第十二話
ぼんやりとした視界に薄汚れたコンクリートの天井が映って、それが見覚えのある光景だと気付くまでには結構な時間が必要だった。
何のことは無い。いつも目覚める時に見る景色だ。ってことはだよ。ここって、あたしのベッドで、慎一郎の事務所の奥ってことになるよ。
「えええ〜!!」
って叫びも無理ないだろ。
翼龍は? ホウヤは? じじぃは?
途端に浮かぶ疑問符ばっかだけど、跳ね起きた全身が強烈な痛みを訴えて押し戻した。声すら出ない。めくれた布団の中にある自分を眺めて納得。
こりゃ、痛いはずだよ。全身、包帯だらけじゃん。肩口なんか分厚いガーゼがこれでもかってくらいに盛られて包帯で縛ってある感じ。満身創痍っていやぁ言葉は良いけど、ちょっとしたミイラの出来損ないみたいだな。
「気付かれたみたいですね。無茶し過ぎですよ。大量出血による貧血失神ってことですけど、傷も相当な深手です」
そんな声が頭の上でしやがる。聞き覚えのある声だ。
「翼龍は、どうなったんだ? まさか倒せたなんて奇跡を信じるこたぁないぞ」
そう聞いたあたしの顔を覗き込むように、薄く口元を笑顔にした慎一郎が、あたしの顔を両手で左右から包んだ。そのまま顔を寄せてきやがった。
ばくんって音と
「ふぎゃ!」
って声は、同時くらいだったか?
「どさくさに紛れて、何してんだ。腕くらい動くんだかんな」
「いたた。だって今月の家賃払ってもらってませんもの。滞納ですよ」
あ〜、頭まで痛いよ。この馬鹿だきゃ〜。
「こんな事態の時に、よくそんなこと覚えてられるよな。大体、お前、身体はもう良いのかよ?」
この馬鹿、あたしを庇って受けた傷から毒をもらってもがいていたはずだろ。
「おじいさんの薬のお蔭でしょうかね。すっかり全快ですよ。その代わりにマミさんが、ミイラもどきになって帰って来てしまいましたけど」
「うるさいっての。ん? ちょっと待て。ここに帰ってきた時には、もうあたしはこの格好だったのか?」
「はい。おじいさんが連れて来た時には、すでに包帯がされてました」
ってことは、あの後、じじぃは元気に蘇生したわけだ。んで、あたしを担いで…。って無理ないか?
「ホウヤ君も先程まで隣の部屋で寝てたんですよ」
「ああ〜!?」
待て待て。んな馬鹿なことがあるか。ホウヤは翼龍だ。あれくらいのダメージで翼龍が大人しくなんてなるもんか。それでなくとも大量の人間を摂取したことで翼龍の力は上がっていた。あたしもじじぃすらも敵わないほどに。
それが、気絶して運ばれて来た? 信じろって方が無理だろ。
「ああ〜って言われましても、ホントのことですよ。今、お風呂に入ってます。大分、入ってなかってんでしょうね。かなり匂ってましたから」
「それは、ドブ川に落ちたからだろうよ。あの水、腐ってるぜ」
「皇居のお堀を、そんな風に言ったら怒られますよ。そうじゃなく、お風呂自体に入って無かったようなんです。現代っ子ってそうなんでしょうかね?」
「……」
「どうかしました?」
なんだろ? 何か引っかかんねぇか? 不自然なところがある気がする。ああぁ、くっそ。まとまんねぇ。
「じじぃは? ってか、あのじじぃ、あたしとホウヤ担いで来たのか? どんな馬鹿力だよ」
「おじいさんじゃありませんよ。巨漢な男が担いで来たんです。降ろした後で消えちゃいましたけど。何て言いましたかねぇ。えっと、まきがみでしたか」
「ばっかか? 式神だろ。呪術なんかで使う奴だ」
「そうそう、式神でしたね。それが運んできたんです」
そんなことを話していると、ふいにドアの開く音がして
「どうやら元気そうじゃの」
って声がした。じじぃの奴だ。
「…世話掛けたみたいだな」
「なんのそのじゃ。嬢ちゃんの働きからしたら、微々たるもんじゃの」
慎一郎が進めたパイプ椅子に腰掛けて、じじぃは破顔した。気持ちいいもんじゃないけど、まぁ、受け取っとくよ。
「ちょっと腑に落ちないんだけど」
「そうじゃろうの。あの後、あ奴は堀に落ちて、動かなくなってしまったんじゃ。わしとて信じられん。その昔、この世界のゴモラという街を一夜にして砂漠の下へと埋もれさせた怪物とは到底思えん」
う〜んという仕草でじじぃは眉間に皺を寄せた。あたしも同意見だな。あの時点で力の差は歴然だった。どう逆立ちしようが、引っくり返ろうがあたしの勝ちなんて目は無かった。猫が小ネズミをじゃらすかのような扱いだったんだ。あいつがその気になってさえいれば瞬殺ってことだって有り得た。それが、あたしのパンチ一発でどうにかなるなんてことの方が有り得ない。
「ホウヤに戻ったってことか?」
「いや、どうじゃろうの。完全に気絶しておった。そのお蔭で水も飲まずに済んだってこともあるんじゃがの。とにかくじゃ、嬢ちゃんの怪我の具合も軽いものじゃなかったしの、坊やの方も放って置く訳にはいかんのでの。ここまで連れて来たというわけじゃ」
なるほどな。言われてみりゃそうだよな。あのまま翼龍が健在であったなら、あたしがこうして心地好くとはいかないまでも、生きて目覚めるなんてことは無かったことだろうよ。
「それで? ホウヤとは話したんだろ? 何か聞けたか?」
あたしより先に目覚めたホウヤに、このじじぃが何も聞かずにおくわけがない。あの戦いの前に話した全てはホウヤではなく、翼龍が語ったことだ。ホウヤの真意を、改めて聞いたくらいの見当は付く。
「…いいや。あの時、語られたことが間違いでなかったことくらいじゃ。まだ、隠してることはあるんじゃろうけどの。無理に聞き出すことは、本意ではないでの」
薄く笑ってみせるじじぃには、悲哀の感情が見える。結局は、翼龍が喋ったことの裏付けをさせちまったってことなんだろう。まだ幼さの残るホウヤに、深い傷跡が刻まれたことになる。
悲しいことは翼龍に取り憑かれたことじゃない。弱い自分の心に漬け込まれ、自らの意思で無かったとはいえ妹を、身近な人達を死に至らしめたことでもない。恐らくは、それら全てを自分が望んだことかも知れないことへの後悔だろう。
それは、どこまでも深く、暗く、ホウヤの心の底に降り積もる。身動き出来ないほどに降り積もった中で、ホウヤの悲鳴はどこへ向けられるのだろうか。そして、あたしにその声が聞こえるんだろうか。
考えたって悲観的になるばかりで、良い答えも案も出やしない。ってことは、結局、いつものあたし流ってことになるよね。出たとこ勝負のなるようになる主義。
「そう悲観すんなよ、じいさん。やることやって、なるようになったんなら、そいつに悲しんだり後悔したってしかたないんだ。それよりも、これからのことを考えた方が良い」
「……そうじゃの。負うた子に瀬を教えられるとは、長生きしても心は中々育たんものじゃの」
がははと大袈裟に笑って見せるかと思ったが、照れ笑いのように眼を細めただけだった。ちぇっ。何だよ、あたしらしくも無く元気付けてやろうってのに、そんな反応かよ。まったく年寄りってのは、湿っぽいもんだよな。
あっ、そういやぁ気になってることがあったんだっけ。
「なぁ、じいさん」
「なんじゃな?」
「あたしを運んでくれたんだってな。取りあえず礼を言っとくよ」
「なんの、当然のことじゃの。嬢ちゃんは雄雄しく戦ってくれたんじゃ」
「ああぁ。でもよ、怪我の治療までしてくれたのは嬉しいんだけどよ」
「それも当然じゃな。あのままでは危ないところじゃった」
「……。それなんだけどよ。あたしの服とか下着まで脱がしてくれたってことかな?」
ちょっとキョトンとした顔付きだったけど、じじぃはあたしが何を言いたいのかすぐに察したようだ。ニヤリと笑って見せて「う〜ん」っと唸って見せた。
「まさか、じじぃ〜」
僅かに上体を起こして上目遣いに眼睨つける。こうすると釣り眼がちなあたしの眉間に皺が浮き出る。相当に恐ろしい顔付きらしくて、大概の奴はタジタジになって降参する。知ってるからするんだけどね。
「おいおい、そういう顔付きは嬢ちゃんには似合わんの。心配せんでも見とらんよ。こっちも力の加減などできん相手じゃったしの。おまけに誰かさんが蹴り飛ばしてくれたもんじゃからの。体力の限界じゃ。式神を使って治療したし、運ばせた。ちゃんと服も着せといたろうが」
「あ? じゃ、何で今のあたしが裸なんだろうな?」
「知らんわい。ここに運び込むだけで限界じゃったんじゃ。それからのことは、その若いのに任せたんじゃからの」
じじぃが顎をしゃくってドアの方を指した。そこには、音をたてずにドアを細めに開けて、身体を半分まで滑り込ませてる慎一郎の姿があった。
「……てめぇか〜…あたしの意識が無いことを良いことに好き勝手してくれたようだな〜」
きっと、今のあたしの口からは言葉と一緒に小さな炎がチロチロと出てるんじゃないだろうか。怒り沸騰、怨嗟もかくや。その証拠に、慎一郎の顔は一気に青冷め、脂汗が額から噴き出してる。ちょっとしたガマの油状態だな。
「いや…だって…寝苦しいだろうと…思いまして……包帯だけでも…きついだろうと…いや…目隠ししましたよ。ちゃんと、両目を隠して見えないようにしました」
そんなことで威張って胸張ってどうすんだよ。お前の目隠しなんて信用できるとでも思っていやがるのか? ちょっとカマ掛けてやるか。
「そうかよ。わかった。でも、胸が苦しいんだよな。キツク巻き過ぎなんじゃねぇかな?」
「え? そうですか? 苦しそうだったんで巻き直したんですけど」
「あたしって意外と胸あるからな」
「そうですよ。ぺちゃんこにしてたら苦しいでしょう。だから太目の包帯で包むようにしたんですけど、まだキツイ感じですか?」
じじぃが天を仰いで右手で眼を覆った。
「ばっかじゃのう」
「は? はぎゃ!」
って声と慎一郎がドアの向こうにすっ飛んでくとは、ほぼ同時くらいだったろう。あたしが放った枕元の大きな目覚まし時計は、寸分違わず慎一郎の顔面を捉えて、身体ごと吹っ飛ばした。廊下の向こうで派手な衝撃音がしたが、これくらいで済んだんだから感謝しろ。まったく、アホ丸出しだっちゅうの。
全身の痛みも一時を過ぎる頃には大半治まって、動くのに支障があるほどではなくなってきた。じじぃの話では、傷薬に特別な配合があるってことと、貰った指輪の効力なんだとか。特に指輪には、主人を守る作用があるらしく、使いこなせるようになれば、深手の傷でさえ瞬時に治すこともできるとか。まゆつば…まゆつば。
とにかく腹が減ったんで、慎一郎に大きな牛肉を二枚焼かせて、付け合せにマッシュポテトをボウルにひとつ腹に押し込んで一心地着いた。おやつにテリヤキバーガーも買いに行かせたんだけどね。それを待ってるって余裕はないかも。
っていうのも、慎一郎がおやつを買いに出たと同時くらいにホウヤがお風呂から上がってきた。頬を軽く赤く染めて上気した顔に濡れた髪が張り付いて、何ともワイルドに映る。けど、その表情は幾分焦燥したように見えなくも無い。
あたしを認めて手にしたバスタオルをだらりと下げ、瞳の色をいっそう暗くした。ほのかに香る石鹸の香りが、それを切なげにする。
「なんだよ、元気ねぇな。最初に会った時と変わんないじゃないか。どうした? また、腹でも減ってんのか?」
言ってみて我ながら気の利いてないセリフだと思う。だって、仕方ないだろ。何て言えばいいんだよ。どんな風にいってみたところで、ホウヤの心を傷付けない自信なんてないんだから。
「……マミお姉さん……」
ホウヤの返事は、その一言だった。
「………」
あたしも一瞬、言葉を無くした。
ええ〜い。うだうだ悩んでみたところで、何がどうなるわけでもないっちゅうの。さっき決めただろうが。出たとこ勝負のなるようになるだ!
「ホウヤ! こっち来い。髪、乾かしてやる。ほら、タオルよこせ」
ホウヤのバスタオルを奪い取ると力任せにゴシゴシしてやった。
「い、痛いよ、マミお姉さん!」
うるさいわい。心配掛けた罰だ。少しくらい我慢せい。この後は、ドライヤーだ。
ホウヤを椅子に座らせて、後ろから軽く頭を引っ叩く感じでドライヤーを片手のあたしって、カリスマ理容師って感じじゃん。
「あたっ、いたた! マミお姉さん、叩いてるよ!」
まったく、文句ばっかだな。こっちは気分良くやってんだから。でも、こうして見るとホウヤの髪の毛は、女の子のように細くしなやかで繊細だ。一本一本がさらさらと手の中で流れるようにこぼれていく。
「なぁ、ホウヤ」
あらかた乾いた髪を両手でもてあそびながら、あたしは話しかけた。
「どうして、こんなことになっちまったんだろうな」
返事はなかった。きっとホウヤ自身にもわからないんだろう。解決策も無く、見えない迷路を奥へと追い込まれるような状況に、どうしようもなかったとしても誰が責められよう。
「あらかたのことは、お前の中の奴に聞いたよ。それが本当のことだってことも知ってる。奴が吐いた嘘もわかってるし、お前の意思がそこに無かったこともわかってる。……お前を救うには、どうしたらいいなだろうな」
「…マミお姉さん。今度のことは、全部、弱い僕のせいだよ。多くの人の命も奪っちゃった。アカネも僕が殺したようなもんだよね」
「ばっか。そんなことねぇよ。いいか、お前の中の奴は、狡猾で卑怯な奴なんだ。お前を操って、そんな真似をしたかも知れないけどよ。それは、お前のせじゃ決してないよ」
あたしって、どうしてこうもボキャブラリーが無いかねぇ。自分にばっかじゃねって言いたいわ。
こんなこと言ったって、当然のごとくホウヤは救われるわけがない。屁理屈をくっ付けて、あたしの中で消化したいだけだ。こんなんじゃ、駄目だ。
「いいか、ホウヤ。お前が実際に手を下したわけじゃない。でも、その張本人はお前の中に巣食ってる。きつは、否定出来ない事実で、そいつを受け入れたのもお前だ。…奴の存在を感じられるか?」
肝心なことは、ホウヤを救うことだ。翼龍の奴をホウヤの中から引きずり出すこと。そいつが出来なきゃ、これからの算段も立ちゃしない。
「…わからない…。いることは確かだと思うよ。胸のあたりがズンと重いから」
ホウヤは、自分の胸の真ん中あたりを右手で押さえて俯いた。サラサラの髪がふわりと揺れる。石鹸の香りも一緒に揺れた。
いやぁ、やっぱいいやねぇ。美少年に石鹸の香りって絵になるよ。なんか抱きしめたくなる。って、馬鹿なこと考えてる場合じゃない。なんか危ないな、あたし。
「なぁ、奴と意識が入れ替わる時って、お前、どうしてんだ?」
とりあえず話を戻さないと、変な誘惑に負けそうだ。こんな時にじじぃも帰っちまうし、慎一郎も帰ってきやしない。まぁ、居てもらっても困るんだけどね。こんな誘惑と戦ってるなんて、絶対にあの二人に知られたくない。
「意識はあるよ。共用してる感じなんだけど、身体を動かすことも話すことも出来ないんだ。最初のうちは強く思えば感覚が戻ってきたんだけど、マミお姉さんと出合った頃から、それも出来なくなってきたんだ。怖かったよ…自分が違うことを話して、違うことをするんだ。アカネや他人を殺してく…。僕じゃないけど、僕がしてる」
「…そっか…」
上から見下ろしてるホウヤの膝に、数滴の雫が落ちた。男なんだよな。涙声にもならずに、我慢して喋ってるんだ。こんなところで、頑張らなくたっていいのに。華奢な両肩が小刻みに震えてるよ。あたしだって女だ。見ない振りくらいしてやるさ。
「なぁ、ホウヤ。今までのことは仕方ないことだったと諦めろ。っても、無理かもしんないけど…とにかく置いとけ。問題は、これからなんだ。お前の中から、奴を追い出す算段をしようぜ」
そうさ。なっちまったことの後悔なんて『いまわのきわ』で十分だ。まだ未熟児のうちに奴を引きずり出して、叶うなら微塵にぶっつぶす。……無理だと思うけど。それでもホウヤは、助けられるかもしれないじゃない。そのためなら、何だってしてやるっちゅうの。
「…マミお姉さん。ありがとね。嬉しいや、こんな僕にも心配してくれる人が、こんなにいてくれるなんて…」
こんなにいてくれる。その言葉の中に、清水さんや施設のおっさん達のことが入ってることは、ホウヤの口からは出ない。この時になって、初めて大きく鼻をすすったくらいがホウヤの心の現われなんだろうな。
でも、次にホウヤは立ち上がって振り向いた。そこに涙は見えなかったけど、まつ毛が微かに濡れてる。真っ直ぐにあたしを見るホウヤの黒い瞳に、ちょっとだけクラクラしたけど、放たれた言葉に、もっとクラクラきた。
「でも、あいつは、僕からは出せないよ」
なにお〜! って叫ぼうかと思った。思ったんだけどね。
「たっだいま戻りました〜」
って、ばっか丸出しの慎一郎の声に遮られて、後の言葉が途切れて毒気まで抜かれちまった。
まったく、間のタイミングすら持ち合わせてねぇのかよ。
つづく