#12
あれからまたしばらくが経ち、梅雨の時期になった。
今夜、私達はまた、新たに罪を重ねる。だが今回は、発作を止めるためではない。
発作を未然に防ぐ、その方法を模索し、試行する。そのための、いわば実験だ。これがうまく行けば、紗雪は発作を起こさずに済むようになり、持病に脅かされることのない、健やかな毎日を送ることができるだろう。
代償は、殺す必要が無かったかもしれない人間の命が、確実に失われること。
その罪がどれだけの重さを持つのか、私は知っている。それでも実行する。既に目星はつけてある。ここ数日、徹夜で調査したのだ。必ず、成功させる。実験の結果は……数ヶ月後にはわかることだ。
これまでのところ、紗雪の発作は、月に約一回のペースで起こっている。つまり、一月につき最低一人が、犠牲になるということだ。
正直、発作が起きた、そのときになって生贄を準備するのは、かなり厳しいものがある。今まで誰にもバレていないのも、運が良かったからだ。
このままでは破綻する。そう思った私はかつて、発作の周期を読もうとした。だが、結果から言えばそれは無理だった。だから、私は発想の転換を図った。
発作に合わせて生贄を捧げるのではなく、生贄を発作の起こる前に周期的に与えてゆくことで、発作の再発を抑制できるのではないか、と。つまりは、予防薬を継続的に投与することで、症状が現れないようにしよう、と考えているのだ。
うまくいくかはわからない。たかが中学生の素人療法だ、失敗する可能性もある。その場合、今日死ぬ彼の命は無駄になるのだ。
でも、それでも。発作の苦しみに喘ぎ、悶え狂う紗雪を見ないで済む可能性が一パーセントでもあるのなら。
私は迷いなく、紗雪を選ぶ。
「……紗雪、行こうか」
「……うん」
そうして私達は、降りしきる雨の中、死神のように闇夜に溶け込んだ。
夜中の二時半、俗に言う丑三つ時。私達は黒いジャージの上にビニール製の長い雨合羽を着て、家を出た。目的地は近所の公園。標的は、三時ごろにコンビニエンスストアの夜勤バイトを終え、自転車で家に帰る途中に例の公園の横を通る、ひょろっとした男子大学生。親元を離れて、近くの国立大学に通っているらしい。住んでいるのは、寂れた古いアパート。ひとり暮らしだそうだ。他の住人は、彼の他には三人しかいないらしい。もう数年で、取り壊されるだろう。
そんな彼を、私が標的に据えた理由。なんということはない、殺す側から見て都合が良いからだ。雨の日の、夜の公園。おあつらえ向きの場所に、自ら来てくれる。おまけにひとり暮らし。格好の餌食だ。
段取りも決まっている。非常にシンプルだ。自転車に乗っていても、徒歩でも構わない。彼が公園の、繁茂し放題の茂みの横を通った瞬間、スタンガンで痺れさせ、引きずり込む。あとは、紗雪に任せればいい。この大雨の中だ、歩行者も自転車も自動車も前しか見ていないし、少々叫んだくらいでは誰にも聞こえない。足跡などは地面を叩く雨粒が消してくれる。昼頃からは晴れるとの予報だ。彼の死体は、散歩に出たお年寄りか、ゴミ拾いに来たシルバーボランティアあたりが見つけてくれるだろう。
茂みの中に潜伏して彼が来るのを待ちながら、ここ数週間のことを思い返す。彼と初めて会ったのは、三週間前、彼が勤めていたコンビニエンスストアでのことだ。
料理中、私はうっかり醤油を切らしていたことに気がつき、急いでそれを近くのコンビニエンスストアに買いに行った。そのときレジ打ちをしていたのが、彼だった。夜の七時。外はまだ、ほんのり明るかったような気がする。
彼は野暮ったい眼鏡をかけていて、貧相な身体つきで声も小さく、はっきり言って男らしくはなかった。だが、薄茶色の瞳やサラサラの髪、ふわっと漂うシャンプーの匂い、何気ない仕草にどこか可愛げがあって、なんとなく、優しそうだな、と思った。
思えば、そのときから私は、彼に目をつけていたのだ。私はそのコンビニエンスストアで些細な買い物をするたびに彼と少しずつ親しくなり、彼の名前や誕生日、住んでいる場所、通っている大学などを、さりげなく聞き出していった。基本的に人と話すのが苦手な私だが、不思議と、彼とは会話がはずんだ。
名前は、森崎智一。十八歳。誕生日は二月八日。実家は埼玉県にあるらしい。大学合格と同時に家を出たそうで、生活費は自分で稼いでいるとのこと。大したものだ。
儀式遂行に必要な個人情報だけでなく、くだらない話もした。教授の冗談がつまらないだの、哲学のレポートのテーマが決まらないだの、自炊して初めて料理の難しさがわかっただの。あまりに楽しそうに話すので、つい長話をしてしまうこともしばしばだった。
彼はかなりの物好きで、質問攻めとは言わないまでも、よく私の個人的なことを訊いてきた。私はそれに対して、学校名以外の殆どを嘘で返した。私が彼に近寄った、そのことがどこかに漏れると、それだけリスクが上がるからだ。名前でさえ、本名の双龍陽葵ではなく、クラスの女子の名前を拝借した。彼はそれをあっさり信じて、鈴木花ちゃんて言うんだ、と言ってニコニコと笑っていた。彼の頭の中は、きっとお花畑に違いない。紗雪にもそういうところはあるけれど。
紗雪には彼のことは言っていなかったが、態度で悟られてしまったようだった。陽葵ちゃん、最近楽しそうだね、何かいいことあった? と訊かれるほどに。紗雪はきっと、私に好きな男子でもできたと思っていたのだろう。だが、そうではない。私は初めから、彼を次なる標的にするつもりで、わざわざアルバイトのシフトを聞き出し、家が同じ方向にあるフリをして通勤経路を一緒に歩いたり、例の公園で雑談したりしたのだ。断じて、彼個人に特別な感情があったからではない。
その証拠に、私は今、蛇のように茂みの中で息を潜め、獲物が通りかかるのを、冷徹に辛抱強く待っている。彼が通りかかったその瞬間、毒牙を突き立て、捕らえるために。私にとって彼は、紗雪に献上するための供物でしかない。
やがて、腕時計の針が三時五分を示し。聞き覚えのある、一人分の、ペースの速い足音が近づいてきた。間違いない、彼だ。彼は歩くのが速い上に、あまり気を遣えるタイプではなかったため、よく置いて行かれそうになったものだ。
そうして、彼の歳の割に幼い横顔が見えた瞬間。
私は茂みを飛び出し、その首筋にスタンガンを押し当て、電気を流した。
声にならない声をあげて崩れる彼を、間髪入れず素早く茂みの中に引き入れ、彼が差していたビニール傘をジャージの袖越しに畳んで、草叢の中に放る。
そして、カッターナイフの刃をチキチキと繰り出し、抜けないようにロックして。
「……はい、紗雪。この人のこと……好きにして、いいよ」
眠いのか、少しぼうっとしていた紗雪にそれを差し出すと。
「……わかった! ありがとう、陽葵ちゃん」
紗雪は月光で微かに光るそれを見るや否や、弾けるような笑顔でそれを受け取り、彼の薄い胸板に向かって真っ直ぐに振り下ろした。
彼の胴体にはあまり筋肉がないのだろう。それは灰色のTシャツを突き破って、あっさりと五センチメートルほども沈み込む。その傷口から滲み出たものが、雨に濡れて黒っぽくなっていたTシャツを、今度は漆黒に染めていく。赤い炎がじっくりと紙を焼くような、静けさと激しさを伴って。
彼はスタンガンの電撃に加え、いきなり刃物で重傷を負わされ、パニック状態に陥っているようだった。口から赤黒い泡をコポコポと吹き出し、眼球を忙しく動かしている。助けでも探しているのだろうか。無駄なことを。この時間帯ここを通るのは彼だけだということを、私は嫌というほど知っている。張り込み調査は、もうこれきりにしたい。
ふと、絶望の涙で潤んだ彼の瞳が、私の瞳とかち合う。真っ黒で、おそらく冷酷な光を宿しているであろう私の瞳と。今の彼の目に、私はどう映っているのだろうか。きっと、氷よりも冷たい、人ではない何かのように見えているのだろう。その通り。私はとっくに人間であることなどやめているのだ。見知らぬ怪我人と紗雪を天秤にかけ、紗雪を選んだあの日から。私は紛うことなき悪魔。死の穢れを司る者。死ねばいずれ、地獄に堕とされる。
吐き出した血に赤く染まりながらも、彼の唇は何かを紡ぎ出そうと、ゆっくり動いていた。大量の鮮血に狂喜する紗雪に胸の傷をグリグリと抉られて、意識が飛びそうなはずなのに。私に何か、言いたいことでもあるのだろうか。呪ってやるとか? はたまた、どうしてとか? そんな断末魔なら、もう聞き飽きている。
個人的に関わりを持った人間の死を経験するのは初めてだ。どうせなら、彼の呪詛を受け止めよう。そう思って彼の傍にしゃがみ込み、いつも以上に無機質な声で問う。
「……なに、智一さん?」
「……っ……は……」
もう、息をするのもままならないのだろう。聴こえるのは、殆どが不規則で無意味な呼吸音だけ。だから私は、彼の唇の動きに注目する。今日の月明かりはひどく頼りなくて、あまりはっきりとは見えないけれど。
「……ふっ……あはは……綺麗……」
彼が懸命に何かを伝えようとしている間も、紗雪は彼の身体の大量出血が期待できる部分だけを狙って凶刃を滑り込ませ、切り刻んでゆく。彼の身体を流れる熱い血潮、彼が最後の瞬間に見せる一瞬の輝きを求めて。
紗雪は心なしか、ナイフ捌きが上達したようだ。前より傷口が綺麗な気がする。当然と言えば当然か。もう六回も、同じようなことを繰り返しているのだから。それに、前より力持ちになった。まだまだ、私には遠く及ばないけれど。このぶんなら、今後紗雪はもっと健康になって、虚弱体質から脱することができるかもしれない。私はそんな日が来ることを心待ちにしている。紗雪と一緒に、思いっ切り身体を動かす、それは私の夢の一つだから。
そんなことを考えている間に、彼の血で赤く染まったカッターナイフが、遂に、彼の首にある大切な血管を切り裂く。瞬間、噴き出した血が飛び散り、私の顔にも一滴、かかった。それは私の体温よりも温く、すぐに冷めてしまう。生命が消え去ろうとしている、その徴のようにも思えた。
彼は仰向けのまま海老反りになって痙攣し、飛び出しそうなほど眼を見開きながら、ただ、私だけを見ていた。彼の頭の中は、疑問や疑惑で埋め尽くされているはずだ。
最初から、殺すためだけに近づいたのか? 何故こんなことをするんだ? 何故、俺を選んだんだ……?
残念ながら、そのわけを丁寧に説明している時間が彼には残されていないし、する必要もない。言えるのはただ一つ。
「……さようなら、智一さん。ごめんなさい。ありがとうございます」
そんな、意味不明の言葉だけだ。彼もきっと、余計混乱したろう。ぶ厚いレンズの向こう、瞳の中に僅かに残った光が、戸惑うようにゆらゆら揺れていた。だが、やがてそれも消え去り。
彼は既に出血多量だ。いよいよ、別れのときが近づいてきた。最後に、その端正な面影を眼の奥に刻み込むため、すぐ近くで彼の顔を見下ろすと。その薄い唇は、よく見ると一定の動きをしていた。
月の光にすら見放された暗い茂みの中、じっと目を凝らして。
『こちらこそ、ありがとう』
それが読み取れた瞬間、彼は動かなくなった。
頰に撥ねた血を洗い流す水が熱かったのは……きっと、気のせいだ。




