消したい薫り
『人、殺しちゃった』
震える手でその文字を打ち、送信ボタンを押す。
いつもならすぐに着くはずの既読が、数秒経っても現れない。
薄暗い部屋の中で一人の孤独感を感じながら、平静を保つために机においてあるコップに手を伸ばす。
真っ黒の液体を眺めていると、次第に自分の顔が反射し始めた。
「なんて顔してんだ、俺……」
初めて人を殺めてしまった。
意図的に殺したわけではない。ただ、少し言い合いになって、相手の体を強く押してしまっただけ。運悪く、倒れた先に机があって、頭を打って……そこから、動かなくなってしまっただけ。
自分は悪くないはず、と心の中で何度も繰り返すが、そんな事をしたところでこの手に残る嫌な感覚は消えてはくれない。
「薫!」
声の方向へと振り返ると、先程メールを送った相手である、幼馴染の翼が立っていた。
ふとスマホに視線を落とすが、既読は付いていない。通知だけ見てすぐに来てくれたのか。
翼は走ってきたのか、息を切らし、肩を上下に揺らしていた。
「翼、お、俺、人を殺しちゃって……」
「大丈夫やから。僕がついとるよ」
俺から発せられる声が震えていることに気付き、翼は僕を抱きしめた。安心させようと思ってくれたのだろう。翼の顔を見れただけでも、もう充分安心できたのに。
抱きしめられるのなんて、小学生ぶりでは無いだろうか。いや、よくよく考えれば高校でも頻繁に抱きついてきていたような。
だが、久しぶりに感じた翼の体温は、前よりも随分と冷たくなった気がした。
「薫、死体埋めに行こか。僕が手伝うから、安心して」
両肩を掴まれ、翼と目が合う。その瞬間、俺は視線を逸らしてしまった。
何をするにも、俺は一人では何もできなくて。それでも翼だけは昔から手を差し伸ばしてくれて、できるまで諦めずに教え続けてくれた。
そんな翼のことを、昔から尊敬していた。彼のようになりたいと、心の底から思っていた。
「……ありがとう、翼」
こんな時でも翼を頼ることしか出来ない自分が、どうにも惨めに感じて、上手く顔を見ることができない。
もっとちゃんと、顔を見ておけばよかった。
未だに震えが止まらない自分の手を見つめ、己の未熟さを痛感する。翼は至って冷静で、ただ俺を宥めるばかり。
「大丈夫。ゆっくり深呼吸しいや」
翼の声を聞き、少し落ち着いてから冷たくなったソレをブルーシートで包、車へと運び込んだ。
死体を持ち上げた時に思ったのは、こんなにも重いのか、という事。生きている時の重さを知っていた訳ではないが、完全に脱力した人間は重たいというのは本当だったのだなと、そんなことを考えていた。
こんな事態だと言うのに、よくもまあこんな事を考える暇があるなと自分でも思う。けど、ここまで余裕ができたのは翼が来てくれたおかげに他ならない。
「……なんで殺したのか、聞かないのか?」
車を出してから約十分。二人の間に会話はなく、ただ静寂だけが車内に蔓延っていた。
気まずさを感じた俺は、何か言わねばと言葉をひねり出した。
だが、口を開いた直後に後悔が止まらなくなる。今の話題としては、最悪なものな気がしたからだ。
「……聞かへん。興味がないとか、そういうことやなくて……なんとなく、殺したくて殺したわけやない気がしたから」
ゆっくりと口を開いた翼は、ボーッとどこかを見つめている。
その返事を聞き、俺は何も答えず、ただ黙ってハンドルを握っていた。
夜道は暗く、危険も多い。
山奥を目指して車を走らせているせいか、辺りに明かりはほとんど無かった。
暗闇の中を走り続け、本当に死んだのは自分の方なのではと錯覚を起こしてしまう程だ。
「この先に、確かコンビニがあんねん。そこ寄ってかへん? 薫、疲れてるやろ」
運転に集中しすぎていたせいか、飲み物も口にせず、早一時間も車を走らせていた。
人を殺めた罪悪感と、言い表せない恐怖とで、精神的にもいっぱいいっぱい。
こんな時くらい翼に運転して欲しいと思ってしまう自分は、やはり情けないなと思う。
だが、よく良く考えれば翼はペーパードライバーだ。死体が一つから三つに増えてしまう可能性すらある。
「そうだな。寄ろうか」
暗闇の先から灯りが見え始め、駐車場の広いコンビニが現れた。
夜中だからか、停まっている車は無い。広々とした場所にぽつんと一つ車を停め、店内へと足を運んだ。
「らっしゃっせぇー」
やる気のなさそうな店員の声を聞きながら、なにか飲み物を買おうとドリンクコーナーへと向かう。
「翼は何飲む?」
振り返りながら声をかけるが、翼の姿が無い。
窓から車の方へと視線をやると、車内から手を振る翼が居た。これは、適当に買ってきてくれという事なのだろう。
翼は昔からよくトマトジュースを飲んでいた。健康に気を使ってるのかと思っていたが、ただ単に味が好きなだけという。
トマトジュースとペットボトルのコーヒーを手に取り、会計を済ませた。
「はい、トマトジュース」
「あれ、僕の分も買ってきてくれたん?」
適当に選んでくれということでは無かったのか。
予想が外れたことに少し悔しい思いをしながらも、買ってしまったものはしょうがない、と翼側にジュースを置いた。
「薫は、いつもコーヒー飲んどるよな」
「頭がよく回るからな。何時でも、正常な判断を出来るようにしておきたい」
へぇ〜? と返事をする翼。
少しの沈黙の後、自分が馬鹿げたことを口走ってしまったことに気付いた。
今日こうして人を殺めてしまった人間が、何を言っているのか。呆れてものも言え無いのだろう。
「ち、ちが……違うんだ」
慌てて訂正の言葉を発するが、翼はくすくすと笑ったあと、落ち着いた様子で
「分かっとるよ。大丈夫やから、ちゃんと前見いや?」
と話してくれた。
信号待ちになり、先程買ったコーヒーの蓋を開け、乾いた喉に流し入れる。
蓋を閉め、元の場所にコーヒーを置いた。隣に置いてあったトマトジュースが視線に写る。
「一口も飲んでないのか」
「あぁ、あんま喉乾いてへんねん」
気にしんときや、とヘラヘラ笑っているが、こんな暑い夏の日だ。夜とはいえ、喉が渇くはず。
俺が買ったから遠慮しているのか? いや、そんなことを気にするような人間では無いはず。
「あ、信号青なったよ」
翼が話題を逸らす時は、聞いて欲しくない話の時。触れるのを辞め、違う話題を切り出した。
「翼は、俺が警察に捕まったら悲しい?」
「そら悲しいやろ。せやから、薫が捕まるんやったら僕も一緒に着いてったるわ」
「いや、そこまではさすがにしなくていい。ただ、俺の帰りを待っててくれたらそれで充分だから」
突き放したいのでは無く、唯一の親友として、変わらず待っていて欲しい。
暗くて良く見えなかったが、翼の顔は感情が無いように感じた。
森の奥まで進み、車を停めた。
辺りに灯りは無く、懐中電灯で足元を照らす。
家から持ってきた一本のスコップを手に取り、ザクザクと地面を掘り始めた。
翼が宥めてくれてから、嫌に冷静さを保てている。
「人を埋めるのって、体力めっちゃ使うんやってな」
「そりゃそうだろ。人が埋まるほどの穴を掘るなんて、一人で掘るには無謀すぎる」
「……でも、薫はやるんやろ?」
「当たり前だろ」
翼が埋めようと声をかけてくれた時、必ずやり遂げると決めた。自ら一緒に背負ってくれる人間が目の前に居るんだ。裏切る訳にはいかない。
口を開きながらも、体はしっかりと地面を掘り続けている。
翼はそれを眺めているだけ。
「薫ってさあ、いつもコーヒーのええ匂いするよな」
「急になんだよ」
やることがなくて暇なのか、翼が何か言い始めた。
「やっぱいつも飲んどるから、体臭もそれになってもうたんかな?」
「なんか嫌だな」
額から零れる汗を拭い、ただひたすらに地面と向き合い続ける。
「いや、良い意味でのあれやで? 僕はええなと思っとるんやから、それで充分やろ」
「まあそうか。翼が居れば、別に他は要らないもんな」
「薫っ!」
飛びついてきた翼を華麗に避ける。
「……桜の樹の下には、死体が埋まっとるから綺麗に咲くって言うやん? やからさ、この辺りの木も桜みたいに綺麗な花を咲かせるんかな」
「さあ、どうだろうな。春になったら、また見に来るか」
適当に言ったが、絶対に見に来たくなんかない。
人を殺めてしまったという事実を一生思い出さずに生きていきたい。それなのに、翼は忘れるなと言うように話を続けた。
「おお、ええやん。僕は来れへんかもやけど、薫一人でも見に来た方がええよ。定期的に思い出すべきやで」
「……」
そんなことはわかっている。でも、思い出したくないに決まっている。
出来ることなら、こんなこと忘れていつも通りの日常に戻りたい。でも、そんなことは出来ない。
今日だって、家に帰ったら警察が来ているかもしれない。
さっき行ったコンビニの店員が、異変を察知して通報しているかもしれない。
どこでバレるかなんて分からない。誰が裏切るかなんて分からない。
もしかしたら、ここに居る翼が、既に通報している可能性だって……
「僕は薫を裏切らへんよ」
「っ……」
考えを読まれた。
「そんな分かりやすく僕のこと睨んできたら、絶対疑っとるやろなって思うに決まってるやん。大丈夫やって、僕は薫の事を一番に思っとる。裏切ることなんて、死ぬまで有り得ん」
いつの間にか翼は岩の上に腰掛け、にこやかにこちらを見つめていた。
確かに、翼が裏切ることなんて有り得ない。
力を入れすぎたせいか震え始めた手を抑え、少し休憩することにした。
車内に置いてあったコーヒーを手に取り、ゴクリと喉を鳴らす。
肉体労働をした後にはやはりコーヒーが一番だ。
「ええ飲みっぷりやね」
「翼は飲まないのか? 水分取らないと倒れるぞ」
「大丈夫大丈夫、体は強い方やから」
翼が言うならそうなんだろう。何故か納得させられるような安心感がある。
それより、穴の進行具合が思っていたよりも遅い。
一人で掘るなんて、やはり無謀なのかもしれない。
掘り続けてどのくらい経ったのか分からないが、未だに半分程しか掘れていない。
コーヒーを車内に戻し、肩を回す。
あと半分まで進んだんだ、ここで諦めるわけにはいかない。
「頑張れ、薫」
額に汗一つかいていない翼。
キレイな顔だなと思いながら、作業に戻った。
「よし……」
掘り始めてから数時間。
目の前には、人一人入れそうな程の大きな穴が空いていた。
「よぉ頑張ったやん。薫」
わしゃわしゃと頭を撫でてくる翼。
そのおかげで、達成感を身体中で感じることができた。
「ありがとう。後は、埋めるだけだな」
車内に詰め込まれたブルーシートを持ち出し、穴へと放り投げる。
鈍い音が聞こえ、中に入っているのが人間だということを再認識させられた。
また、罪悪感が込み上げてくる。
暫く死体を見ていなかったせいで消えかけていた感情が、心の奥底から湧き上がってきた。
震え始める手、カチカチと音を立てる歯。
「薫。大丈夫やって、はよ埋めようや」
「……ごめん」
再度スコップを握りしめ、雑に積まれている土を穴へと戻していく。
掘ることよりも埋める方が何倍も楽で、半分程の時間で埋め終わった。
いつの間にか日が登り始め、辺りが明るくなっている。
「僕、ホンマに薫からするコーヒーの匂い好きやってん。安心するって言うか……。ずっと、隣でその香りを感じてたかった」
「翼……?」
明るくなったことに気付いた時には、翼の姿が消えていた。
どこへ消えたのか。車内へと視線を向けても、そこには人影が存在しない。
どこに行ったんだ? 翼が居ないなら、俺はどうしたらいい? これから一人で、どうやって……
「薫。腐敗臭を消すには、コーヒーの香りがええらしいで」
死体を埋めたはずの地面から、声が聞こえた。
「おぇ……」
胃の奥から込み上げる吐き気と共に、鼻を突く腐敗臭が肺の奥まで入り込む。
コーヒーの匂いは、もうどこにも残っていなかった。
——ここに薫るのは、腐敗臭だけだった。




