第8話 名簿にいない生徒
消灯の時間は過ぎた。
廊下は暗い。
倉庫前の机に紙が積まれている。
待機者名簿。
点呼チェック。
消灯後の移動記録。
悠斗は紙の一番上を押さえた。
角がずれている。
指でそろえる。
それだけで少し落ち着く。
ひよりが机の横に立った。
ひよりは声を落として言う。
「悠斗、さっきの件は明日の朝に先生と確認するよ。できれば今は、寝られる人を寝かせたい」
「分かった。頼む。俺も今は、余計な話を増やしたくない」
ひよりは小さく頷いた。
朔が近くの壁にもたれて言う。
朔の声も小さい。
「二階の三組、空気が変だった。なんか、笑えない感じだった」
「朔、今はそれ以上広げないで。朝に確認してから整理しよう」
ひよりの声は柔らかい。
でも止める力はある。
「分かったよ。俺も寝たいしな」
朔はそう言って、肩を回した。
悠斗は倉庫端末を見た。
白い表示は消えている。
代わりに画面の下に小さな文字だけが残っている。
《点呼の実施は記録を要する》
悠斗は目を離した。
今夜はもう増やさない。
増えたら現場が動かなくなる。
悠斗は紙の山を一度だけ見て、息を吐いた。
朝。
廊下の明かりが戻った。
窓の外は曇りだ。
でも雨ではない。
倉庫前に人が集まってくる。
寝不足の顔。
不安な顔。
それでも動ける顔。
ひよりが、拠点担当の先生のところへ行った。
ひよりは背筋を正して言う。
「橘先生。おはようございます。今から、点呼のズレの確認を始めてもいいですか?」
橘先生は頷いた。
先生でも疲れは残っていそうだ。
「わかった、篠宮。昨夜の紙はそろってるか?」
「はい。点呼チェックと名簿はそろっています。ズレが出た教室は、二階の三組でした」
ひよりは紙を二枚重ねて示した。
橘先生は紙に目を落とす。
視線が止まる。
「二年三組。名簿より一人多い」
橘先生は周りを見て、廊下側へ声をかけた。
「二年三組の担任、佐伯先生。少し来てもらえますか?」
数秒して、担任の先生が倉庫前に現れた。
二年三組の担任、佐伯先生だ。
佐伯先生は周囲の生徒にも見える位置で一度だけ頭を下げた。
「橘先生、おはようございます。二年三組の担任の佐伯です。名簿の件、確認します」
橘先生は佐伯先生に向ける口調だけ、少し整う。
「お願いします。貼り紙にも『訂正は担任の確認』と出ています。まず教室で人数と本人確認を取りましょう」
朔が手を挙げた。
寝癖が立っている。
「俺、案内できます。昨日の点呼のとき、二年三組の前で列を止めてました。貼り紙の位置も見てます」
橘先生が言った。
「助かる。神崎、先頭に立て。勝手に扉を開けるな。着いたら俺が声をかける」
「了解。」
朔の後にひよりが続ける。
「橘先生。確認は二人以上でお願いします。見間違いが出ると、混乱が増えます」
「分かっている。俺と神崎で見る。担任の佐伯先生にも話を通す」
橘先生は悠斗へ視線を移す。
「相羽、お前も来い。名簿の違いに気づけるんだろ?」
「行きます。現場を見て、これ以上ズレを増やしたくないです」
悠斗は答えた。
二階の廊下。
朔が歩幅を落として、曲がり角で一度だけ振り返る。
「ここから先、昨日は人が詰まって揉めてた。今日は俺が先に声をかける」
朔は扉の前で止まり、指先で札を示した。
「ここ。場所としては二階。クラスは二年三組。」
悠斗は頷いた。
橘先生も頷く。
扉の前に貼り紙が増えている。
昨日はなかった紙だ。
頭の奥に短い言葉がさえぎった。
規約改変。
貼り紙に書いてある文は短い。
【点呼の訂正】
・名簿の訂正は担任の確認を要する(勝手に直さない)
・訂正は朝の確認時間に行う(夜は直さない)
悠斗は橘先生に貼り紙を見せた。
「橘先生。これ、昨日はありませんでした。貼り紙が増えてます」
橘先生は貼り紙を読んだ。
眉が動く。
「……増えたな。勝手に直すな、ってことだろ」
二年三組の教室に入る。
朝の教室は静かだ。
机に突っ伏す生徒がいる。
窓際で水を飲む生徒もいる。
前に立っているのは、このクラスの担任、佐伯先生だ。
昨夜、点呼を取っていた先生でもある。
「これから点呼を取ります。名前を呼びますので、返事をしてください」
佐伯先生は名簿を開いた。
悠斗は教室の後ろに立った。
待機者名簿を持つ。
ひよりの字は読みやすい。
佐伯先生が名前を呼ぶ。
返事が返ってくる。
途中で佐伯先生の声が止まった。
佐伯先生は名簿の一行を指で押さえている。
「この読みの生徒はいますか?」
返事がない。
教室が静かになる。
後ろの方から小さな声が出た。
「先生……その読みは俺です。でも、その字じゃないです」
男子生徒が立ち上がった。
顔色が悪い。
唇が乾いている。
佐伯先生は、生徒を見る目を変えなかった。
この教室の子だ、と言う前提が先にある。
「席はどこですか?」
「窓側の後ろです。昨日もそこにいました」
男子生徒が答えた。
佐伯先生は頷いた。
それから、言い方だけを丁寧に整える。
「あなたが二年三組の生徒だということは、私も把握しています」
「ただ、今は名簿を直すときに“あとで見返せるメモ”が必要です。再度確認します」
男子生徒の喉が動いた。
「はい……お願いします」
佐伯先生が続ける。
「自分の名前を、漢字で言えますか?」
「言えます。でも……なぜか書けないです。頭が真っ白になります」
教室の空気が沈む。
悠斗の頭に短い言葉が落ちた。
記録改変。
悠斗は一歩前に出た。
声を小さくする。
「佐伯先生。席も言えています。友だちの反応も自然です。名簿の漢字だけが違っています」
佐伯先生は悠斗を見て頷いた。
「分かりました。確認の形を揃えます」
佐伯先生は男子生徒に指示する。
「ノートに、ひらがなで名前を書いてください。次に、学年と組と番号も書いてください」
「書けたら、私が読み上げて確認します」
「はい。書きます」
鉛筆が動く。
ひらがなの名前。
二年。
三組。
番号。
全部書けた。
佐伯先生は紙面を覗き込み、落ち着いた声で読み上げた。
「読みは一致。学年と組と番号も一致です」
佐伯先生が続ける。
「この生徒を同じクラスとして見ている人はいますか? 二人で十分です。手を挙げてください」
「あとで困らないように、今の確認を紙に書いて残します」
すぐに二人が手を挙げた。
「ずっと同じ席です」
一人が言った。
「昨日も一緒に残りました。朝も話しました」
もう一人が言った。
佐伯先生は頷いた。
そして、橘先生に向けて言う。
「本人確認は取れました。クラスの認識も一致しています」
「ただ、名簿の漢字だけが合いません。本人は書こうとすると手が止まります」
橘先生が短く言う。
佐伯先生に向ける口調だけ、少し整う。
「よし。本人として扱いましょう。訂正は朝の確認時間だけでお願いします」
朔が悠斗に小声で言う。
「担任が分かってても、紙で確認し直さないといけないってことか?」
「そうだ。世界のルールで、確認を欲しがってる」
悠斗が返した。
倉庫前に戻る。
ひよりが紙を並べたまま待っている。
ひよりは橘先生に敬語で確認する。
「橘先生。二年三組の確認は終わりましたか?」
「ああ。本人はいる。名簿の漢字だけが合わない」
ひよりの目が少し細くなる。
でも声は落ち着いている。
「分かりました。名簿の訂正は、ひらがなで一時的に統一にします。橘先生、よろしいでしょうか?」
「そうしよう。勝手に漢字で統一すると、余計に手間が増える」
ひよりは紙を一枚出した。
見出しを書く。
【名簿の書き方(当面の統一)】
・読みを優先する(同じ読みは同じ人として扱う)
・漢字が合わない時は、ひらがなで書く(後で本人に確認する)
・訂正は朝の確認時間だけで行う(夜は触らない)
・訂正した人の名前を残す(誰が直したか分かるようにする)
朔が覗き込む。
「これなら俺でも間違えない。やることがはっきりしてる」
「間違えない形にしたいの。間違うと揉めるから」
ひよりが朔に言った。
悠斗は名簿の余白にメモを書く。
二年三組。
名簿外一名。
本人確認は席と友人で一致。
漢字のみ不一致。
書き終えた瞬間。
倉庫端末が鳴った。
ピ。
悠斗の指が止まる。
画面を見る。
白い表示。
短い文。
《名簿の訂正は記録を要する》
規約改変。
悠斗はひよりに言う。
「来た。名簿の訂正も、記録が必要になった」
ひよりは画面を見てから、紙を見た。
迷わず形を作る。
「大丈夫。さっきの『訂正した人の名前』に、時刻を足します。紙の記録として残せます」
ひよりが言った。
ひよりは橘先生に敬語で確認する。
「橘先生。訂正した時刻も書く形にしていいですか?」
「ああ。後で追える形にしてくれ」
ひよりは紙に一行足した。
【名簿の訂正(記録欄の追加)】
・訂正した時刻(何時何分)
・訂正した人の名前(確認係)
朔が腕を組んで言う。
「世界のルール、やたら細かいな。すぐ増えるし」
「細かいなら、こっちが先に形を作ろう」
悠斗が言った。
ひよりが悠斗を見て言う。
声は柔らかい。
でも芯は強い。
「悠斗。名簿にいない人が、他にも出るかもしれない。見つけたら、私にすぐ教えてね」
「分かった。見つけたら、その場で印を付けて持ってくる」
悠斗が答えた。
橘先生が周りの生徒に言う。
「今日は授業は無理だ。午前中は確認と整備をやる。困ったら呼べ」
ひよりも声を少し張る。
「午前中は『確認の時間』にします」
「名簿と人数のズレを見つけたら、勝手に直さないでください。確認係に声をかけてください」
生徒が頷く。
悠斗は倉庫端末の画面の下を見た。
そこには「次の更新までの残り時間」が小さく出ている。
数字は確実に減っている。
悠斗は紙の山を見る。
名簿。
訂正の記録欄。
確認の手順。
今日やることは見えている。
悠斗はペンを握り直して、次の教室へ向かった。
廊下の先に、まだ閉じた扉がいくつも見える。
その一つ一つに、名簿のズレが隠れていそうだった。




