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Snow White Lunatic  作者: 天童美智佳
Chapter II
13/33

#13

 立ち上がって、汚れた雨合羽を雨水ですすぐと。私は紗雪からカッターを受け取っていつものように指紋を拭き取り、ぬかるんだ地面に捨て、もう息をしていない彼の身体を見下ろした。胸や首からたらたらと血を垂れ流し、目を半開きにしたまま天に召された彼を。


 彼は何故、ありがとうなどと言ったのだろうか。佐藤裕太も、その前の犠牲者達も、私を恨むことしかしなかったのに。何か、死にたいわけでもあったのだろうか。そんな風には見えなかったが。まあいい。彼はもう、この世にいないのだから。


 そう思い込もうとしているのに、先ほどから頭を侵略しつつあった疼痛が、それを許さない。心臓の拍動のたびに痛みの波が押し寄せ、どんどん酷くなる。徐々に視界も霞んできた。ここ数日の無理が祟ったのだろうか、身体も石のように重たい。彼が死んで、張り詰めていた緊張の糸が切れた途端、急に自分の体温が、身体の中で炎が燃え盛っているのではないかと思うほど熱く感じるようになった。もしかすると、風邪をひいて熱を出しているのかもしれない。呼吸をするのも一苦労だ。このままでは、まずい。


 しかし、この重苦しい気分は、体調不良だけが原因ではないようだ。早くこの場を去らなければ、そう頭では思っているのに、彼のそばから離れられない。もう、死体なんて見慣れてしまっているはずだったのに。

 何故、彼を前にすると、こんなにも胸が苦しいのだろう。


 彼を生贄に選んだのは、私なのに。


 紗雪以外で、私に微笑みかけてくれた初めての人間だからだろうか。そういうことか。私はまだ、他人に認められたいという欲求を捨てきれていないのだ。だから、自分を認めてくれた人間に執着したがる。実にくだらない。私はもう、誰に認めてもらう権利もないのだから。


 私に彼の死を悲しむ資格などないが、悲しくないと言えば嘘になる。故に、彼を殺したことに後悔はない。


 あのまま彼との交際を続けていれば、私はいつしか自分の背負った罪の重さを忘れ、人間に戻りたいなどと、烏滸がましいにもほどがある願いを抱き、紗雪を見捨てたかもしれないのだ。

 この悲しみは、私がその危機から脱した証。なくてはならないものだ。

 つまり私は、紗雪を切り捨てようとする心を排除するために、無意識のうちに、彼を葬ることを選んだ。そのことに、たった今気がついた。やはり、あのとき紗雪と交わした約束は、救いようがないほどに強固な、呪いだった。私はもう、紗雪以外に大切な人を作ることができなくなってしまっている。たとえ作っても、殺してしまうのだ。彼にそうしたように。これを呪いと言わずに、何と呼ぼうか。


 だが、そのことに悔いはない。その呪いは、一番大切な絆を決して見失わないための予防線なのだから。今回は、それが功を奏したというだけ。大したことではないのだ。

 そう強引に結論を出し、僅かに残っていた彼への感情を、消す。初めから無かったものとして。


「……陽葵ちゃん、大丈夫? どうかしたの?」


 私の様子がおかしいのに気がついた紗雪が、心配そうに私を見上げている。意識してはいなかったとはいえ、私はほんの一時的にでも、この子を捨てようとしていたのだ。なんと愚かな。誰を殺すことより、紗雪を失うことのほうがよっぽど恐ろしいのに。紗雪がいる幸せに慣れ、ありがたみを忘れかけている私がいたということだ。

 だが、もう大丈夫だ。私を惑わすものはいなくなった。もう、他の誰かを好きになることもない。紗雪以外に私が愛した人の末路は、死しかあり得ないのだから。そうまでして人を好きになろうなどと、誰がするだろうか。

 これから、私達はどこまでも、二人の世界を築いていく。彼はその礎として、私の中に生き続ける。忘れることのできない教訓として。


「うん……大丈夫」


 もう一度彼のそばにしゃがみ込み、彼の瞼を、手の甲でそっと閉じさせる。唇の端からは血が溢れていたけれど、彼の顔はこれまで見た死顔のどれよりも穏やかで、満ち足りた微笑みを浮かべていた。彼には、よく似合う表情だ。


「……さあ、行こう、紗雪」

「……うん……」


 そうして、私達は今度こそ彼に背を向け、公園を後にした。

 びっしょり濡れた五気圧防水の腕時計を見てみると、三時十五分。たったの十分しか経っていない。だが、そのたったの十分のうちに、彼の人生は幕を閉じたのだ。これも、いつものこと。そのはずなのに、何か大切な部品が落ちてしまったかのように、身体がうまく動かない。胸に鋼鉄のバンドでも巻かれているのではないかと思うほど息苦しい。指先の感覚がない。視界がみるみる、闇に蝕まれていく。

 こんなところで倒れてはならぬ。今までの努力をフイにする気か。そう自分を奮い立たせてみるけれど、それももう、限界だった。


 砂利道を抜け、アスファルトの舗装路面に出たところで膝が笑ってしまい、私は地面に倒れ込んだ。唯一生きていた足の力が抜け、立っていられなくなってしまったのだ。雨に濡れた硬い路面が、私の熱を持った身体を冷却してゆく。肺炎になってしまうかもしれないけれど、このまま眠ってしまいたいと思うくらい意識が朦朧としていた。


「陽葵ちゃん! 陽葵ちゃん! どうしたの!?」


 紗雪は、突然崩れ落ちた私を見て、ひどく狼狽しているようだ。喋るのが速くなっているし、声にいつにない緊張感がある。その声のする方に手を伸ばしてやりたかったけれど、悲しいかな、指一本も動かせそうにない。できるのは、蚊の鳴くような声で、途切れ途切れに話すことだけ。


「……さ、ゆき……私のことは、放って……家に、帰りなさい……」

「やだっ! 陽葵ちゃん、すごいお熱出てるもん! 放っておくなんて……できるわけないでしょ!」


 額に置かれた紗雪の小さな手が、ひんやりしていて気持ちがいい。お陰で、頭痛が少し和らいだ気がした。

 本当は、ずっとこうしてもらっていたい。けれど、そんなことをすれば紗雪が肺炎になってしまうかもしれない。それは紗雪の健康にとって良くないし、拗らせて病院送りになれば、私達が肺炎になるようなことをしていたということが明らかになり、疑われる原因になるかもしれない。最悪、私は疑われても構わないが、紗雪に容疑がかかるのはまずい。


 この問題を一挙に解決する方法は、私が起き上がって自分の足で帰ることなのだが……どうやらそれは無理そうだ。もう、手足がどこにあるのかわからないほど、身体の感覚がなくなってしまっている。私と紗雪は身長の差が十センチメートルもある。無論、私の方が高い。その上、筋肉質なせいで、見た目よりも体重が重い。ひ弱な紗雪に、この私を家まで運べというのは無理な相談だろう。私を置いて一人で帰ってもらう、それが一番なのだ。


「……大丈夫だから……早く……紗雪……」

「陽葵ちゃん……? 陽葵ちゃん、しっかりして! 陽葵ちゃん!」


 薄れゆく意識の中で、何度も私の名を呼ぶ紗雪の声が聞こえた。

 ……ごめんね、紗雪。

 気を失う最後の一瞬、脳裏に浮かんだのは、何故か……かつて見た、智一さんの笑顔だった。

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