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※暴力、虐待描写があります。苦手な方はご注意ください。
そんなある頃から、ささやかな変化が生じる。
そろいのエプロンと頭巾を身に着けた下働きの少女たちが、男爵夫人の目を盗んで、こっそり食事を差し入れてくれるようになったのだ。
掃除や洗濯を担当する彼女らのほとんどは王都で集められた町娘で、同じ平民として「王子さまに見初められて玉の輿」という、古今東西の少女たちの不変の夢を叶えたルディに尊敬と羨望の念を抱いており、マレット男爵夫人の仕打ちを知ると同情を寄せるようになったのだ。
少女たちは自分たちの食事を隠し持って、離宮のジェラルディン嬢へ手渡すようになる。
下働きの彼女らが持ってくるのは固いパンやチーズの欠片、小さなリンゴくらいで、王宮の料理人が作った、本来ルディの口に入るはずだった料理には程遠いものばかりだ。
それでもルディは少女たちの気遣いに琥珀色の瞳を潤ませて感謝し、渡されたパンやチーズをほおばっては、お礼がわりに、習いたての文字や基礎的な計算、淑女としての基本的な挨拶などを教えるようになった。
教師たちの目を盗んでのことだから、ごく短時間の出来事だ。
けれど同じ年頃、同じ身分の少女たちとのそういう他愛ない時間は、味方のいなかったルディにとって、たしかに心癒される一時だった。
けれど、すぐにマレット男爵夫人にばれる。
ルディが下々の者と親しくし、あまつさえ食べ物までほどこされていると知ると、男爵夫人は文字通り烈火のごとく怒り狂って、問題の下働きたちと離宮に通う教師たちを集めた。そして彼らの前にルディを引きずり出すと、今までは本や書き物机相手に使っていた小型の鞭を、ルディ自身に対して用いたのだ。
「なんと情けない、恥知らずな真似を! 仮にも王太子殿下の寵をうけた者が、卑しい下賤の物乞いのように、下女どもから食べ物を恵んでもらうとは!! 貴女はどこまで愚かなのです!! それほどまでに王太子殿下の寵を、王族の威光というものを軽んじているのですか!? 田舎の平民風情が、なんという思い上がりを!!」
「違…………っ」
反論も叶わぬほどの頻度で、夫人の鞭がルディの背中や足を襲う。
「もはや、フェザーストン嬢と比較してどうのという場合ではありません! こんな邪悪な愚者のために、我々由緒正しい貴族が集められたとは! 貴女の行為は、王太子殿下やロディア王家だけでなく、我々貴族をも侮辱する行為です!! いっそ死んで詫びるべきです、なんとかおっしゃい!!」
ちぢこまったジェラルディンは身を守るのにせいいっぱいで、返答どころではない。
それがますますマレット男爵夫人の罵声と鞭を煽る。
夫人に命じられて壁際に並んだエプロン姿の少女たちも、目の前の惨状に青ざめふるえあがり、泣き出す者まで現れた。
男爵夫人の怒声は、彼女らにも投げつけられる。
「めそめそ泣くんじゃないっ!! お前たちの立場をわきまえぬ行動が結果が、これです! よく目に焼きつけなさい、平民どもがっ!!」
鞭の先が少女たちのすぐ爪先で鳴り、少女たちは恐怖にちぢこまって顔をおおう。
「その人たちは…………関係ない…………」
ルディがようよう言葉をしぼり出せば、即座に鞭が飛んでくる。
「この愚か者! 今、お前が口にすべきは、そんな言葉ではないでしょう、わからないのですか!? 返事なさい!!」
ひときわ音高く鞭が飛び、その場にいた男爵夫人以外の全員が内心で「この状態で返事できるはずがない」という意見で一致する。
「わからないなら、教えましょう! 貴女が口にすべきは謝罪です! 反省です! 由緒正しい家柄である我らから教わる幸運に恵まれた卑しい平民の分際で、薄汚い物乞いのような真似をして我らの努力を無にした! その事実を、まず謝るべきなのです!! こうやって!!」
マレット男爵夫人はルディの淡紅色の髪をわしづかんで、彼女の頭を下げさせる。床ぎりぎりまで額を近づけさせるが、激突させて顔に傷を作るような失態はおかさない。
「早くなさい!! 謝罪するのです!!」
髪を何度も引っぱる。
「す…………すみま…………」
「『すみません』じゃない、『申し訳ございません』でしょう、この低能!! 物覚えの悪い下賤の小娘が!!」
「もうしわけ…………」
「聞こえない! もっと大きな声で!!」
「申しわけ…………っ」
「発音が悪い!!」
何度も怒鳴っては、やり直しを命じる様に、さすがに教師たちもおそるおそる男爵夫人を制止する。
「あの、マレット男爵夫人。もう、そのくらいで」
「そうですぞ、夫人。ジェラルディン嬢も下働きたちも、よく反省したようですし…………」
彼らも黙って夫人の凶行を見守っていたわけではない。あまりの惨状に言葉を失い、立ち尽くしていたのだ。教師の一人が進み出る。
「ジェラルディン嬢は、畏れ多くも、王太子殿下が妃に望まれている方。そのように何度も打ち据えて、殿下に進言でもされたら、立場が悪くなるのはマレット男爵夫人ですぞ?」
けれどマレット男爵夫人は「はん!」という風に吐き捨てた。
「お黙りください!! この娘の教育係は、わたくし! わたくしが王妃殿下から命じられて、一任されているのです!! 王太子殿下がなんと言おうと、王妃殿下が罷免を命じない限り、わたくしは、わたくしの責務をまっとうします!!」
そう言い切ると、ふたたびルディに謝罪を要求する。
淡紅色の髪が何本も抜けて床に散らばり、室内用の普段着のドレスもぼろぼろになった状態で、ルディはどうにかこうにか、うつろな目で教師たちに謝罪する。
「いえ、もう反省の気持ちは充分、伝わりました」
「そうです。もう充分ですから、どうぞお着替えと手当を」
平民とはいえ、少女のあまりに悲惨な様子に、貴族の教師たちも他に述べる言葉がない。
マレット男爵夫人もやっと気が済んだのか、鞭を置いて、壁際にかたまって泣いていた下働きたちを部屋から叩き出し、手当のための人手を呼んだ。
翌日。マレット男爵夫人は王妃に頼んで、下働きの少女たちを全員解雇する。
同僚だった教師たちも全員、王妃に罷免を依頼した。
「一人二人ならまだしも、全員とは。あの者達はみな、パトリシア嬢の王妃教育に選ばれた、優秀な者たちですよ? それなのに力不足だったと、そなたは申すのですか?」
「いいえ、王妃殿下。あの『ロディアの月女神』たるフェザーストン嬢を育てあげた方々です。力量は申し分ありません。ただ、それゆえにあの卑しい田舎娘にはもったいないと申しますか…………有り体に申し上げて、娘のほうがついていけぬのです。ですから一度、水準を落として教育しなおしてから、あらためて彼らの授業をうけさせるほうが、効果的なのではないかと」
「ふむ…………」と、美しい王妃は細い眉をかすかに寄せる。
「そなたの判断力は信用しています、マレット男爵夫人。そなたがそう申すなら、そうなのでしょう。しかし今から全員、選びなおすのは…………」
「おそれながら、王妃殿下。わたくしめに何人か心当たりがありますゆえ、王妃殿下のお許しさえいただければ、新しい教師はすぐにそろえることが可能にございます」
「まあ、よいでしょう」
王妃はさほど迷う様子もなく、信頼する元自分付き女官の進言を聞き入れると、侍女に命じて金貨の詰まった大きな革袋を持ってこさせて、マレット男爵夫人に下賜する。
「とにかく。ロディア王家の名誉のため、王太子に見る目がなかった、などという悪評を広めてはなりません。予算は私が確保します。教材だろうが教師だろうが、一流のものを与えて、どうにかして期限までに、あの娘をそれなりの淑女に仕立てあげるのです。出自がどうであれ、気品と教養がどうにかなれば、王太子の面目は立ちます。頼みましたよ、マレット男爵夫人」
「心得ております、王妃殿下」
こうして、マレット男爵夫人以外の教師が全員罷免され、夫人は自分の息のかかった教師たちのみを選んで、出来の悪い生徒の包囲網を完成させる。
ルディの手当てをした医師にも、王妃から下賜された金銭をにぎらせて、密告を封じた。
さらに周到なことに、マレット男爵夫人は服に隠れる部位しか鞭打っておらず、怯える田舎娘にさらなる脅しもかけた。
「王太子殿下や他の方々に、つまらぬ告げ口などしてみなさい。即、貴女の母親の治療を止めますからね。私には王妃様がついているのです。王太子殿下がなんと言おうと、その程度の権限は持っているのですよ」
かくて、離宮はマレット男爵夫人の城となり果てる。
田舎の町娘は、王太子妃候補とは名ばかりの、男爵夫人の奴隷同然だった。
(帰りたい…………)
ロアーの町の娘は、痛烈に祈るようになる。




