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Snow White Lunatic  作者: 天童美智佳
Chapter II
15/33

#15

 悪夢から目覚めた私を迎えたのは、最愛の妹の啜り泣きと、見慣れた家の天井だった。玄関の扉から差し込む暁はクリーム色の壁に橙を差し、体内時計の狂った私に大まかな時刻を教えてくれた。


「……ぐすっ……陽葵ちゃん……陽葵ちゃん……」


 紗雪が泣いている。守ると決めたのに、私は紗雪を泣かせてばかりだ。早く、安心させてやらなくては。そう思って、私はなんとか毛布から腕を抜き取り、紗雪の湿った髪を撫でた。


「……紗雪……泣かないで。私、もう大丈夫だから」


 家にいるということは、紗雪が私を家まで運んでくれたということだ。こんな小さな身体で、重かったろうに、本当によく頑張ってくれた。気づかない間に、紗雪は少し逞しくなっていたようだ。


「陽葵ちゃん! よかった……死んじゃうんじゃないかと思った……」

「……死ぬわけないでしょ。約束したんだから。ずっと……一緒にいるって」


 安心して更に泣きだす紗雪の背中をさすってなだめ、(くだん)の呪文を唱える。紗雪は結局のところ、嬉しくても悲しくても泣くのだ。別に止めなくてもいい。その胸の中が幸せでさえあれば。


「……うん。そうだよね」


 銀の雫を瞳に浮かべたまま、紗雪が微笑む。いつものように、神々しく清浄な微笑。私が一番好きな紗雪の表情。勿論、怒った顔も泣いた顔もかわいいけれど。見ているだけ、想うだけで幸せになれる、私の宝物だ。

 まだ少し、身体が熱い。頭も冴えない。だが、いつまでも寝ているわけにもいかない。証拠品の始末が済んでいないし、学校だって休むわけにはいかない。智一さんの死と私達を結びつける要素は、徹底的に排除せねば。


「……私のこと、紗雪が運んでくれたんだよね……ありがとう。でも、もう平気だから……」

「ダメだよ! 陽葵ちゃん、風邪引いてるんだから今日はお休みしなくちゃ」


 起き上がろうとすると、先回りして却下された。紗雪は完全に私の考えを読んでいる。いつの間にそんな超能力を身につけたのか、それはさておき。


 紗雪の言う通り、今日は休んだ方がいいのかもしれない。無理をして体調不良が長引けば、日常生活に支障が出てしまう。やむを得ないか。だが、紗雪を一人で学校に行かせるのかと思うと、少々心配だ。別に、私がいないことで殊更に悪影響が出るわけではないが、学校にいる間に発作が起こったらと思うと、そう簡単に首を縦には振れない。


「大丈夫! 私もお休みするから。同じ家に住んでるんだもん、同時に風邪を引いたって、別におかしくないでしょ?」


 そう言ってにこりと笑う紗雪。どこまでもお見通しのようだ。まあ確かに、紗雪も休むと言うのなら、私のほうで休むのを躊躇う理由はもう無い。だが、自分で仮病を提案するとは。少し、悪知恵が働くようになったか。私に比べれば可愛いものだが。


「……わかった。休むよ。でも、後始末だけはさせてね。今、何時?」

「えーっと……五時十五分だよ」


 紗雪が玄関に置いてある小さな木製の置き時計を見て言った。良かった。思ったほど時間が経ってはいなかった。智一さんが見つかるまでにあと三、四時間はある。雨合羽はどこかで燃やしてしまえばいい。さて、どこで燃やそうか。それとも、思い切ってゴミに出してしまうか。今日は不燃物の日だし。いや、もとより不燃物の日を狙って犯行に及んだのだが。


「……ひっくしゅん!」


 少し考え事をしていたら、紗雪が小さくくしゃみをした。そう言えば、紗雪の髪はまだ半乾きだ。短いせいか、私の髪は乾いているけれど。多分、自分のことを後回しにして私を介抱してくれたのだろう。服も水浸しの黒いジャージではなくいつものパジャマになっているし、身体の所々が不自然に温かい。カイロでも貼ってあるのだろう。湯たんぽかヒーターでも使えばいいのに、面白いことをする。だが、紗雪が私のためを思ってしてくれたことだと思うと、笑う気になどならない。兎に角、今は紗雪の身体を温めてやらねば。


「……紗雪。雨の中に長いこといたから、寒かったでしょ。お風呂に入っておいで。私は寝てるから」


 当然、すぐに寝るわけはない。雨合羽の始末が先だ。ところで、雨合羽はどこに行ったのだろう……と思っていると、それは近所の大型スーパーマーケット「アリス」のビニール袋に入ってドアノブにぶら下がっていた。紗雪が既に纏めておいてくれたようだ。さて、捨てるか燃やすか。


「うん、わかった……でも陽葵ちゃん、それ、一人で始末しよう……なんて思ってないよね?」


 紗雪がそう言って指差しているのは例のアリスのビニール袋。今日の紗雪の鋭さは異常だ。それだけ気にかけてくれているということか。しかし都合が悪い。どうしようか。


「あはは、大丈夫だよ。後で、一緒に捨てに行こう」


 一瞬考えて、私はそう答えた。こうなっては仕方がない。アリスの袋に入ってしまっていることだし、何食わぬ顔をしてゴミに出そう……家から少し離れたゴミ捨て場に。ゴミの収集は八時頃。まだ時間がある。六時前に出しに行けば、誰にも姿を見られずに済むだろう。とはいえ、油断は禁物だが。


「うん! じゃあ、入ってくるね!」


 紗雪は私の言葉に満足したようで、そう言って脱衣所の中に消えた。と思った次の瞬間、閉じたばかりの引き戸は勢いよく開かれた。


「そうだ! 一緒に入ろうよ! 陽葵ちゃんだって、ちゃんとあったまったほうがいいもん」

「ふえっ?」


 想定外の提案に、素っ頓狂な声が出てしまう。中学二年生にもなって一緒に風呂……姉妹なのだから別にまずいことではないが、気まずいといえば気まずい。しかし、私も温まったほうがいいというのはその通りかもしれない。冷えは健康の大敵だ。熱があるからといって、むやみに冷ませばいいものではない。熱すぎるお湯に浸かるのは良くないが、温まることは必要だろう。悪天候の中を徘徊してきた私達が寒がっているだけで、家の中の気温が特別低いわけではない。保温性の高い服も毛布もある。湯冷めしないように気をつければ、入浴に問題はないはず。だが、もし紗雪にうつしてしまったらと思うと、やはり躊躇してしまう。


 とはいえ、あまりゆっくりしているわけにもいかない。二人でささっと済ませたほうが時短にはなる。紗雪に先に湯船に入ってもらえば平気か。バスタオルを別にすれば、感染リスクはかなり下がると聞いたことがある。迷っている暇があったら、意地を張らずにさっさと入って、外出の準備をしたほうがいい。この調子だと、冬用のガウンを着る羽目になりそうだが。


「……わかった。紗雪が先に湯船に入ってくれるなら、いいよ」


 私はそう言って毛布から抜け出した。案の定、身体はカイロだらけだ。足の裏にまで貼ってある。やり過ぎな感じは否めないが、そんなところも可愛い妹だ。


「やったぁ! じゃあ、先入ってるね。すぐに来てよ!」

「はいはい」


 私と一緒に風呂に入れるのがそんなに嬉しいのか、紗雪は黄色い歓声をあげ、今度こそ脱衣所の扉を閉めた。続いて、給湯システムが追い焚きを始める音が聞こえ始めた。もう五分ほどで湯船が温まるだろう。私はそれまでに、アリスの袋の中身を検めなければならない。


 自分の部屋から薄手の布手袋を引っ張り出し、しっかりと嵌める。念には念を入れて、指紋を残さないためだ。チェックするのは、中に入っていなければならないものが全て入っているか、血が付いていないか、毛髪などが混入していないか、などだ。だが、紗雪がこれを素手で触っていたとなると、話は別だ。場合によっては、燃やすことも考えなくてはならない。だが燃やした場合は、近所に野焼きをしていた痕跡が残ってしまい、嫌疑をかけられる要因になりかねない。やはり捨てるべきか。智一さんが見つかる頃には、これはとっくに清掃工場のゴミピットの中にあるだろうし。流石の警察も、数十トンのゴミ全ての中からこれを発掘するのは不可能だろう。アリスで買い物をしていない人の方が、この地域では珍しいのだから。


 色々と考えながらも、中に入っていなければならないもの……雨合羽二枚、ウェットティッシュ一枚を確認する。次に、袋の中にわかりやすい痕跡がないかを調べる。何もない。なら、多分大丈夫だ。袋の口をしっかり縛れば、見た目はただの家庭ゴミでしかない。よし、これは捨てるとしよう。水色の麒麟のマークがついた半透明の袋の口を固く縛り、もう一度玄関にぶら下げる。何故あのスーパーマーケットの名前がアリスで、麒麟がトレードマークなのかは謎だ。動物をモチーフにするなら兎にして欲しい。


 さて、そろそろ五分だ。早く行かないと、紗雪に怒られてしまう。手袋を素早く机の中に戻し、新しく着替えを準備すると、私はゆるゆると服を脱いで風呂場に入った。


「あ、陽葵ちゃんやっと来た! 私もう洗い終わったから、どうぞ!」


 もわっとした湯気とともに、紗雪の明るい声が私を迎える。冷えた身体に染み渡ってゆく、温かな感覚が心地よい。しかし、もう終わっているとは、紗雪の風呂も早くなったものだ。いつもは長々と一時間も入っているのに、私のために急いでくれたのか。


 勧められるままプラスチック製の風呂場用の椅子に座り、肩につかないほど短い黒髪にシャンプーをつけ、いつものようにごしゃごしゃと洗う。すると、浴槽でのほほんと寛いでいた紗雪が慌てて出て来た。


「もー陽葵ちゃんたら、もっと丁寧に洗ってあげなくちゃ、綺麗な髪が可哀想だよ!」


 そう言って私の後ろに膝立ちになって、私の髪を優しく、頭の薄い筋肉を揉み解すように洗い始めた。紗雪の繊細な指先が頭皮を掠める度に、背筋にぞくっとするような快感が走り、思わず溜息が漏れてしまう。紗雪は本当に、心身ともに人の扱いが上手だ。どうすれば人が喜ぶのか、生まれながらに熟知している。凄い才能だ。私なんかの髪にそんな丁寧な手入れをする価値などないが、折角の好意だ、有り難く受け取っておく。ここで本心を口にしたところで、何のメリットも無い。


「……ありがとう、紗雪」

「ううん、いいのいいの! さ、流すよー、目瞑っててね」


 シャワーで湯をかけられて、頭から泡が流されていく。ふわふわの泡が身体を滑り落ちていく感触は、滑らかな羽根に撫で下ろされているかのよう。久しぶりに感じた身体が蕩けるような感覚に陶酔して、私はいつの間にかうとうとしていた。アリスの袋の投棄が済んでいないのにこんなにリラックスしてはいけないと思ってはいたが、知らず知らずのうちに溜め込んでいた疲労に足を引かれ、安寧の海に溺れて。


 私が酷く疲れていることがわかったのだろう。紗雪は私の前にしゃがみ込むと、何も言わずに私に温水をかけ、いい匂いのする泡で全身を清めてくれた。頭の先から足の爪先、耳の裏に至るまで。私はされるがまま紗雪の慈愛を享受し、ひとときの癒しに身を委ねた。


 甲斐甲斐しく私の世話をしている紗雪は、その間ずっと女神のように微笑んでいた。いつも白百合の花弁のように白い肌は桜色に、唇は真っ赤な血の色に染まっていた。長い睫毛に下りた露がきらきらしているのが、靄の中でも見えた。とても、綺麗。こんな美しい少女とこの私が双子なんて信じ難いことかもしれないが、私達は確かに血縁関係にあるのだ。


「さ、陽葵ちゃん、湯船に入ろう?」


 紗雪に支えられて、お湯の中に身体を沈める。熱過ぎずぬる過ぎず、丁度いい水温。このまま眠ってしまいたい。よく考えてみれば、一日二時間睡眠を一週間連続で続けるというのが無茶だったのだ。どんなに体力があったって、それでは身体が保たないに決まっている。これからは、もっと無理のない計画を立てなくては。取り敢えず、張り込みはもうやめよう。カメラを仕掛けて撮影しておけば、ほとんどの場所は何とかなる。電力源が問題だが、それはおいおい考えよう。今はまだ、大容量バッテリーを使うことくらいしか思いつかない。


 にしても眠い。気がついたら、紗雪は私と一緒に湯船に入っていた。止めなければと思うのに、気怠くて唇を動かすことさえできそうにない。幸い、家の浴槽はキッチンと同じで無駄に大きくて、二人で浸かるのに支障はないけれど、そういう問題ではないのだ。


「……陽葵ちゃん、気持ちいい? お湯、熱かったりしない?」

「……ん……」


 紗雪がわざわざ私の背中を支えながらしてくれた質問なのに、返事ができない。大丈夫だよ、とちゃんと言いたいが、首を僅かに前に傾けるのが限度だ。不甲斐ない。この歳になって、まだ自分の身体の限界すら知らないのだから。


「そっか。よかった」


 何も言わなくても、紗雪は私の意思を理解したようだ。私が溺れないように、ずっと支えていてくれる。身体に触れている紗雪の肌の柔らかさを感じながら、私はゆっくり、瞼を下ろした。


 湯船の中で対流する温水に揺蕩うまま、身体から力が抜けていく。呼吸の度に肺に侵入してくる重く甘いものが、血液に溶け込んで全身を麻痺させていった。身体から魂が抜けるときはこんな感覚がするのではないかと思うほど安らかな気分にさせられる、天国の疑似体験。偽物でもいい。私達だけの閉ざされた世界では、これが本物なのだから。


 身体から完全に力が抜けた、その後のことは……あまり、憶えていない。

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