の願望に矛盾を発見してしまった。
私が死んで紗雪が生きる。今のところ、その状態を継続することは不可能だ。よって、私が死ぬことは、紗雪を殺すこと。私の死と紗雪の生存は、ほんの刹那しか共存しない。
それに、まだ逮捕されたわけでも、人に見られたわけでもない。活路はきっとある。ならば、死を選択することは、ただの逃げではないのか。本当に紗雪のためを思うなら、私がすべきことは決まっている。そうだ。命ある限り紗雪を守ると、誓ったではないか。両親が死んだ、その程度のことで諦めるほど、私の決意は脆弱だったのか?
断じて、違う。
双龍紗雪、我が光。光があれば、闇が生まれる。こんな簡単なことに、どうして今まで気がつかなかったのだろう。私は生まれながらにして闇なのだ。それで良いではないか。紗雪と常に共にある権利は、私だけのものなのだから。
この世界に光ある限り、私は生きる。築き上げた死骸の山を乗り越えて、紗雪と共にどこまでも。進路がないと言うのなら、今すぐ背に漆黒の翅を纏い、大空へ飛び立とう。真っ白な雲を超え、地平線のその先まで。私達は、死ぬまで運命共同体だ。
「紗雪……大丈夫。私が絶対、守るから」
カシミヤのように柔らかな髪を優しく撫でて、呟いた。今、終わらせる必要などない。二人の楽しい思い出をもっと沢山積み重ねて、死ぬのはそれからにしよう。私達にはまだ、未来があるのだから。そう言い聞かせるように、私は自分自身にかけた呪いを反芻した。
「……っ……」
私の声に心が揺らいだのか、紗雪の新たな涙が胸に沁み入る。首のすぐ後ろに凶器の存在を感じるけれど、不思議と怒りも恐怖も湧かない。自らその前に躍り出たせいもあるだろうが、なんだろう。これが、殺されてもいいほど愛しているということなのだろうか。
もし許されるのなら、今ここで殺されてしまいたい。この想いが、打算で穢れる前に。
「……陽葵ちゃん……」
やがて包丁が床に落ち、控えめな金属音を立てた。紗雪もまた、この逆境を切り抜け、生きようとしている。その徴だ。
そして、それは新たな始まりの音でもあった。聖なる鐘の響を合図に世界の崩壊は食い止められ、光の粒子が時空の罅を完璧に埋めてゆく。終焉の蟲達は再び籠に囚われ、私の胸の中にある。これが再び開くのは、一体いつになるのだろうか。それがずっと先であることを、今はただ、祈る。
取り敢えず、私達は持ち堪えた。落ち着いて考えてみれば、この状況を収拾する策も、一応浮かんだ。危険な賭けではあるが、やらないよりはマシだ。実行しよう。私達の罪を葬り去る、唯一の方法を。
「……ねえ紗雪、お出かけしようか。紗雪が行きたがってた……きらきら……なんだっけ?」
紗雪を抱きしめていた腕を緩め、顔を覗き込むと、私は唐突にそう言った。紗雪の背後に死体があったって、気にしない。今日は楽しいクリスマスなのだ。今年の十二月二十四日は土曜日。街は遊びに出た家族や恋人達で賑わっているだろう。私達も、それに混ぜてもらう。二人殺したのだし、今日はもう平気だろう。私から紗雪にも、クリスマスプレゼントをあげたい。既にチケットはとってある。後は、行くだけだ。
「きらきらメルヘンティックスイーツガーデン! 行く!」
途端、紗雪の表情が明るくなる。久し振りのお出かけで嬉しいのだろう。天真爛漫でとても可愛らしい。この分なら、両親が死んだこともなんとも思っていないだろう。やはり、紗雪にとっての「人間」は、私だけ。そう思うと、口の中が蕩けるように甘く感じた。
これで、私の気合は十分だ。やることは沢山あるが、幸いまだ、朝の七時。多分なんとかなる。いや、必ずなんとかしてみせる。
「……じゃ、お出かけの準備をしておいで。ゆっくりでいいよ。その服は……洗濯機に入れておいて。後で洗うから」
「はーい! わかった!」
紗雪は私の指示に素直に頷くと、長い髪を揺らして、私の背後にあった廊下へ出て行った。
それを確認してから、私の両親だったものを振り返る。家にいるときはいつも昼過ぎまで寝ている彼らが何故、こんなに朝早く起きていたのかは疑問だが、もうどうでもいいことだ。彼らが私に関心を持たなかったように、私だって彼らに関心などない。死のうが生きようが、知ったことではないのだ。
まあいい。さて、始めよう。いつもの白い手袋を嵌めて、私は小さく息を吐いた。