#17
三月の下旬、春休みも終わりに近づいてきた頃。
宿題も早々に終わらせ暇を持て余した私達は、数十分列車に揺られて、隣街に繰り出した。二人で迎える初めての春。嫌味にならない程度に着飾って、私達は同じ歳の少女と同じく、ごく普通にお出かけを楽しんでいた。
だがそれは上辺だけ。このとき既に、紗雪は数人殺していたし、私は共犯者だった。紗雪は私と二人きりで街に出られることを純粋に楽しんでいたようだが、私の方は内心それどころではなかった。ただでさえ人の多いところは苦手なのに、隣には精神に爆弾を抱えた紗雪がいたのだから。
そして、案の定と言うべきなのか、トラブルは発生した。紗雪が発作を起こしてしまったのだ。それも、人混みのど真ん中で。私は当然のように困窮した。こんな人通りの多いところで殺人を犯して逃げ切るなど、ただの中学生に過ぎない私達には不可能だと。
考えた末、私は紗雪を背負って病院に駆け込んだ。しかし、すぐ近くに病院があって本当に良かったと、人心地ついたのもつかの間。
救急救命室に運び込まれたとき、紗雪の脈拍は原因不明の心不全により著しく低下しており、非常に危険な状態だったのだ。心臓マッサージや除細動などの然るべき措置が即座に行われ、懸命な救命活動が続いた。
私はその間中ずっと、病院の硬いソファの上で唸ることしかできなかった。どうすればよかったのか、紗雪の抱える病はやはり私の手には負えないのではないか、これからどうなるのか。答えの出ない問い達が頭のぐるぐると巡り、紗雪を失うかもしれない恐怖と合わさって、私を責め苛んだ。
紗雪がこんな目に遭っているのは、私の力が足りなかったからではないのか。油断して人通りの多いところに行ったせいではないのか。外出自体は紗雪が提案したものとはいえ、たとえ膨れられても、紗雪を止めるのが私のすべきことではなかったのか……考え始めればキリがない。もし紗雪が死んでしまったら、責任を取って私も死のうと思った。自分の生命を賭けて、私は祈った。紗雪と私を生かすか、これから紗雪の犠牲になる人達を生かすか、その選択権を巡って神に勝負を挑んだのだ。
そして、運命の賽の目は私達に微笑んだ。
酸素吸入器をつけられてベッドに横たわっている紗雪を見たとき、心の絡繰に最後の歯車が加わり、ギシギシと軋みながら動き始めた。昨日までの自分が、数ヶ月前にあった出来事を悪い夢として片付け、無自覚に罪から逃れようとしていたことに気がついたのだ。だから甘い考えのまま、平気で紗雪の生命を危機的状況に追いやってしまったのだと。これからは、自分の役目をきちんと果たそう。ようやく腹を括れた。私は絶対に、紗雪の命を護り通す。
その日は一晩中、紗雪の側についていたと思う。ところどころ、記憶がない時間帯があるけれど。もし夜中に紗雪が目覚めたとき、そばに誰もいなかったら寂しがるだろうと思って。そしてやはり、紗雪は夜の十二時頃に目覚めた。眠り姫のようにすやすやと眠り続けていた紗雪の瞼が開いたとき、私は泣いた。物心ついてから、どんなことがあっても一滴だって涙を流したりはしなかったのに、私の涙腺はあっさり決壊したのだ。紗雪は涙に濡れる私を見て、陽葵ちゃんは大袈裟だなあなどと言って笑っていた。誰のせいだと思ってるんだと言いたいところだったが、紗雪は無事だったのだから、それはまあ良しとしよう。
紗雪は一時心肺停止に陥ったものの奇跡的に蘇生し、後遺症が残ることもなく翌日には全快した。あんなに死にそうだったのに、入院したのは一日だけ。簡易検査の後、医師は心不全と呼吸困難の原因を、先天的な軽い病気によるもので完治はしないが、大事にしていれば日常生活に問題は無いと診断した。彼は内科だ。紗雪の心に宿った恐るべき欲望には気がつかなかったらしい。私達には好都合だが。
退院する段になってやっと、両親がやって来た。九州に出張に行っていたのだから仕方がないと言えば仕方がないが、どう考えても遅すぎる。もし紗雪が死んでいたら、死に目には会えなかっただろうに。彼らが私を愛していないことは明らかだが、ときどき、紗雪を愛しているのかさえ疑問に思う。可愛がれるときだけ可愛がって、あとは放置。煙草もやめないし。彼らは紗雪を都合のいい人形か何かだと思っているのではないだろうか、と思うけれど、勿論口には出さない。私は誰にもメリットのないことはしない。
「……お父さんお母さん、心配かけてごめんなさい」
「いいのよ紗雪。私達も来るのが遅れてごめんなさいね。さ、帰りましょう」
母が紗雪の手を引き、病室を後にする。それに父が続き、私もそれに続いた。一見普通の光景。だが、両親が出て行く最後の一瞬私に向けた視線は、隠す気すらない苛立ちと嫌悪が表れていた。紗雪の体調に気を配っておけと言ったのに。お前がついておきながら、何故こんなことになった。本当に使えないな。そう私を責めていた。彼らは私に関心を持ってはくれないけれど、利用することだけは常に考えているようだった。世間体に気を遣ってか、家の外にいるとき私の扱いは表面上紗雪と同等だったが、その実彼らの私への扱いは下女以下だった。家政婦を労うことはあっても、私には礼の一つも言わない。まるで家畜だ。まあいい。私はどうせ、役立たずなのだから。
家に帰ると、疲れたのだろう、紗雪はすぐに寝てしまった。始まったばかりの一日から、眠ることで逃れたのだ。だが、私にはそれは許されなかった。代わりに、長い長い懲罰の一日が始まった。仕方がない。この件は完全に、私の過失だ。私は裁かれ、罰を与えられなければならない。本当は神に裁いてもらいたいところだが、生者の身ゆえその代行で我慢しようと思う。
とはいえ、やはり両親が神罰の代行者というのは納得がいかない。何故、普段紗雪を放ったらかしにしている彼らなどに私が折檻されねばならないのかと、つい思ってしまう。少し考えた末、理不尽に対するこの憤りを抑えることすらも罰の一部なのだと思うことにした。
普段は物静かな父が、声を荒げて怒鳴る。母はそれを静観している。私は正座をして父親の恫喝を聞き流す。弁護士ならもう少し理性的になるべきだろうと言いたいが、そんなことを言うとこの不毛な時間が伸びるだけだ。私は父の拳と母の嫌味を、全て受け止めた。いつもと大して変わらない。違うのは、頰に擦り傷が残ったことくらい。こんなのは半日で治る。どうということはない。
私が両親にここまで毛嫌いされているのが、私が無愛想で屈折しているから、という理由だけのせいではないのを、私はなんとなく知っている。ウラが取れたわけではないので憶測の域を出ないが、私が忌み嫌われている理由を探る手がかりは、私が三歳くらいのときに受けたDNA鑑定にあると思う。
何故そんなものを受けさせられたのか、正確な理由はわからない。だが、あのとき両親は仲が悪く、外泊も多かった。二人とも私に冷たかった。恐らく、夫婦間のトラブルで発生したストレスを、私にぶつけていたのだと思う。どうしてお前はそんな姿なんだと、訊くだけ無駄なことを毎日訊かれた。両親も紗雪も髪や瞳の色が薄めなのに、私だけ炭のよう黒かったせいだろう。顔も似ていないことだし。
夫婦間のトラブルとDNA鑑定、そして、両親のどちらにも似ていない私の容姿。僅かな欠片を組み合わせて私が導いた答えは、母の不倫だった。とは言っても、私が家を追い出されず両親も離婚していないあたり、それは事実ではなくて、私は父と血が繋がっているのだと思う。父が不要な疑惑を抱き、DNA鑑定を強要。鑑定の結果、母は無実だったことが証明され、母は離婚こそしなかったものの、自分を疑った父を恨み、その矛先は疑われる原因になった私に向いた。父は自らの過ちを認めながらも、その過ちの原因になった私を憎んだ……というのが、私の推察だ。六割は想像だが、そこまで間違っている気もしない。双子でも二卵性なら父親が違うことはあり得るし、何より三歳の子供にDNA鑑定を受けさせるなんて、尋常ではない。だがまあ、そのことはもういい。過ぎたことだ。
それよりも私が許せなかったのは、両親がその日の夕方にはまた出かけてしまったことだ。紗雪が倒れた、その翌日くらいそばにいてくれても良いだろうに。いや、彼らが家にいると空気がエンドトキシンやらベンツピレンやらで汚れるから、私としてはいなくなってくれて清々していたが、彼らはほんの少しでも、紗雪の気持ちを考えたことがあったのだろうか。紗雪はいつだって、彼らの帰りを待っていたのに。ひとつ料理を覚える度に、お父さんとお母さんに食べさせてあげたいと言っていた紗雪。その笑顔を思い出すだけで、悲しくて胸が詰まる。あんな健気な娘にこの仕打ち。好きになれないわけだ。
夜になって目覚めたとき、紗雪はやはり寂しがっていた。その紗雪に、私がいるから大丈夫だよ、と言い聞かせて食事を摂らせ、その日は一緒に寝た。もし紗雪の心臓が寝ている間に突然、ことんと止まってしまったらと思うと、一人で寝かせるなどとてもできなかった。二日連続の徹夜だったが、同じベッドの中で紗雪と体温を共有して、その夜の私はひどく、幸せな気分だった。
そしてそれは今日も同じ。風邪をひいているから一緒に寝ることこそできないが、あのとき以上に、心が温かい。智一さんが死んで、胸に風穴が空いたような気がしていたのに、それももう埋まってしまった。現金なものだが、それだけ紗雪が私の中で大きな存在である証だから、否定する気にもならない。
「……おやすみ、陽葵ちゃん」
紗雪は私が寝付くまで微笑みを絶やさずに、そばで見守っていてくれた。白いネグリジェを着て、まるで天使。いや、それ以上の何か。紗雪は神に従属する存在などではないのだから。誰に命じられることもなく出会うすべての人に愛を与え、闇から救い出し、そして根こそぎ奪い去る。優しくて邪悪な、愛すべき狂者。紗雪は天使でも精霊でも妖精でも、ましてや人間でもない。紗雪は紗雪。そういうイキモノ。
「……おやすみ、紗雪」
吐き出した息に微かな声をのせ、幸せな一日に終わりを告げる。紗雪と共に生きる日を与えてくれたことを、神に感謝しながら。
まもなく軀を包み込む温かく甘やかな闇に誘われ、私は埋火が消えるようにゆっくりと、夢幻の世界へ旅立ったのだった。