8
離宮にマレット男爵夫人の怒声が響くのが日常となってから、一ヶ月後。
ジェラルディンは王宮での夜会や音楽会への出席を命じられる。
習ったことが本当に身についているか、実地での試験を兼ねた顔見世であり、ここで貴婦人や令嬢たちに好感を持たれれば今後、王宮での立場が優位になる、という人脈作りでもある。
最初の数回は、ルディも夜会や舞踏会が楽しみだった。
きれいなドレスを着て舞踏会で王子様とダンスを踊るのは、少女が一度は夢見る光景だし、普段はレッスンつづきで、ルドルフと顔を合わせることも許されないルディにとって、舞踏会での彼とのダンスや、慣れない勉強に苦労するルディを労わってくれるルドルフの言葉は、王宮での数少ない癒しだった。
この頃は貴族令嬢たちや貴婦人たちも穏当というか、好意的だったと思う。
けれどルドルフはしばらくすると、王都を離れることとなった。
父王の体調不良を理由に、国王がおこなう予定だった視察を王太子が代行するよう、王妃に命じられたのだ。
「あなたがあの娘を娶りたいという判断の是非については、なにも言いません。ですが、困難な要求を通したいのであれば、あなたも相応の対価を払いなさい。具体的には、王太子としての責任と役割を、十二分以上に果たすこと。それを成し遂げてはじめて、あなたの言葉に重みが加わり、周囲もあなたの話に耳をかたむけるのです」
母親である王妃からそう告げられ、ルドルフも殊勝に頭を垂れる。
「必ずや役目を果たして、この国に私以上に次期国王にふさわしい者はおらぬこと、証明して見せます」
そう言い放つと、婚約者候補の少女にも何度も別れの言葉をくりかえして、王宮から出て行ったのである。
すると令嬢たちは、待っていたかのように手のひらをかえした。
王太子殿下の前では、にこにこしてルディを褒めていた令嬢たちが、王太子が不在となった途端、正体不明の田舎娘を無視するようになる。
高貴な身分だけあって、あからさまに暴力をふるったり、面とむかって悪口や暴言を吐いたり、ドレスや持ち物を汚したり隠したり、ということはない。
けれどルディが話しかけると、すぐに「用ができましたので」と言ってその場を離れて、戻ってこない。そして友人たちとこちらを遠巻きにしたまま、ルディを見ては扇子で口元を隠しつつ、見せつけるように笑い合っているのだ。
傍目には少女たちが内緒話に興じるほほ笑ましい光景だが、話の内容がルディに対する陰口であるのは、彼女らの表情から明らかだ。
ルディも努力はした。
「可愛らしい髪飾りですね、お髪の色によく映えてお似合いですわ」
「先ほどの朗読はお見事でした。すばらしい声でしたわ」
そんな風に、相手のいいところを見つけては逐一褒めて、会話のとっかかりにしようと試みる。
言われた相手も、
「まあ、光栄ですわ」
と、いったんは嬉しそうにするものの、すぐに
「そうそう、用事を思い出しましたので、これで失礼します」
と離れていくのだ。
上流の貴族が駄目なら下流の貴族だ、と相手を変えてもみたが、こちらも話しかけた途端、困ったようにあやふやに笑っては、そそくさと離れて行ってしまう。
下流は下流で、ルディをとりまく状況を理解しており、巻き込まれまいと保身に懸命なのだろう。無理に引き留めるのも気の毒で、けっきょく会話はつづかないままだ。
「なんて情けない! 平民といえど、王太子妃候補を名乗るなら、令嬢たちとの会話くらい、簡単にこなしてみせるべきでしょう! フェザーストン嬢など、なにをせずとも常に令嬢たちに囲まれていました、嫌われるのは貴女様に魅力がないからです、もっと努力なさいませ!」
夜会が終わるたび、マレット男爵夫人のお説教が飛んでくる。
ルディは叫びたかった。
(これ以上、どう努力しろっていうの!?)
努力や根性でどうにかなるなら、苦労はない。
令嬢たちはとにかく徹底して、平民という身分が気に食わないのだ。
そして、そうやって離れていった彼女たちの行きつく先はといえば、当然のようにパトリシア・フェザーストン公爵令嬢だった。
王宮の庭園で、廊下で、舞踏会場の控え室で。
フェザーストン嬢を囲んで、いくどとなく同じ会話がくりかえされる。
「まったく。王太子殿下ともあろう御方が、あのような下賤の娘に惑わされるなんて」
「お聞きになりました? さきほどのあの娘の発音ときたら! もう、淑女教育をうけてだいぶん経つのに、いまだにあの程度ですのよ。いくら一流の教師に指導されても、持って生まれたものが違うのではねぇ」
「本当ですわ。ルドルフ殿下は何故、あの娘にああも熱をあげておいでなのでしょう。冷静沈着、文武両道と名高い御方でしたのに。血迷ったとしか思えませんわ」
「気品といい教養の深さといい、パトリシア嬢以上に王太子妃にふさわしい令嬢など、このロディアには存在しないでしょうに。そのパトリシア嬢をさしおいて薄汚い平民を妃に、だなんて…………実現したら、ロディア史上最大の汚点となりますわよ」
何度、そんな会話を聞いたことだろう。
フェザーストン嬢自身は、令嬢らしいつんと澄ました優雅な横顔で悠然とティーカップに口をつけ、とりまきの会話が一段落するのを待って口を開く。
「そろそろ気が済んだでしょう。聞き苦しい話題はおやめくだいな、貴族にふさわしくありませんわ」
フェザーストン嬢がそう言うと、さしもの令嬢たちも従わぬわけにはいかず、慌てて別の話題に移るのだ。
それでも、陰口や無視が止むわけではない。
貴族たちにとってルディは、高貴と由緒の糸で精緻に編みあげてきた、貴族社会という名のレースを引き裂こうとする汚れた野良猫であり、『婚約者のいる男性を篭絡して、非のない婚約者を追い落とした、玉の輿狙いの欲深な悪女』にすぎないのである。
(わたしは、ルディに婚約者がいるなんて知らなかった。王太子殿下ということすら、教えられていなかったのに。パトリシア嬢のような婚約者がいると知っていれば、絶対にこんなところに来たりしなかったわ!)
ちなみに、ルディがルドルフからなにも知らされていなかったことを、国王や大臣たちは認めている。だが国王は体調不良で自室に留まる日がつづき、大臣たちも会議での内容を吹聴するほど軽率ではない。
なによりルディの証言をそのまま明かせば、王太子の軽率と不誠実が明らかになる。
ゆえに「王太子妃となるなら、悪評をはね返すくらいの気概はなければ」という名目で、重臣たちは口をつぐんでいたのである。
これらの状況を、王太子ルドルフが知らされていれば。
身を呈して彼女をかばいもしただろう。
けれど現実には、ルドルフは王都から遠く離れた地方の城。
視察の合間を縫ってしたためられたルドルフからの何通もの手紙に、ルディも習って間もない文法や綴りを駆使して、くりかえし訴える。
『親愛なるルディ。どうか、わたしとの結婚を考えなおしてください。国王陛下は「寵姫」を迎えるのが習わしなのでしょう? わたしはその寵姫になります。王妃にはフェザーストン嬢を迎えてください。わたしは愛人でじゅうぶんです…………』
『…………わたしにも理解できます。ルドルフ殿下には、フェザーストン嬢が必要なのです。あの方以上に、王太子妃にふさわしい方がいるでしょうか。どうか、いまからでも国王陛下にお願いしてください。平民のわたしに王太子妃は務まりません。分不相応です…………』
白い便せんに記された、血を吐くような痛切な心情。
けれど、そのたびにルドルフから帰ってくるのは、優しい拒絶の文章ばかりだ。
『案ずることはない。ルディはよくやっている。こうして君からの手紙を読むだけで、その成長ぶりが実感できる。君は、きっといい王太子妃になる。どうか自信を持ってくれ。私には君しかいない。どうか他の女との結婚など、冗談でも勧めないでくれ――――』
広い王宮にただ一人の味方も見つからず、ルディはどんどん痩せて、同時に孤立していく。




