俺のネバーランド
ピリリリリリ ピリリリリリ ピr
買ったばかりのきれいな電子時計を雑な手つきで止める。
そして、それをつかみ目の前に持ってくる。
黒い光は、無機質な画面に角張った文字で“12月26日”と表示していた。
ベットから慌てて飛び降りて、自分の体を確認する。
元の、25歳の俺の体だ。
「あー」
声も、低い。といっても、元の低さに戻っただけだが・・・。
人間は、変な生き物だと思う。
自分の手に入らないものばかりをほしがったり、過ぎた時間を取り戻そうとしたりする。
ようするに、“ないものねだり”。
という、俺をないものねだりをしていた。
昨日の夜。
昨日と言っていいのか分からないけれど、“こっちの世界”で昨日の夜。
こんなことを言って、信じてくれる人が何人いるのか、はなはだ疑問だけどあの一晩のことを忘れないように、ここに記しておこう。
これは、寂しいクリぼっちを過ごしていた俺に起こった本当の物語。
そして、俺と家族を繋いだ物語。
12月25日午前11時23分
16年前のこの日、この時、俺の母親は死んだ。
なにしろ小学校3年生のことだから、ぼんやりと記憶はあるもののどんなお母さんだったのか、毎日何をしていたのかなんて思い出すことは出来ない。
今では、教えてくれる人もいなくなってしまった。
聞くことも出来なくなってしまった。
でも母親がいなくなったあとのことは、はっきりと思い出すことが出来る。
姉弟だけで食べたご飯。
朝ご飯は、いつも冷たかった。
家に帰ってきても、誰もいなかった。
親父と話す機会が減った。
親父が、怒るようになった。
一軒家からアパートに引っ越した。
貧乏になった。
嫌な思いを数え切れないほどにした。
つらかった。
持ってきた花をお墓の前にたむける。
もう、半年に一度ほどしか来なくなっていた。
花は少し枯れてきているものの、まだ咲いている。
まるで自分はまだ生きられると主張するように。
俺の母親も、そんな風に思ったのだろうか。
右のお墓に移動する。こっちは、2年前に死んだ親父のお墓だ。
親父が死んでしまったから、母親のことを聞く人がいなくなってしまった。
俺には、姉と弟がいるけど姉は俺とほとんど年の差は無く、弟は俺よりも小さい頃のことなのだから、覚えているはずはないだろう。
もっとも、聞くタイミングが分からない。聞く、理由もない。
きれいに掃除してから、こちらにも花をたむける。
親父の墓の花は、まだきれいだった。
母親と親父のお墓に置いてある花がきれいなのは、姉か弟が来たからだろう。
さて、こんなところにずっといるわけにもいかない。
もう少ししたら、会社へ出勤しなければ。
じゃーな、親父。あと、俺の母親。
12月25日午後9時01分
今日は、有休を使う奴が多くて仕事が大変だった。
みんな、大切な人がいるからなんだろうな。
俺には誰もいない。
母親や親父も死んだし、姉や弟は結婚してすでに家庭を持っている。
今日は、いわゆるクリぼっち。
俺には誰もいない。
そう感じるのは、電気のついていない玄関のドアを開けたとき。
「おかえり」の声が返ってこないと分かっているのに、「ただいま」と言ってしまうとき。
食事を1人で食べるとき。
テレビの声だけがやけに響くとき。
とにかく孤独なのだ。
電気をすべて消して、ベットに入ると急に悲しくなってきた。
何でかは自分でも分からない。
母親の死んだ日だからなのか。
いつか、願ったことがあったな。
“クリスマスプレゼントも、お菓子もおもちゃも全部いらないからお母さんを返して”って。
16年前の今日か。
あの頃に戻れたらどんなに嬉しいことだろう。
社会人という鎖がなかったあの頃に。
男女が差別されていなかったあの頃に。
家族がそろって生活していたあの頃に。
ひとりぼっちじゃなかったあの頃に。
25歳にもなってみっともないという人もいるかもしれないけれど、俺は願った。16年前のあの頃みたいに。
“クリスマスプレゼントでも、何でも無くなってしまっていいから、いらないから俺の家族を、俺の家族との生活を返してくれ”
「ほら、遊思。早く起きてきなよ~」
女の人のその声で俺は目覚めた。誰だ。
目を開けるといろんなものが視界に映った。
机、いす、写真、時計、窓、ゴミ箱、教科書、かばん、ボール、上着、鏡。
時計は9時01分を示している。
どれも、小さくて青いものがほとんどだ。
そしてどれも、子供の時に使っていたもの。
目をこすろうとして、腕を持ち上げたとき違和感を感じた。
腕を凝視する。
青いパジャマから覗いた細い腕と小さな手。
目を見開き、息を止める。
「遊思。早くしないと朝ご飯冷めちゃうわよ」
その言葉のあと、ドアが開いた。
「なに、起きてるんじゃない。早く着替えて降りてきなさいよ」
バタン
今、起こっていることのすべてが理解できない。
なにがどうなっているんだ。
俺は、だれだ。
ここは、実家によく似ている。
今の女の人は、写真に写っていた母親に似ている。
鏡の中に覗いた小さな顔は、間違いなく俺の子供の頃の顔。
俺は、おれ?
俺は、子供の時の俺に戻っていて、母親(に似ている女の人)がいて、
「いってきます」
懐かしい声、親父が生きている。
本当にあの頃に戻れたのか?
思わず、ベットから降りて窓の外を見ようとするが、背が小さくて見えない。
慌てて、机と一緒にあったいすを窓まで移動して、そこに立ち窓の外を見る。
角を曲がろうとしていた人の後ろ姿は、間違いなく親父の背中だった。
俺の願いが叶った?
「遊思、お母さんが早く起きてこいって言ってるよ」
ドアの外から、懐かしい声が聞こえてくる。
母の葬儀の時、1人だけ泣いていなかった姉の声だ。
でも、そのあと静かに1人部屋で泣いていたのを俺は知っている。
「うん」
とりあえず、返事と思って声を出すと高い声が出た。
戸惑う。
けど、そろそろ起きていかないと怒られる。
怒られる?
誰に?
そもそも、これが母親の死ぬ前のことだったとしても俺は・・・
「遊思!早く起きなさい!」
怒られた。
いそいそと子供服に着替える。
これは、16年前?
それとも、もっと前?
着替えながらまだ整理が出来ていない頭でいろんな事が頭に浮かんでは、消え浮かんでは消えを繰り返した。
一階に下りると、姉と弟は、クリスマスツリーの後ろにいた。
母親(?)は、キッチンに立っていて少し怒っている。
「早くご飯食べちゃってよ」
「うん」
ご飯を食べる前の聞きたいことがある。
「今日は、何月何日?」
なるべく、子供らしくなるように言ってみたが少し無理があったかもしれない。
話し方に気をつけなければ。
「なにいってるのよ。12月25日でしょ?」
そう言いながらクスリと笑う母親に懐かしさと優しさを感じた。
このひとは、やっぱり俺の母親なんだ。
なんて呼んでいたんだっけ?
ママ?
ちがう。
そんな恥ずかしいこと、小さい頃でも言わなかった。
お母さん。
うん。しっくり来る。
お母さん。
「遊思、プレゼント開けないの?」
姉がそう言った。なにをもらったんだっけ?
たしか最後のクリスマスプレゼントは、ラジコンカー。
その前の年は、靴。
その前は覚えてないけど。
お願いだからラジコンではありませんように。
お母さんとまだ一緒にいられますように。
そう願って開けたプレゼントの中身は、ラジコンカーだった。
つまり、今日お母さんは死ぬ。
どうやって死んでしまったんだっけ?
交通事故と、親父は言っていた。
買い物に出かけて、帰ってこなかった。
まず、買い物に出かけていたことを俺は、親父から聞いた。
なぜなら寝ていたから。
お母さんの葬儀は、火葬だけで終わった。
顔は見ていない。
ん?
何で葬儀をしなかったんだ?
というか、病院行ったかな?
骨、見たかな?
ん?
どういうことだ?
「遊思、ご飯」
お母さんの言葉によって思考が遮られた。
「一緒に食べよう?」
「うん」
朝ご飯は焼き鮭と目玉焼きの乗ったトースト。
約16年ぶりの母の手料理だ。
これが最後の料理。
おいしかった。
この味をきっと俺は忘れられない。
「おいしい?」
「うん」
あぁ、この感じだ。
お母さんがいて、姉が居て弟が居る。
「ラジコンで遊ぶ!」
お母さんともっと。
「うん、食べたら遊ぼう」
ほほえんだ顔は、俺をなぜか不安にさせた。
それからあとは、お母さんが死んだ事への疑問は、お母さんと家族と一緒に過ごせているという幸福感でどうでも良くなってしまった。
ラジコンで遊んでから家に入り、手を洗う。
・・・が、届かない。
不便だな!
懐かしい台に乗って、手を洗う。
自分でも危なっかしいと思う。
するとお母さんが後ろから包み込むように、手伝ってくれた。
気恥ずかしい気はするが、気付かなかったことにしておこう。
子供だからか、眠くなってきた。
「じゃあ、寝よっか」
「うん」
「お母さんも一緒に寝てあげる」
いつも一緒に寝ていたっけ?
眠気が突然に襲ってきて、そのあとのことは覚えてない。
真っ暗な視界が広がった。
「遊思」
お母さんは、泣いていた。
もやっとした記憶の中で、すすり泣く声が聞こえる。
「ばいばい」
とっさに、目を開ける。
「いかないで」
「遊思、起こしちゃったね。買い物に行ってくるだけよ。大丈夫、まだ寝ていていいのよ」
止めなきゃいけないと、頭は警報を鳴らしているのに、体は動かなかった。
安心してはいけないと思っているのに、心のどこかでお母さんを信じていた。
「いってくるね。いい子にするのよ」
プツッ
目の前が黒く覆われて、感覚がなくなる。
いや、頬を伝う生ぬるいものを感じていた。
それから何時間もそのままだった気もするし、数秒ほどしかそこにいなかった気もする。
ただ、目を開けたら元のベットの中にいた。
耳障りな目覚まし時計の音が気に触る。
夢、だったのか。
でも、しっかりと感覚はあった。
夢とは違った。・・・はずだ。
頬が冷たい。
そう思ったら、涙だった。
現実と、夢との境で流した涙。
そこでふと、手の中に何かが握られていることに気づく。
お母さんが俺と遊んでいるときに注意の言葉とともに、手渡してくれた、一枚の紙切れだった。
「本当に困ったときや、寂しくなったときだけ、これを開けて。いい?困ったときや寂しいとき以外に開けてはだめ」
紙をゆっくりと開く。
ピンポン
いま、俺はきたこともない家の前に立っている。
「はい」
インターホンを通して、少し老いている女の人の声が聞こえてくる。
「遊思です」
「はい?」
「小川遊思です」
返事がない。捨てたはずの子供が来て、困っているのだろうか。
「ごめんなさい。名前をもう一度言ってもらえますか?」
やはり、忘れているようなふりをしてまでも会いたくなかったのだ。
ガチャ
ドアが開く。
「妻がごめん。君、何か用か?」
ドアから出てきたのは、初老のおじさんだった。
「いえ。なんでもないです。すみません」
「・・・悪いな」
「いいえ」
口の端の筋肉を必死に動かして、後ろを向く。
妻?
俺たちを捨てて再婚していたのか。
そりゃ、でてきたくなんてないよな。
「君、もしかして妻に用だったか?」
「覚えていらっしゃらないようなので、もういいです」
「病気、なんだ」
その言葉に足が止まる。
心臓までも止まるかと思った。
「病気?」
「すまん、大きな声では言えないから家に入ってくれ」
病気?
その言葉を反芻する。
そんなの聞いたこと・・・。
手に中に入っていた紙には懐かしい、お母さんの文字で綴られていた。
手で、なぞってみる。
ゆうしへ
とつぜんいなくなってしまってごめんなさい。
ゆうしはいま、とてもこまっていたり、とてもさみしい思いをしているんでしょう。
でも、だいじょうぶです。
くるしいこともかなしいことも、そのあとにはかならずうれしいことがまっています。
おかあさんはいつでも、あなたを見守っています。
だいじょうぶ。おかあさんはゆうしがつよい子だって知っています。
もし、それでもたえられなくなったらこのじゅうしょに来てください。
ゆうしに、伝えたいことがあります。
おかあさんをゆるしてください。
おかあさんより
そして、見知らぬ住所が書かれていた。
誰のものなのか、今の俺ならだいたい分かった。
「妻は、アルツハイマーという病気なんだ」
アルツハイマー。
「つまり、忘れてしまうんだ。なにもかも」
そのせいで俺を忘れた?
じゃあ、昔のことももう覚えてないのか。
「名前、教えてください」
真っ白なソファに座っていた白髪になったお母さんが聞く。
誰かが手を差しのばさなければ、ソファに溶けていきそうだった。
「小川、遊思です」
「そう、ゆうしさん。なにか、懐かしい感じがする。知らない人、じゃないみたい」
ゆっくりとそう言ったお母さんに、知ってもらいたいと思う。
「俺は、息子です」
横で、息を吸う気配が伝わってきたがかまわずに続けた。
「あなたの息子です。あなたと親父の息子です。親父は、2年前に死にました」
「私の、息子?」
「そうです。寂しくて、悲しくてどうしようもなく困ったから来たんです。あなたからの手紙を、読んで」
手紙を手渡す。
「でも、私には夫が居るわ」
そう言ってお母さんはおじさんを指さす。
そう言った瞬間、俺の体は固まった。
心も何もかもが、固まった。
恐怖。
きょうふ?
「あなたは、なに?」
あぁ、そうか。
この人にまた捨てられてしまうからか。
どうしてここに来たんだろう。
きて、どうなるわけでもないのに。
「君は妻の息子なのか。じゃあ、私はジャマだな。少し、出かけてくるからゆっくりしていってくれ」
そう言って、おじさんは部屋を出て行った。
「あなたは、誰なの?」
声が、言葉が出てこない。
「あなたのこと、教えてくださらない?」
「え?」
おかあさんは、俺を知ろうとしている?
また、知ってもらえる?
「おれは、小川遊思です。25歳です」
「そう。お母さんやお父さんは元気?」
父親は死んだとさっき言ったはずだけど。
「父は、死にました。母は・・・」
「ごめんなさい。つまらないこと聞いてしまって」
「いえ」
写真を持ってきたことを思い出す。
「これ、家族写真です」
「これは、お母さん?」
「そうです」
「これがお父さん」
「そうです」
「子供たち」
「はい」
「そう、仲の良い家族ね」
返事はしない。
仲の良い家族だったなら、どうしてお母さんは出て行ったのだろう。
教えて欲しい。
でも、無理だ。
「・・・ごめんなさい。許して」
「え?」
「この手紙、お母さんから?」
「・・・はい」
お母さんは手紙を見ていた。
「なんで、なんでしょうね。私はあなたに謝らなければいけない気がする」
自分が書いた手紙を、とても懐かしそうな瞳で。
「あなたたちは、とても悲しい思いをしたのね」
「・・・」
「ごめんなさい」
そう言ったお母さんの目には涙が浮かんでいた。
きれいだと思った。
憂い顔が、きれいだった。
「えっ?」
思い出したのか?
いや、違う。
ただ、自分が涙していることを謝っているだけだ。
それなのに、口は勝手に動いていた。
「あの日々は、変わりません」
そう。変わらないことはある。
取り戻せないものはある。
姉弟だけで食べたご飯。
いつも冷たかった朝ご飯。
家に帰ってきても、誰もいない。
親父が笑わなくなった。
親父が、怒るようになった。
一軒家からアパートに引っ越した。
貧乏になった。
でも。
「だから、また、会いに来てもいいですか?」
あの日々を変えられなくても、取り戻せなくても。
これからの日々は変えられる。
自分の意思で。
おかあさんは、驚いた顔をした。
俺の顔を凝視している。
それから少しして、クスリと笑った。
「・・・うん。待ってるわ」
姉と弟も連れてきてやろう。
悲しい思い出を忘れることは出来ないけれど、これからの日々を精一杯楽しく生きていくことなら出来る。
お母さんの残されている日々を、俺の記憶にしっかりと記しておきたい。
お母さんの消えていく日々を、とどめておくために。
記していく。
このすばらしい、25回目のクリスマスを忘れたくはないから。