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黄泉帰りの妃  作者: オレンジ方解石


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 ロアーの町のジェラルディンは、ルドルフ王太子が国王から贈られたという瀟洒な離宮に案内された。

 いそいで教師が選抜されて、三日後には本格的な淑女教育、いや、王妃教育がはじまる。

 語学、歴史、地理、古語に外国語、修辞学。

 文法も計算も宮廷作法もダンスも発声も、淑女の会話術も詩の朗読も、子爵夫人の館で習った時よりさらに入念に、本格的に教わる。声楽やピアノ、ハープ、刺繍に修辞学など、新たな教科も加わって、朝起きてから夜、寝台に入るまで休む間もない。

 食事の時間すら行儀作法の練習の一環で、豪華な献立がおいしいのかまずいのか、記憶にも残らなかった。


「フェザーストン公爵令嬢は七歳から王妃教育をはじめられ、去年、晴れて修了されました。ジェラルディン殿には九年分の課題を一年で…………とは申しませんが、仮にも王妃候補となられたからには、最低でも半分は一年以内に修了していただきます。怠けている暇はございません、さっそく今日から授業(レッスン)をはじめます」


 冷然と言い放ったのは、マレット男爵夫人。

 白髪交じりの四十代半ばの女性で、ロディア建国におおいに貢献して、初代国王から男爵位を授かったという由緒正しい家柄の女性だ。

 もともと王妃付き女官の一人だったが、立ち居振る舞いが優雅で宮廷作法に通じていたのを主人に見込まれ、フェザーストン公爵令嬢の教育係の一人となり、今回晴れてロアーの町のジェラルディンの教育係をまとめる責任者に任命された、ロディア王妃の信頼厚い女官である。

 だがロディア王宮でのルディの苦しみの半分は、この女性が原因だった。


「貴族令嬢は食器の音を立てません! ナイフの順番も間違っております!」


「背筋を伸ばして! 爪先はやや内側にむけて! 肩をおとす!」


「発音は明瞭に! お腹から声を出すのです! ぼそぼそしゃべらない!」


「朗読は、ただ書いてあるとおりに読めばいいというものではありません! 詩人の心に寄り添いながら、情感を込めて優雅に謳うのです!」


「ダンスは令嬢の基本です! ワルツ、メヌエット、ガボット、他すべてのステップを習得していただきますよ!!」


 マレット男爵夫人を紹介された日から、彼女の注意が飛んでこない日はない。

 けれど必要な指導が飛んでくるだけだったら、ルディももっと耐えられたかもしれない。

 田舎の町娘だった自分が淑女として至らないところだらけなのは、本人が一番、自覚も実感もしていたし、王妃となれば求められる水準がとほうもなく高いことも察せられる。

 けれどマレット男爵夫人の注意は、注意の範囲を逸脱していた。


「どうして、間違えるのです!? 昨日も一昨日も、習った箇所ではありませんか。こんなに何度も同じ間違いをくりかえされる無能な方はおりませんよ!? 生まれ育った田舎と勝手が違うのは察しますが、王太子妃を目指すなら、いつまでも田舎の町娘気分では困ります。品のない王妃は王家の恥。王太子妃が無知で無教養であれば、恥をかくのは下にいる我々です。いいかげん、町娘気分はおやめくださいませ!」


 ルディが一つ間違えるたび、マレット男爵夫人のお説教が十、飛んでくる。

 ルディにしてみれば、授業の多くは初めて習う分野ばかりだ。完璧な結果など出せるはずもない。

 けれど男爵夫人はわずかな間違いも許さず、常に最高の結果のみを求めてくる。

 なによりマレット男爵夫人は自身の家柄や由緒をこのうえない誇りとしており、平民の娘が王太子殿下に望まれたことも、自身がその田舎娘の教育係を命じられたことも心底気に入らないらしく、ことあるごとにルディの身分をあてこすってきた。


「何度くりかえせば理解していただけるのですか? もしや田舎の方には、わたくしめの王都の発音は聞きとりづらいのでしょうか? それともダンスや勉強は田舎では必要なかったので、王都でも必要ないと誤解なさっているのでしょうか?」


「いえ、そういうわけでは」


「でしたら何故、間違えてばかりなのです!!」


 ルディが思わず反論すると、男爵夫人は手にしていた小型の鞭でテーブルを叩いた。ルディの肩がびくりとふるえ、インク壺が跳ねて白い紙に黒い染みを作る。


「貴女様を指導する者はみな、れっきとした貴族の生まれの、一流の教師ばかりです。わたくしを含め皆、正統なる未来のロディア王妃パトリシア・フェザーストン嬢の教育係を務めました。その我らが、平民一人のためにここまで時間と手間を費やしているのに、まるで身につかないとは…………もしや、やる気がないのでしょうか? それとも、ご自分が王太子殿下に望まれたのをいいことに、我々を見下し、侮られておいでなのでしょうか。王太子妃になれば、我々下位の貴族などいつでも罷免できると」


「違います、そんなことは考えていません」


「なんと情けない。フェザーストン嬢はこの程度の基本、一度で理解なさったというのに」


 マレット男爵夫人も言ったように、ルディについた教師たちは、もともとフェザーストン嬢の王妃教育のために現王妃が選りすぐった人材ばかりで、本人たちも未来の王妃を育てる一員に選ばれたことを誇りにしていた。

 それが突然、どこの馬の骨とも知れぬ平民の娘を指導しなければならなくなったのだから、困惑しないはずがない。馬鹿にされた、とすら感じたかもしれない。


「フェザーストン嬢は、なにもかも完璧でした。ロディア王国でも王族に次ぐ高貴な血筋に、抜きんでた容姿、優れた才能の数々。歴史も数学も楽器の演奏も、教わったことはすぐに吸収して、どんなダンスのステップも軽やかに踊りこなし、言葉遣いも発音も立ち居振る舞いも、優雅の極み。ロディア広しといえども、あの方を越える淑女は王妃殿下をのぞいて、おりませんでしょう。それなのに貴女様ときたら、こんな基本もおぼつかないとは」


 マレット男爵夫人は特に、血筋も能力も美貌も申し分なかったフェザーストン嬢がお気に入りだったらしく、ことあるごとにフェザーストン嬢の名を出してはその麗質を称賛し、最後にルディと比較してこき下ろす。

 そして、さも己が哀れな被害者であるかのように嘆くのだ。


「ああ。男爵位とはいえ、マレット家はロディア初代国王直々に爵位をいただき、ロディア建国にも大きく貢献した、由緒正しい家柄。それなのに、こんな卑しい物わかりの悪い田舎娘の教育係に貶められるとは、祖先が知ったら、どれほどお嘆きになることか。王妃殿下直々のご命令でなければ、こんな物覚えの悪い平民など…………」


 ルディはマレット男爵夫人の嫌味に耐えた。耐える他なかった。

 すると男爵夫人の罰はさらに悪化した。

 ある日のこと。ルディはルドルフとお菓子作りの話題になる。


ルディ(ルドルフ)は生姜クッキーを食べたことないの? あんなにおいしいのに?」


「ないと思う。ルディ(ジェラルディン)のいうのは生姜パンとは別物なのだろう?」


「パンでなくて、お菓子よ。パパルナ地方では生姜クッキーには、刻んだ干しリンゴを混ぜて焼くのが定番なの」


「へえ、そうなのか。王宮では見かけないな」


「機会があれば焼いてあげる。わたしのクッキーはおいしい、って近所でも評判だったのよ」


「それは是非とも食べてみたいな」


 ルドルフとの他愛ない会話だった。恋人同士にはよくあるやりとりだったろう。

 けれどマレット男爵夫人はルドルフが離宮を出ると、怒鳴りはじめた。


「仮にも王太子妃候補が『クッキーを焼いてあげる』とは、なんと下品で卑屈な発想! 自ら料理人に成り下がるなど、やはり貴女の性根は平民、我々貴族の気高さなど微塵も持ち合わせていない、理解もできないのですね!?」


「わ、わたしはただ、ルディ(ルドルフ)が食べたことがないというから」


「お黙りなさい!!」


 マレット男爵夫人は落雷のごとく一喝する。


「料理も菓子作りも、使用人の仕事! 王太子妃のすることではありません!! ああ、やはり貴女は、あの高貴な令嬢(フェザーストン嬢)の足元にも及ばない。今度、そのような労働者の台詞を口にしたら、舌を引き抜きますよ!! いいですね!?」


 それから数日後。

 ルディの部屋の窓のそばに雑巾が一枚、落ちていた。

 室内の掃除を担当する下働きの忘れ物だったが、ちょうど窓の隅に小さな汚れを見つけ、気になったルディはその雑巾でささっと拭いた。

 それをマレット男爵夫人に目撃され、烈火のごとく怒鳴られ、頬を平手で叩かれた。


「あれほど注意したのに、今度は掃除とは! 貴女は心底、下賤な人間なのですね!!」


 ルディははじめ、なにをされたかわからなかった。

 高貴にはほど遠い生まれでも、母に愛情深く育てられた彼女は、他人の暴力を経験したことはなかったのだ。

 けれどこれで決壊したマレット男爵夫人は以降、容赦なく体罰を加えてくるようになった。


「また間違えた! やりなおし! 正しく演奏できるまで、食事は出しませんよ!!」


 歌やピアノ、詩の暗記やダンスのステップ。一ヶ所でも間違えると、食事をもらえない。

 昼食だろうと夕食だろうとおかまいなし。空腹を抱えて寝台に入り、翌朝目覚めても「昨日の課題の出来が悪かったから」と、朝食を食べさせてもらえないこともしばしばだ。

 菓子類はもちろん肉や魚、パンやチーズや食後の果物の一欠片すらもらえず、かろうじて許されるのはミントやレモンで味付けされた水だけ。

 それでルディが空腹でふらついてステップを間違えても、夫人は食事を与えるどころか「完璧にできるまで食べさせません」の一点張りだ。

 当然、ルディの体重は加速度的に減りはじめる。

 それでも夫人は動じず、むしろ、


「よい機会です。細い手足や腰は、優美な淑女の必須条件。少し体重を落としましょう」


 と言い出し、ルディの血色が明らかに悪くなっても、


「白い肌は高貴な身分の証です。王太子妃を目指すなら、平民のような日焼けは見苦しい。静脈が浮きあがるくらい青白くあるべきです」


 と、けろりとして言い放つ。

 ルディはふらふらになりながらも耐えた。耐える他なかった。

 帰る方法はわからなかったし、帰れば母の治療費も出してもらえなくなる。

 離宮に留まる以外に選択肢はなかった。

 昼間の授業のあとは夜遅くまで復習して、ダンスやピアノの練習をくりかえす。

 これらの努力はまったく実を結ばなかったわけではない。

 一介の田舎娘だったルディは、数ケ月前の身分が嘘のように様々な教養を身に着けていき、立ち居振る舞いも洗練されていく。

 が、それでも生まれながらの貴族である令嬢たちには、そう簡単には及ばなかった。

 特に、あのパトリシア・フェザーストン公爵令嬢には。

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― 新着の感想 ―
初代から何代目かは知らんが男爵から爵位はあがってないのはその程度ってことでは。静脈が浮き出てるこそ美しいとか普通に出産とかのこと考えてねえだろ、男爵位の人ほど過剰に平民を見下してるのはなんだろうねえ
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