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Snow White Lunatic  作者: 天童美智佳
Chapter II
16/33

#16

 私達が風呂から上がったのは、五時四十五分のことだった。紗雪が与えてくれた癒しの時は、私には永遠に近いほど長く感じられたけれど、実際には三十分も経っていなかったのだ。


 髪を乾かし暖かい服を着込み、十五分後には家を出た。二人一緒に、傘を差して。目指すのは一本向こうの道にある、私達の家があるところよりさらに人家が少ない通りのゴミ捨て場。歩いて二分もかからない。雨が降っているから誰も窓の外なんて見ていないし、あの通りの住人がゴミを出すのは七時半を過ぎてからだ。早めに家を出て、毎日見回りをしていた甲斐があった。私はそのうち、この町について町長よりも詳しくなってしまうかもしれない。


 天ヶ崎市白鷺町。人口五千人の寒村で、三大都市圏なんて行こうという気も失せるほど遠い。だが、列車に一時間揺られればそれなりの都会には出られるのでそこまで不便はしていない。それどころか感謝している。この町の人間のお陰で、紗雪は生きていけるのだから。


 あっという間にゴミ捨て場についた。烏対策の黄色いネットを捲り、ブロック塀で囲まれたその中にアリスの袋を放り込む。その中身ゆえにとても軽いそれはコンクリートの上を転がって、カサリと寂しげな音を立てた。


「……さて。これで大丈夫だよ。行こう、紗雪」

「……うん」


 心なしか、紗雪の声が暗い。袋を投げたときに、つい見せてしまった感情の揺らぎに気がついたようだ。何か訊かれるかもしれないが、徹底的にシラを切ろう。智一さんのことについて、紗雪は何も気にする必要がない。全て、私が選んだことなのだ。


 二時間後には、あの袋はゴミ収集車の中で引き裂かれ、バラバラになっているだろう。その中身も。それでいい。私と智一さんを繋ぐものがもう何も無くても、私は犯した罪の重さを忘れない。死んでこの身が朽ちても、決して。


 私は私が殺した人間のことを、絶対に忘れられない。よくよく考えてみれば、これも呪いの一種だ。私が自分でかけたわけではないというだけで。死してなお効力を失わない点では、私と紗雪にかかっているものより強固なのかもしれない。


 佐藤裕太の葬式が執り行われたあの日、私は一つだけ、紗雪に嘘を吐いた。


 そう、この私が、『ずっと』紗雪と一緒にいるなど、無理に決まっているのだ。


 罪がある私は地へ、罪がない紗雪は天へ、私達は死と同時に引き裂かれる運命にある。嘘を吐いたのは、それを紗雪に悟らせないため。私が一緒に行けないことを知ったら、紗雪はきっと、神に与えられた翼を自らもぎ取ってでも、私について来ようとしてしまう。こう言ってはなんだが、紗雪は多分、地球上の誰よりも私を愛してくれている。私のために天国への切符を手放す紗雪が、容易に想像できてしまうのだ。


 しかしそれは、私の望む結末ではない。地獄の業火に焼かれ、もがき苦しむ紗雪を見るくらいなら、一人きりで消えてしまった方がマシだ。だから、私は隠す。私の罪悪感を。


 家に入ると、朝食を作るから少し休んでて、と紗雪に言われた。お言葉に甘えて、ふわふわのガウンを羽織り、ソファに寝そべって目を閉じる。あっという間に末梢が熱くなり、私は睡魔に飲み込まれた。こんなに寝つきが良いのは久し振りだ。証拠品を家から追い出して、ホッとしたのだろう。外の状況にこんなに安直に感情が動いてしまうあたり、私はまだまだ未熟なようだ。


 しばらく夢と現の狭間を彷徨っていると、ご飯できたけど、食べられる? という優しい声に揺り起こされた。うん、と短く返事をして起き上がり、のそりのそりと動いて食卓につく。朝食は鶏肉と生姜の雑炊だった。塩味は薄めだけれど、出汁が効いていて美味しい。生姜で身体も温まる。病人にぴったりだ。紗雪のことだからリゾットでも作るかと思っていたが、私に合わせてくれたということか。向かいでは紗雪がニコニコしながら私の方を見ている。何か、言ってやらねば。


「……紗雪、ありがとう。すごく美味しい」

「ふふっ、良かった。陽葵ちゃん和食が得意だから、私の味付けじゃダメかなって思ってたんだけど、気に入ってもらえたみたいで」


 どうしたってどこか無愛想になってしまう私の感想にも、紗雪は屈託のない笑みを零す。ささやかな自虐、その中に何の他意もないのを、私はよく知っている。それでも、捨て置くことなどできない。紗雪はいつだって、自分に自信を持つ資格があるのだから。


「……そんなことないよ。紗雪の作るものなら、なんだって美味しいもん」

「そそっ、そうかな? なんか照れちゃうよ、もー」


 だが、そこで自信満々にならないのも、紗雪の良いところなのかもしれない。その謙虚な姿勢は、誰からも好かれる理由の一つなのだろう。しかも、頰を赤く染めて照れ笑いを浮かべる紗雪の可愛さは格別だ。いかん、ノックアウトされてしまう。


 朝食を済ませてから、ふと時計を見るともう七時だった。そろそろ頃合いか。学校に連絡しよう。


 電話機に学校の事務室の番号を打ち込み、二人とも風邪をひいて熱を出したので休む、と連絡を入れる。私は普段、優等生だ。成績は常に一位だし、教師に対しては非常に従順に振舞っている。そのためか、微塵も疑われることなく欠席連絡は受理された。普通は、親御さんに代わってくださいなどと言われるのだろうが、それも無かった。まあ言われても、仕事でいませんと言うだけだが。


 両親は最近特に忙しいようで、下手をすれば一週間も帰って来ない。殆ど、紗雪と二人暮らしみたいなものだ。これは法律的に両親と同居していることになるのか、それは疑問だが、私にとってはありがたい。両親が家にいるだけで息が詰まる。それは心理的なものだけが原因ではなく、彼らが愛煙家のせいもあるだろう。臭くて仕方がない。紗雪が喘息持ちだというのに、彼らは煙草をやめられないのだ。弁護士として社会的には成功したかもしれないが、娘の病気のために禁煙すらできないなんて、人間として屑だ。しかも、紗雪の身体に悪いから煙草はやめて欲しいと言ったら、殴られた上真冬の寒空の下に追い出された。分煙してるんだから平気だ、お前は黙っていろと言って。彼らは何もわかっていない。煙草を吸った人間が同じ空間にいるだけで、紗雪に害が及ぶというのに。紗雪は紗雪で、両親を苦しめたくないからと言って我慢してしまうし。八方塞がりだ。


 そのことはまあ、一旦置いておく。私にどうにかできることではないからだ。できるのは空気清浄機を稼働させ、換気扇を回すことくらい。今日は休もう。昨日一人殺したのだし、しばらくは紗雪の持病も沈静化するだろう。後は、一ヶ月の様子見の後、私の理論が正しかったかを評価しよう。勿論、もしもの時のために、第二、第三の標的に目星をつけてある。もう絶対に、私の力不足で紗雪を死の淵に追いやるようなことがあってはならない。


「……なんかさ、あのときと逆だね」


 紗雪が仰向けにベッドに横たわっていた私の額に固く絞ったタオルを乗せてくれたとき、私はつい呟いた。別に今回のことは紗雪の力不足などでないのだが、ただ単に、紗雪が私を看病している状況に対して、素朴な感想を抱いたのだった。


「……そう……かな? 陽葵ちゃんに比べれば、そんなにすごいことはしてないと思うけど……」


 『あのとき』がどのときなのか、紗雪はすぐに思いついたようだった。苦しかったろうに、だが今の紗雪は、全くもって辛そうな顔はしていなかった。生死の境を彷徨ったのにこんなに呑気なのは、やはり死に対する恐れのなさからなのだろうか。


 しかし。たとえ紗雪にとってそれほど恐ろしいことではなくても、私にとっては死ぬほど惨いことだ。思い出すのも痛ましい、ある春の日のことだった。

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